アニメックの頃… 著/小牧雅伸

大日本印刷24課

そういった騒ぎを余所に、海野社長は東奔西走していた。その手には、伊沢部長が猛勉強して「出版社」としての最低限度の資格をリストにした物があった。出版社として動けば、新たな販路も確保できるということで、どうせならばと、大手との交渉を開始したのだ。

幸いにもラポートの商品展開による急成長に目を留めていてくれた大日本印刷が、新年度からパートナーとして協力してくれることになったのだ。本は印刷するまでに、印刷所が、紙代・製版代・印刷代を肩代わりする。出版社が本の原価代を支払うのは翌月、さらに本の利益が取次から精算されるのが半年後という、非常に会社の資金力が必要となる産業である。仮に隔月で3冊の本を作り、出版元が潰れたとしたら全ての経費が回収不能になるのだから会社の信用調査が大切になるわけだ。
大日本印刷との間に口座が開かれ、手形決済が可能になるには3ヵ月は必要とされていた。何事も現金決済だったラポートとしては大きな転換期となったのだ。

大日本印刷営業24課平松和己課長(現DNP営業本部副部長)が、今後の本の担当となった。実際問題、この方が尽力して下さらなければ、アニメックは誕生しなかったわけで、今でも深く感謝している。
その大恩人との初対面の時の私の第一声は「責任取ってね」であった。
ここから暫く話が横道に逸れるのでご勘弁を。

話は一年前に遡る。実は、私は大日本印刷には大きな貸しがあったのだ。少年画報社の手塚治虫アニメ選集は複製セル画が毎号付くという目玉企画があった。そのテスト版ムックである「海のトリトン ファンタジーアルバム」は、まったく同じ仕様で複製セル画が必要だった。当時のアニメーションの絵は、透明なセルに主線をトレースして、裏側から彩色するという行程で作られていた。これは、印刷所にとって非常に厄介な素材と言えた。

ボードや紙に描いた原画であれば、左右からライトを当て影や色むらが出ないように撮影する。同時に原画の片隅にカラーチャートを写し込めば、製版時の色分解も適正に出来る。だがセルの表面はガラスのように平滑なので、場合によってはカメラのレンズが写ったりする場合がある。またセル表面に細かい傷があると、光が乱反射して白くなってしまうのだ。

ところが、同人仲間は、セル撮影が得意だった。互いの秘蔵のセルを撮影するのに慣れていたと説明する方が分かり易いかもしれない。透明度はやや落ちるが、無反射ガラスをセルの上に乗せ、乱反射を押さえる方法なども開発されていた。
もともと、仕事場で借りていた和光プロダクションの編集室の上には撮影台もあり、セルの撮影も比較的簡単だった。高橋社長が良い人で、使える機材は何でも貸してくれたという恵まれた環境だった。

ゆうきまさみ著『究極超人あ〜る』に登場する、光画部先輩「たわば先輩」にはモデルがあった。ゆうきまさみの友人である、後に音楽ディレクターとなった「とまとあき」だ。まだ高校生だった彼も、まんが画廊の常連であり、同時に一眼レフカメラを持っているということで、プロの仕事を強引に手伝わされていた。彼の芸名とて、あまりにもハードなお仕事に不眠不休で手伝わされて熱を出した時の譫言(うわごと)に由来する。
当時、彼の実家の塀には、夾竹桃がずらりと植えられていた。それはそれで壮観な眺めであり、町内でも目立つ家構えだった。見舞いに行った連中が、目を覚ました彼に声を掛けると「キョウチクトウの上に、トマトが、トマトがなってるんだぁー」という謎の言葉を残して。再び眠りについたそうだ。以後、彼は画廊では「とまと」と呼ばれるようになる。
「マニフィック」創刊号とて、デュープ(ポジフィルムの焼き増し)技術も機材もない私が、卒業準備で忙しい彼を呼び出して、今まで通りフィルム代と現像代と飯代だけで撮影させた物である。考えて見ると「まんが画廊」は、こういった原始共産制が生きていた不思議な空間だった。逆に言うと、今まで存在しなかった技術の交換場所という部分もあったのではないかと思う。とまとあきに仕事を手伝ってもらいながら、被写界深度による複写性能の差違、なんて難しい物を教えて貰っていたわけだ。

