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随想

会長兼CEO、東京ムービーレコード特別顧問のお仕事を紹介して行きます。

<名探偵ホームズ解説>

~豊かな才能が結集した異色の合作アニメ「名探偵ホームズ」~

・さようなら広川太一郎さん
今回リリースされた「名探偵ホームズ」でまさに軽妙洒脱な名演技を披露した広川太一郎はキネマ旬報1997年臨時増刊「テレビの黄金時代」の記述によると、海外ドラマの吹き替えでは61年以降「羽佐間道夫と並んで声優中いちばん多く主演をこなしている」という。このいささかバタくさくもある西洋風な雰囲気が日伊合作作品であるホームズとうまくマッチしていた。「ルパン三世」のパイロット版でルパン役に起用されたのも同じような理由なのだろう。2008年3月3日に死去した広川の冥福をお祈りしたい。

・「ホームズ」を復活させた2本立て興行
さて、その広川とも縁の深い香港映画「ミスター・ブー ギャンブル大将」は宮崎駿の劇場映画監督作品第1作「ルパン三世 カリオストロの城」と2本立てで公開された。現在では2本立てといっても馴染みのない人がいるそうだが、2本立て興行の流れは戦前から85年頃まで続いた。東京ムービーの例でいうと、劇場版「エースをねらえ!」(79年)の併映は谷隼人主演の実験的喜劇「ピーマン80」(当時のオバケ番組「8時だヨ!全員集合」の名物ディレクターだったTBSの居作昌果)だったし、第1作の「ルパン三世(ルパンVS複製人間)」(78年)は洋画「ナイル殺人事件」(ジョン・ギラーミン監督)、公開が急きょ決まって超スピードで制作された「まことちゃん」は相米慎二監督の傑作「翔んだカップル」との“カップル”だった。「ピーマン80」というのは当時としては画期的なビデオ撮影による映画だったが、「エースをねらえ!」とは作品のカラーが違いすぎた。
「名探偵ホームズ」に話を戻すが、「ホームズ」は当初宮崎駿が徳間書店とタッグを組んで執念で公開にこぎつけた「風の谷のナウシカ」(スタジオジブリの前身トップクラフトがアニメーション制作)と2本立てで「青い紅玉の巻 海底の財宝の巻」が公開された。「ホームズ」はイタリアのテレビ局RAIとの合作として、81年に制作がスタートし、翌82年に宮崎が6話分の演出・脚本を務めたあと中止になっていたものを引っ張りだした。当時の東京ムービー新社・藤岡豊社長は71年に「アタック№1」と後番組として構想されていた「長靴下のピッピ」が失敗に終わったあとから海外に目を向けるようになり、76年には国際部を設立、「家なき子」などの輸出で成功をしたのを契機に海外との合作に力を注ぐようになり、「ホームズ」と並行して長浜忠夫監督の遺作となった「ユリシーズ31」(フランスとの合作)、「ルパン8世」(アメリカとの合作・りんたろう監督・のちに中止)、「コブラ」(出崎統監督・当初イタリアとの合作が考えられていた)、そして超大作「リトル・ニモ」(結果として53億円の巨費が投じられ、89年に日本公開)と、日本を代表するスタッフを動員しての合作計画が進められていた。だが、海外との壁は思いのほか厚く、失敗に終わったものも多く、「ホームズ」は原作「シャーロックホームズ」との権利関係問題などが支障となった。
現在の日本一の大ヒットメーカーとなった宮崎のイメージから想像しにくいが、83年当時の宮崎は世間的にはほとんど無名。「カリオストロの城」は内容的には高い評価を得ていたが、興行的には失敗だった(その後のテレビ放映やビデオで広く認知されるところとなり、東京ムービーは莫大な恩恵を受けることになるのだが・・・)。当時、有名原作をもとにしたものでもなければテレビ放映されたものでもない「風の谷のナウシカ」に興行関係者が不安を持ったとしても不思議ではない。当時の製作関係者によると、内容的に明るいとは言えないナウシカに対して、「何か漫画映画をつけろ」との声が飛んでホームズが担ぎ出されたそうだ。50年代の大映映画にはディズニーの短編アニメが添え物として公開されていたものだ。それから30年近い時を経て大映の流れを汲んだ徳間康快プロデューサーの映画「風の谷のナウシカ」に添え物で「ホームズ」が付けられ、21世紀になってからジブリについにディズニー・ジャパン出身の星野康二社長が就任したのも因縁深い話である。
現在でも「ホームズ」のように添え物というか短編アニメが併映されるケースは多いが減少傾向にある。東京ムービーでも「とっとこハム太郎」(2001年~04年 4本)が終了している。代表格である「東映アニメフェア」(旧東映まんがまつり)も02年に終了、近年は「ドラえもん」も1本立て興行となり、東宝の夏休み恒例の「ポケットモンスター」も小田部洋一(「パンダコパンダ」の作画監督)の強い意向により、短編の併映作が6作作られたが、03年をもって中止となっている。短編や中編の場合時間の中途半端さが海外展開の時に支障になっていることなどが短編の減っている理由の一つだが、スタッフ養成の意義からも価値が多い短編の復活を望むところだ。

