アニメックの頃… 著/小牧雅伸

著者プロフィール

小牧雅伸

昭和49年(1974) 東京電機大学の一年生として上京。高校時代より付き合いのある各地のSF研やアニメ研の人間が東京に集合したことで、あらゆる同人集会に顔を出すうちに、秋より放映が開始された『宇宙戦艦ヤマト』のFCに入る。アウト創刊2号の宇宙戦艦ヤマト特集の執筆をこのメンバーで行ったのを契機に、レコード会社や出版社のアニメ解説記事を書き始める。伝説の江古田にあった漫画喫茶、まんが画廊に入り浸るうちに手塚治虫選集を野崎プロデューサー(現 伸童社社長)に依頼され、編集業に従事。ラポート株式会社の高橋営業部長(現ムービック社長)にスカウトされ、通販カタログ新聞の編集を依頼され、ラポートの契約社員に。新聞の見本が評判が良く、アニメ記事をメインにした通販ムック「マニフィック」編集長に就任し、業界最年少編集長となる。「マニフィック」の評判が良く、全国展開の隔月刊雑誌として「アニメック」としてリニューアル。先行するアニメ誌「アニメージュ」がメジャーとなった劇場版ヤマトを特集する中、始まったばかりの『機動戦士ガンダム』を誌面の中心にしたアニメックがカルト的な人気を経て、月刊化。1987年2月号でアニメック休刊後は、ラポート編集部編集局長としてムックとコミックスの編集を続ける。2003年11月より編集プロダクション、スタジオ小牧主宰。

アニメックとは?

1978年(昭和53年)10月1日株式会社アニメックの通販カタログ誌「マニフィック」として創刊号1万部でスタート。読み応えのあるアニメ記事が多く好評のうちに隔月で発行。
翌1979年(昭和54年)2月1日に丸閉じではなく、角背のムックとなり、『無敵超人ザンボット3』特集で好評を得る。大日本印刷との共同プロジェクトにより、誌名変更等大幅にリニューアルが決定し、4月1日より雑誌アニメックとして全国発売。2万部を売る。
6月1日発売のアニメック6号『機動戦士ガンダム』特集が、他誌では扱わなかったガンダムを大々的に特集し、マニアの口コミにより3万部が、一週間で完売されたことで、「アウト」「アニメージュ」に続くアニメ誌と認知された。(偶数月の1日発売の隔月刊)
毎号、色々なテーマを決め新進気鋭のクリエーターを登用したことで、人気が安定し、ページ数と発行部数を順調に伸ばし1983年7月より「月刊アニメック」とリニューアル。アニメ誌として珍しく読者投稿や論客の評論が掲載され「評論のアニメック」として親しまれる。
「アニメック」の成功により、キャラクター商品の通販会社であったラポート株式会社は、出版社となった。1980年代のアニメ時代を牽引する伝説のアニメ誌であったが、競合誌の台頭により、1987年2月号で休刊となる。実売部数が、最盛期12万5千部、最終号8万部であり、広告ページを増やせば継続できた可能性を指摘する業界人も多い。

皆さんへお願い

当時のディテールについては、編集部内で繰り返し語っているので、かなり正確なはずである。問題なのは、若い頃から「今日の昼飯は何を食べたっけ?」というくらい物忘れ名人という私の頭脳構造にある。あの頃は、状況を知る者が常に横にいるという状態で、困ることはなかったのだ。
「えーと、そこに駆けつけたのが、ほれあの…臭い人」
「画廊の江口ちゃん」
「うん、それ」
というように話は進んでいた。ようするに固有名詞がスコーンと抜けているわけですな。
そこで、当時の関係者諸氏にお願いがあります。この回顧録のような物で一番困っているのが、「その時に一緒に居たはずの人の固有名詞が出ない事」「その人が、現在何をされているか分からない事」の二つ。現在、民間人と言いますか、普通の生活をされている場合は仮名にし、ぼかしますから情報を送っていただけませんか。

たとえば、伝説の「まんが画廊」にしても、開店初期では私はただの客だった。入り浸ったのは1977年春、「OUT」のヤマト特集編集の頃からだ。秋にはなぜか住み着いていたので、かなり詳しい。地下にある画廊のテレビの映りがあまりにも悪く、ある日ケーブルをチェックしたら同軸ケーブルに平行フィーダーが蝶々結びになっている驚愕の事実を発見したのも私なら、自作バランを入れてちゃんと写るようにしたのも私である。77年暮れの画廊大掃除での狂乱も見ている。あの頃の登場人物一覧が是非とも欲しいと願っている。
初代マスターは、あの頃から名前を覚えず、本来は一番詳しい当時のマネージャーである江口俊真に尋ねようにも、2年前から消息を絶っている。1978年に入ると、1ブロック離れた和光プロダクションのフィルム編集室で缶詰状態で仕事をしているので、ほとんと画廊の動きを知らないままだ。和光プロダクションで手伝いをしてくれた学生集団が、後にアニメショップCASF(キャスフ)を設立した経緯も、詳しくは知らないままである。
このあたりで出入りした関係者の名前は、アニメ誌に転換する途中の「OUT」や「アニメック」「ジ・アニメ」「マンガ少年」に相当の影響を与えていたといえるだろう。私も同じ業界で働く人間に聞き取り調査をしているのだが、現在この業界にいない人については空白が生じている。
考えてみれば、実に30年も昔の話である。「アニメックの頃…」と78年秋からの話にしたのも実はこれが原因だ。資料や日記の残っているアニメック編集部の話を書きながら、データが揃ったら特別編として「まんが画廊盛衰記」も書き残したいと思っている。
あの頃のまんが画廊に出入りしていた関係者諸氏の情報を、是非お願いしたい。何か思い出した方は、こちら(※)までご連絡下さい。
(※すでに受付は終了しております。ご協力ありがとうございました)

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