というわけで、カメラではスナップ写真しか撮れないくせに、口だけは達者になった私は、大日本印刷の一流技術者に「セル撮影」をレクチャーするという、とんでもない役目を持たされた。ひととおりの説明が終わると、さすがに大日本印刷で全ての機材があるのも判明した。ないのは見本となるセルだけである。

「じゃあ、秘蔵のセルを貸しますから大切に扱って下さいね」
私は、虫プロの仕事で手塚先生からいただいた『リボンの騎士』を渡した。
これは、名作中の名作『リボンの騎士』サファイヤのカーニバルの中の一枚、カーニバル会場で、村娘たちに女装させられ亜麻色の髪の乙女となったサファイアが、フランツ王子と踊るシーンの原画セル。フルハンドトレス(マシントレスではなく、手で主線と色トレスがされた物)背景は、夜空をバックに花火という極上品である。
テスト撮影で大判に撮影されたポジがもらえればいいなという色気を出したのが失敗だった。もっと他のクズセルにしておけば良かったと今でも悔やまれる。

「小牧さん大変です。来て下さい」という電話に、駆けつけた時、それはものの見事にスルメになっていた。
我々は素人なので、ブレーカーが落ちたりするから使っても500Wの昼光色電球を2灯しか使わない。このあたり、プロは違う。プロ用のスタジオに、高出力2000Wの電灯を2灯使ったテストを繰り返すうちに、最後にはアップ撮影をしたのだと言う。

暫くすると、セルの輪郭が変色しているのに気が付き、慌ててライトを切ったそうなのだが、無反射ガラスが手袋をしても持てない程熱くなっていたという。無反射ガラスを外すと、セルは彩色ペイントの破片をまき散らしながら、七輪の上のスルメのように丸まったらしい。だいたい水彩画の背景とて、無事で済むわけもなく水不足のタンボのように無数のひび割れに覆われていた。
「申し訳ないです。どうしましょう」と職長はおろおろしていた。
どうしましょうと言われてもねぇ。少年画報社の小林編集部長は、暫く腕組みをして唸っていたが、きっぱりと発言した。
「済んでしまった事はしかたがない。これは金に替えられる物じゃないわけで、以後部課や担当が異なっても、小牧くんの無理を必ず聞くってことで手打ちはどうだね」
もっともな解決策。実際に、この後6冊の「手塚治虫アニメ選集」が控えている小林編集部長としては、何か失敗した場合のフォローにもなる。一番考えられるのは締め切りが遅れた場合の突貫印刷をして貰うという代替条件だろう。
かくして、亜麻色の髪の乙女事件を契機に、大日本印刷に締め切りの都合や無茶な製版をしてもらったのは事実。あまりにも無理が通り過ぎて、『鉄腕アトム』の時には、本来2色ページだった部分を私の勘違いで4色にしたら、そのまま印刷されてしまったという珍事まで発生した。印刷関係者なら理解できる話だが、編集者が2色ページに4色の指定をしたとしても、普通は印刷所が突き返して来るものだ。

「責任といいますと……」
平松課長は、私の口から語られる「亜麻色の髪の乙女」事件に口アングリであった。
「そうですか、おまかせ下さい。部課や担当が違っても、この私が何があってもフォローしてその借りを返させていただきます」
事実、平松課長は、その後のアニメックの印刷事故の全てを軟着陸させてくださった。よくぞ10年もの間、「印刷事故見本帳」みたいな本の面倒を細かく見てくれたものだと未だに感謝している。こうして、営業24課との二人三脚が始まったのだが、大日本印刷と正式に仕事をするのは春からである。それまでに、我々は大日本印刷移行の為の大実験をしなければならなかったのだ。

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