・「見ておこんないでください、宮崎さん」
1984年に公開された劇場版「名探偵ホームズ」はホームズの声を「大草原の小さな家」(NHKで放送されたアメリカの人気ホームドラマ)の父親役の吹き替えで人気を博した柴田侊彦が演じ、音楽は村松邦彦(山下達郎らと結成した伝説的ロックバンド「シュガー・ベイブ」のギタリスト)が担当していた。紆余曲折を経て、テレビ朝日系で84年11月9日から放映されたテレビシリーズ「名探偵ホームズ」は「ルパン三世」(77年版)で多く演出を手がけた御厨恭輔が監督を引き継ぎ、早川啓二(日本アニメーション在籍時に宮崎駿と「未来少年コナン」を共同で演出)らが演出を担当した。徳間書店のアニメ雑誌「アニメージュ」84年の同誌の特集記事の中のインタビューで早川は「見ておこんないでください、宮崎さん」とのコメントを残している。完成度の高い宮崎版ホームズを引き継ぐということで現場のプレッシャーはかなり高かったようだ。劇場版ではテーマ曲を桑名晴子(ミュージシャン桑名正博の妹)が歌ったが、このテレビ版ではテーマ曲にダ・カーポが起用された。

・透明感溢れる男女ボーカルユニット ダ・カーポ
ダ・カーポは当時すでにデビューから12年経って人気が定着。当時の「アニメージュ」は主題歌「空からこぼれたSTORY」(作詞・三浦徳子 作曲・佐藤健 編曲 福井峻)について、「作品の舞台であるイギリスをイメージした、いまどきのアニメソングにはちょっとめずらしいクラシカルな仕上がり」と論評。「アニメソングは4年前に歌った『地球(ソラ)へ・・・』以来。あれから盛り上がるアニメパワーの中で、またすばらしい作品に出会えてうれしい」とのコメントを掲載した。「名探偵ホームズ」以降も独特の清潔感を保ったままダ・カーポは現在も勢力的に活動を続けており、ファン層は幅広い。アニメソングとしては以降も日本テレビ 「青春アニメ全集」主題歌(86年)、角川アニメ「宇宙皇子」の主題歌(89年)、日活の児童アニメ「カッパの三平」(93年)、短編映画「ドラえもん がんばれ!ジャイアン」(2001年)とコンスタントに発表。近年は娘のフルート奏者榊原 麻理子も加えたトリオに進化し、08年には日本アニメーションの「世界名作劇場」復活第2弾「ポルフィの長い旅」(放映はBSフジ・アニマックス)のエンディング「君へと続く道」をリリースした。ダ・カーポの関係者によると「空からこぼれたSTORY」とエンディングの「テムズ河のDANCE」(作詞・三浦徳子 作曲・佐藤健 編曲 福井峻)は2人のベストアルバムには原版の管理会社が違うこともあり長く収録されていなかったが、リクエストが多く寄せられたそうで、08年にコロムビアから発売された「ダ・カーポ デビュー35周年記念 メモリアルCD-BOX 名曲大全集 ~HEARTFUL BEST~」では「空からこぼれたSTORY」が収録されている。
テレビ版「ホームズ」の音楽監督を務めた鈴木清司によると、ダ・カーポの「ホームズ」への起用についてはレコード会社からの推薦のあった数組の中から選んだそうだ。83年に杏里の「CAT’S EYE」が大ヒット。紅白歌合戦にも出場するなどブームを呼び、以降現在に通じるアニメの主題歌に歌手のプロモーションがタイアップする流れが一気に加速した。

