伸童舎秘話
ここで、話は飛ぶ。話は飛ぶようだが、これもまた重要な出来事である。
この状況下の中で誕生したのが伸童舎という編集プロダクションであった。
びっくりした人も多いと思うが、ガンダム記録全集の為に立ち上げたのが、あの伸童舎なのである。おそらく、伸童舎の社員でもこれを読んでのけぞっている人間がいるかもしれないが、そういうことなのである。
もともと池袋でやっていた編プロ「黎明企画」は、学生である私が少年画報社と契約するわけにもいかず、受注した野崎プロデューサーが事務所や初期機材を手配してくれた物である。デザイナーやレイアウターも全てプロデュースしてもらったから、最初から商業誌の体裁を保てた本となったのだ。実際に自分で本を作ってみると、プロデューサーがいないというだけで同人誌同然の本しか作れなかったわけで、なんとか本としての体裁になるのに一年間も勉強しなければならなかった。
そういうわけで、伸童舎の初期スタッフは、野崎プロデューサーと私。直後に千葉 暁を加え、さすがに「アニメック」で手が回らなくなり千葉 暁に全てを任せて去るという経緯があった。
おそらく、そんな話は、現在伸童舎で活躍している人は知らないと思う。千葉ちゃんは、その後に「月刊ディアルマガジン」の編集長となり、もともと文才のある人だったので、今は小説家として活躍しているので、読んだ人は多いのではないだろうか。
かくして、予算管理は野崎プロデューサーに任せ、私は給料の代わりに場所と時間を貰ったのである。当時は新高円寺に住んでいたので、丸の内線と中央線が使える新宿御苑のアニメック編集部には良いのだが、近いようでいて上井草のサンライズに行くのは不便だったのである。
「じゃあ上井草で物件探すかぁ」という野崎プロデューサーの意見は無視し、井荻駅前の2LDKのマンションを借りた。上井草に住んだら、仕事もオフも関係ない状態になるのは見えているからである。当然のことながら、ここの敷金家賃は伸童舎持ちということになった。
ちなみに、富野監督が作詞用に使うペンネーム「井荻燐」は、「井荻の隣」で上井草の事である。一駅離れていれば、安全だと思ったのだが、『伝説巨人イデオン』の頃になると、サンライズのスタジオが線路に沿って増殖し、とうとう井荻スタジオまで出来て私生活が皆無という恐ろしい話になるのだが、それは数年後の事である。どちらにしろ、1979年からこの騒動は始まっていたのだ。