アニメックの頃… 著/小牧雅伸

第4回 「ガンダム時代」

「アニメック」6号完成

アニメック6号表紙画像

さて、話の順番が前後するが、今回は「アニメック」6号発売からである。大日本印刷にて製造、大手取り次ぎにより流通した商業誌としての「アニメック」がやっと書店に並んだ。実際に4万部という部数は、全国の書店に完全に並ぶ部数ではない。実際に流通したのは3万部で、ラポートがイベント売りと予備に保管しているのが1万部であったから、読者のアンケートハガキを調べると、特急の停車する駅の大きい書店にしか並ばなかった事になる。

今では、どこの書店にも「アニメコーナー」が存在する。月刊アニメ誌やホビー誌や特集別のムックが一角を占めていて、そう探し回る必要もないだろう。だが、1979年にはこのような分類は存在しなかった。一部の書店では関連する雑誌やコミックをまとめて置いてはいたのだが……。なぜなら、この手の本としては老舗にあたる「OUT」が、未分化のサブカルチャー誌として扱われ、発売日は27日。「アニメージュ」と「ジ・アニメ」は大判グラフ誌として扱われ、発売日が10日。ましてや隔月刊の1日発売の「アニメック」は、まったく別扱いとされたのである。これらの雑誌類が「ファンロード」を含めて一角に並ぶようになったのは、翌年になってからのことだった。

発売日に都内近郊の書店を回ったが、置いてあるのか、置いていないのかは一目では判別できなかった。置いてあれば、エロ本コーナーだろうと、児童書コーナーだろうと嬉しかったのは事実。苦笑というよりは爆笑するしかなかったのは、書店の前に置いてある回転式の絵本棚に見つけた時だろう。たしかにサイズはB5なので同じだが、「おいおい、絵本コーナーかよー」と脱力感に襲われたものである。「OUT」も「アニメージュ」も絵本棚に刺さったのは見たことがないから、「アニメック」だけは特殊な扱いを受けたのだろうと思う。

この年のアンケートハガキを読むと、熱心な読者がどれだけ苦労して「アニメック」を買い求めてくれたのかがよくわかる。特に地方都市の読者は、本代よりも高くなる交通費を使い、最寄りの特急の停車する駅までバスや列車で買い出しに行ってくれていた。列車というのがミソで、まだ国鉄の電化はそんなに進んでいなかったのである。国鉄分割民営化により、国鉄がJR各社に分割されたのは、1987年4月1日で「Zガンダム」の放映よりも後の話なのだ。

これにも微妙な兼ね合いが必要で、1日に行った場合はまだ配本されていない地域があった。現在でも鳥取の書店だと「ここは山陰地方になりますので、週刊誌等は発売日より二、三日遅れる場合があります」と張り紙がしてある。昔はもう少し流通に誤差があったし、校正作業が遅れに遅れて、都内ではギリギリ1日に出たものの地方には遅れて配本という場合も多かった。実際に発売が遅れた時もあり、貴重な時間と小遣いを無駄に使わせてしまった読者には、大変申し訳ない事をしてしまった。しかし、怒ることは怒るのだが、「アニメック」が発売日に入荷していませんでした、と一種のギャグのように報告してくる自虐的な読者も多かったのは救いだった。何処で、何時、買うことが出来るかわからない、「幻のアニメック」を求めてという行脚が、互いに知らない読者同士の連帯感を高めていくという不思議な雑誌だったのも事実なのだ。

今はどうなのかわからないが、当時の書店の数からして「何処の駅前書店でも購入可能」と判断できたのは6万部を越えた時からであった。「マニフィック」から「アニメック」になってからの返本率は驚異的に少ない。返本率、つまり書店で委託販売された売れ残りが戻ってくる割合だが、全体の1割以下だった。もっとも、その中の数千部は乱丁・落丁扱いの交換である。そんなに不良品が多いのかと驚く人も多いだろうが、これには訳があった。売り上げが伸びるに従い、カラーページや本文ページを増やした結果、毎回仕様が異なり厚くなる本。さらには表紙印刷から一日乾燥して、ラミネート加工という手順に無理が生じたのである。保存性を良くしようと、紙質も良かったので編集の遅れが、そのまま製本工程に負担を掛けたからだ。早い話が、最後の表紙の糊止めが完全乾燥まで至らないので、買ってすぐに本を大きく開くと表紙が取れてしまうという構造欠陥が露呈したのである。「アニメックはコピーするな」が合い言葉になるくらい広げると表紙の剥がれる本になってしまったのである。 今でも保存用のアニメックはそのままスキャニングが可能なほど状態が良い。が、広げる時には細心の注意を払わないと表紙がパカッと外れるのであった。このあたりアニメックの仕様と割り切ってくれる読者ばかりだったのは、実に幸いな事だったのかもしれない。今だったら返本の山ですな。

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