・音楽面で80年代前半の東京ムービーを支えた羽田健太郎
BGMを担当したのがハネケンこと羽田健太郎。「ホームズ」の制作時はアニメ「超時空要塞マクロス」の大オーケストレーションによる壮大な音楽が絶賛され、多種のアルバムが発売されたばかりの頃だった。羽田は桐朋音楽大学の4年の時に毎日音楽コンクールピアノ部門の3位に入賞し、卒業後はジャズもクラシックもポピュラーもこなす器用なスタジオミュージシャンとしてその名をはせていた。独学で作曲をマスターし、CM音楽の作曲を開始。そんな彼の映像作品のサウンドトラックの第1作となったのが東京ムービーの「宝島」(日本テレビで放映。78年)だった。彼のサントラ曲を集成した労作のCD「ハネケン・ランド―羽田健太郎・サウンドトラックの世界」(コロムビア)のライナー・ノーツによるとハネケンの抜擢は当時日本テレビ音楽にいた飯田則子の意向だったようだ。続いて角川映画の大作「戦国自衛隊」(79年版)でも羽田は劇中音楽を担当。以降、2003年までにコメディー、サスペンス、SF、ホームドラマとさまざまなジャンルでサントラを担当していくことになる。羽田を「ホームズ」や「戦国自衛隊」などで使うように動いたのが前述の鈴木清司で、「ハネケン・ランド」のライナー・ノーツで羽田は鈴木のことを「作曲や映画音楽を専門に勉強したわけじゃない僕に対して、鈴木さんはサウンドトラックに大切なことを教えてくれた人でもあるんです」と謝辞を述べている。
鈴木清司の話によると、羽田と鈴木がはじめて出会ったのは日本テレビのサスペンスドラマ「火曜日の女」シリーズ(パンダコパンダの佐藤允彦も初期の音楽を担当していた)の中でも名作として名高い「ガラス細工の女」(1973年 原作・脚本:倉本聰 音楽 大野雄二)の録音現場だった。ジャズピアノが専門の大野雄二の代わりに、クラシックが得意なピアノ奏者として呼ばれたのが若き日の羽田で、鈴木に強烈な印象を与えたようだ。76年の「東京ムービー新社」が設立以降、鈴木は当時の東京ムービーの音楽プロデューサー的立場におり、82年の「スペースコブラ」以降、「超時空オーガス」「ゴッドマジンガー」「名探偵ホームズ」「おねがい!サミアどん」「ロボタン」(エンディングテーマのみ)で羽田を起用した。クラシックにもポップスにも精通した持ち味をフルに活かしたスケールの大きなブラス&ストリングスが羽田の音楽の特長である。羽田は「ムーの白鯨」(選曲はマンガ家と同姓同名の赤塚不二夫)も含めて東京ムービーのシリーズ8本に関わっており、いかに音楽面で80年代前半の東京ムービーのアニメを支えたかがわかる。「ホームズ」について鈴木はちょっと変わった作品ということで、作品のイメージにあわせて「健康的な音楽」を目指したという。いま改めてこのCDで透明感の高い音楽に触れると、この狙いが見事に的中していることがおわかりいただけるだろう。
酒豪で知られた羽田が、鈴木にある日電話をかけてきてベロベロに酔っ払いながら当時「NHKの(夜11時から放送されていた)生番組にこれから出演する」と、告げたそうだ。鈴木は心配になってその生番組をテレビで見たが、見事に羽田は演奏をやってのけたことを覚えている。なんとも豪快な羽田らしいエピソードだ。羽田は2007年6月2日に惜しくも亡くなった。「ハネケンランド」の羽田のインタビューの中で残念なことにサントラのスコアの大半をチリ紙交換などで処分してしまったことを後悔している部分があるが、我々東京ムービーレコードとしては残された音源をこのような形でファンの皆様に提供していくしか恩返しの仕様がない。07年に都内で行われた羽田の葬儀の最後で、佐藤允彦が主を失った羽田愛用のピアノを演奏、参列者が手拍子して見送った。佐藤は約20年間同じグループとして切磋琢磨してきた間柄だけに悲しみも深かっただろう。今後も、彼らが残したさまざまな音楽をCDや配信でお届けしていきたいと思うので、ご期待いただきたい。
(敬称略・取材にご協力いただいた方々に感謝申し上げます)

<パンダコパンダ解説>

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東京ムービー・レコード特別顧問
(業務グループ会長)


