新聞に出てしまう
さて、伸童舎立ち上げは新年になってからなのだが、1979年は本当にギリギリになってから帰郷することになった。12月30日の午後の新幹線で京都に着き、山陰線に乗り換えて、丹波の福知山に着く頃には真っ暗になっていた。これで、4日までしか休めないのは厳しいと思っていた所へ、高橋部長から電話があった。
「小牧なぁ、7日まで休んでいいから、8日には大阪にきてくれ」
別に福知山線で大阪へ出て、それから東京に帰ってもかまわないのだが、どういう事なのだろうと訝る。
なんと、梅田の阪急デパートで開催される「アニメック初売りフェア」の最終日に、ゲストとしてガンダムのシナリオライターのひとり星山博之氏と一緒に出演しろという業務命令であった。文句を言うな、海野社長は開催日初日から毎日阪急に出ているのだからという話であった。考えたら海野社長の実家は阪急から徒歩15分の梅田なんだから、何か違う気がするが、正月休みが3日も伸びるのだから文句はなかった。
「さぉ、早うせんと一夜飾りになるやろ」
祖母は、二年ぶりに帰郷した孫をこき使い注連飾り取り付けさせた。はいはい、こうなったら何でもしますがな。
1980年の初詣は、従兄弟連中と市内の一宮神社に出掛けた。帰って来たら大騒動である。
「大変やがな、あんた新聞に載っとるで」
別に事件は起こしてませんけど。
1月1日の分厚い朝刊の本誌ではない。年賀案内やら正月行事の付録の方だ。梅田の阪急デパートだけでも数ページはある広告の中に「アニメック初売りフェア」も掲載されていたが、他の絢爛豪華なゲストに混じって「あのアニメック編集長 小牧雅伸来たる」まであった。しかし、「あの」ってのは、何だろうねぇ。この頃から「アニメック」というと「あの」がついていたような気がするんですけど……。
「事件も起こさんと、新聞に載るちゅうのはたいしたもんやで。高校生にもなってテレビ漫画ばっかり見よって、どうなるかと思うたけどなぁ」
そう祖母が感心していた。
すいません、大学生にもなってまだアニメを観ています。それが仕事になっちゃったんだから勘弁してよ。
どちらにせよ、この広告のおかげだろう。以後の祖母は、あまり心配しなくなったようだ。
星山さんとは『無敵超人ザンボット3』からの付き合いだが、不思議に仲が良かった。虫プロ倒産後のフリー仕事が、私のアルバイトと妙にだぶっていたからだろう。田無にある某飲食店のチラシに同時期に関わっていたのが判明した時には、二人で盛り上がった。
「なぁにが、うちはテレビCMもやってる大手ですからだよなぁ」
「そのくせ漢字読めないんですよね」
「そうそう、今時はそんな漢字は使わないって何だよ」
みたいな会話だったと記憶する。
後にアニメックに連載小説「地球の朝は今」を連載して頂いた時には、ご自宅までせっせと原稿を取りに通ったものである。そういうわけで、阪急でのイベントは、講演だか漫才だかわからない内容ながら盛り上がり、集まったガンダムファンには評判の良い物であった。星山さんの方が10歳年上なのだが、読者投稿では私の方が老けて見えたという意見が圧倒的に多かったのが不満ではあったのだが……。もちろん二人とも客席が沸き立つのは、自分たちの人気ではなく1月一杯で打ち切りの決まったガンダム人気であることは承知であった。観客の興味も富野監督の打ち合わせでの様子や、インタビュー中の活字にならなかった部分に集中していた。最後には「シナリオに駄目出しする時の富野監督」とか「記事構成のミスについてお説教をする時の富野監督」という物まね合戦になっていたくらいである。
そりゃあ講演じゃないだろうと思うのだが、それだけガンダムの情報に飢えたファンが多かった証といえよう。
この連載に付録としてついたラジオの第一回収録寸前、星山博之氏急逝の知らせを受け愕然とした。一年前に上井草の駅前で「どう、最近?」「ぼちぼちでーす」と立ち話をしたのが最後の会話になってしまったのだ。まだまだお若いのにと思うと残念でならない。