赤貧素人編集部
「なぁ、小牧。新聞なら二人でいけるぞ。でも本となったら最低3人。手伝い要員も数人居ないと無理だぞ」
こういうあたりはU杉が行程管理の達人ですから明確に指摘します。まぁ、誰が考えても二人だけで新雑誌を立ち上げるのは無理がある。
「うーん、基本給が3人までは交渉できる。実は、猫の手は確保してあるんだ」
この夏、日本SF大会アシノコンが開催されていた。特別企画「狸の部屋」を主催した私は、トリトン・ガッチャマン・ヤマトの話が通じるマニアと徹夜で話して、本を作る事になったら手伝ってくれという話は通してあった。SF大会にのこのこ参加するくらいだから、何らかの技量はあるだろうという思惑である。
「もうひとり編集部に常駐? 誰だよ?」
「慶応大学の学生。偏差値的には悪くないだろ」
「何か問題があるのか?」
「うーん、起きると夕方なんで、最近大学に行けないらしくまんが画廊に出勤してきて、徹夜で遊んでいるな」
「徹夜で遊ぶから夕方まで寝てるんじゃないか」
「まぁ、そういうことだが、こういう社会不適合者も使えるだろ。夕方から引き継ぎして我々が終電で引き上げた後に、原稿を整理をしてまとめて、始発で帰らせる。で、俺たちが朝出てくる」
逆にこの話は、今だと普通かもしれない。編集関係者の半数が昼夜逆転しているのだから。ただ、当時としては、夜中に遊んで、起きたら学校が終わってるなんて生活をしている人間は希であった。編集スタッフを見渡せば、彼が一番有名な大学の学生だったというのも不思議な話である。ある意味、業界の魁だった男かもしれない。後に各社の編集部で名物男となるのは必然だったのかもしれない。こうして、校正と文字指定の達人となる中村秀敏が編集部に加わった。夜中に江古田のまんが画廊に行ったら、指定席でコーヒーを飲んでいたので、そのまま引き連れて来たのである。以後、彼が数々のネタの宝庫となるとは想像もつかないままに……。
かくして、むさい男三人に、青山学院大学と聖路加看護大学の女学生5人が加わり、まさにゼロからの出発で、手作りムックの編集作業が始まった。それを指揮するのが東京電機大学の私なのだから、すごい怪しい学生集団に見えたことだろう。手弁当という言葉があるが、この編集部の場合意味が違った。午後になると学校帰りの女子大生がやって来て弁当の残りを分けてくれる。ありがたい話ではあるが、我々三人は、これに量が少ないと文句を付け、最初から二人前作らせてしまう外道な真似をしたのだった。
編集部において、「手弁当」というのは、大食漢の半人前程度の弁当を余分に作って持って行くという定義ができあがったのである。
「編集部に見学に行きたいんだけど」
「最低牛丼ね」
「何それ?」
「入場料」
かくして、またも伝説ができあがり、中には北海道からリュックにジャガイモ詰めて見学に来てしまう人まで出てしまう始末だった。特に保存食料大歓迎と壁に貼ってあるのは、どういう編集部なのだろう。
ちなみに翌年、餃子の王将が東京進出をし、餃子を5人前食べたら無料キャンペーンを始めた。新宿御苑前店のチャレンジカード、つまり成功した人間の名前が書いて張り出されるシステムだったのだが、張り出されたカードの半分が編集部の人間で埋まった。
なにしろ、ご飯100円で、餃子5人前とサービスのスープは無料である。一食百円で済むのだ。最初はライスを注文すると「お客さん、チャレンジですよね?」と店員が怪訝な顔をしたものだが、途中からは諦め顔であった。たしかにチャレンジする人は、餃子五人前で手一杯、ライスは注文するわけはなかったのである。我々から見たら慈善事業をやっているとしか思えないシステムだった。キャンペーンが終わる半年間飽きもせず朝晩餃子定食、昼間はお手伝い女子大生から巻き上げたスペシャル弁当という生活が続いたのだ。
ちなみに、中村秀敏は、聖路加看護大学の女学生に非常に評判が良かった。聖路加病院はかなり有名なのだが、当時はNHKですら「せいろか」と発音していた。ヨハネやマタイとおなじくらい有名なルカが語源。中村秀敏はクリスチャンだったので、洗礼名がルカということもあり、「あれはルカと読むよねぇ」と学校名をちゃんと読めてもらったという部分で気があったのという不思議な縁だったのだろう。