おかえり!「パンダコパンダ」

「パンダ・パパンダ・コパンダ!」いったん聴いたら耳に残るメロディーと独創的な歌詞が印象的な名「ミミちゃんとパンダ・コパンダ」をはじめとする楽しい音楽たちがはじめてCDになった。作曲をボストンのバークレー音楽院に学んだ、ジャズ・ピアノの巨匠・佐藤允彦が担当。佐藤は現在に音楽活動に精力的にこなしているが、この年はフリージャズの名盤「三昧」をリリースするなど絶好調の時期。「パンダコパンダ」は12名程度の中編成のスタジオミュージシャンで演奏されていて、マリンバが効果的に使われている。また「真田巌」という名前の作詞家が作詞主題歌の作詞と「ねんねんパンダ」の作曲を務めているが、作詞家の正体は当時佐藤と結婚していた中山千夏。中山も話題のテレビドラマ「お荷物小荷物 カムイ編」(朝日放送)に主演し「お昼のワイドショー」(日本テレビ)するなど大活躍の年だった。中山は1969年にヒットした「あなたの心に」などで作詞しているほか、「パンダコパンダ」と同じ時期(1973年)にアニメ「山ねずみロッキーチャック」の主題歌「緑の陽だまり」(歌は堀江美都子)や「ドロロンえん魔くん」(歌は中山千夏)で今回事務所を通じて中山に確認したところ、ふざけて変名にしたようで、やさしさにあふれた歌詞とは正反対この名前で作詞しているのは2曲のみ。演出を務めた高畑によると、電話で作品の主旨を伝えて詩を作ってもらい本人とは会わなかったというが、後年高畑は中山を声の主役に東京ムービー製作の「じゃりン子チエ」(中山が参議院議員に当選した翌年の1981年に映画とテレビが作られた)を作ることになる。なんと「パンダコパンダ」の主題歌はじゃりン子チエが作っていたのだ!

映画「パンダコパンダ」はパンダブームの真っ最中である1972年12月17日から12月29日までの間、東宝系の恒例「東宝チャンピオンまつり」の1本として全国で公開された(200館と見られる)。ライバルの「東映まんがまつり」がオリジナルの長編アニメーションを柱に据えていたのに対し、「東宝チャンピオンまつり」はゴジラなどの怪獣映画を柱にアニメや青春ドラマ、特撮ものから人気番組をセレクトし、オリジナルアニメとしては学研制作の人形アニメや、やなせたかし原作・演出による「やさしいライオン」といった短編アニメが編成されていた。「パンダ」は子供たちにとって1972年の「チャンピオン」であり、「14頭の怪獣と2匹のパンダが大活躍!」というコピーが印象深い「パンダコパンダ」公開時の新聞広告によると、初日入場の先着1000名様に「カンカン君、ランランちゃんの〈写真〉」、100名様に「パンダが大好物のさとうきび」をプレゼント(関東の9劇場のみ)したという。まさにパンダが「人寄せパンダ」として使われたかっこうだ。
現在もパンダはさまざまなキャラクター商品や広告に使われているが、パンダという動物が日本人の間で一般化したのはカラーテレビが完全に普及した1970年代に入ってから。1970年にファッション雑誌「アンアン」(現在のマガジンハウス)が創刊。雑誌のキャラクターにパンダが起用されて誌名もモスクワ動物園にいたパンダの名前から取られた。翌年にはパンダのぬいぐるみなどの商品が出始め、そういった状況下で「パンダコパンダ」の企画が作られていた。空前のパンダブームが巻き起こったのが、11月5日に日本にパンダのランランとカンカンが上野動物園で初公開された直後だった。当時の毎日新聞によると、「“パンダ”と名付けた喫茶店、酒場、マージャン屋、清酒の銘柄まで」が登場し、11月から1~2ヶ月の間にパンダのぬいぐるみは当時の金額で100億円も売られたというから驚きだ。パンダブームのあやかり企画として、テレビや映画館にパンダがあふれた。ライバルの「東映まんがまつり」ではアニメ映画「パンダの大冒険」(「パンダコパンダ 雨ふりサーカスの巻」と同じ日に公開)が作られ、1973年1月に放送された「ウルトラマンA」ではパンダが宇宙人に盗まれるという話や、2月に放送された「ジャンボーグA」にはパンダのぬいぐるみが怪獣になるという話まで放送されている。ただしテレビ番組ではないという事情からか「パンダコパンダ」の商品は当時ほとんど発売されておらず、筆者が確認できた商品は東宝レコードから出た主題歌「ミミちゃんとパンダ・コパンダ」のシングル盤のみだ(「行け!ゴッドマン」「新オバケのQ太郎」のB面に収録された)。
もっとも上野動物園の行列は途絶えなかったものの1973年が明けると「パンダブーム」は早くも終息。4月2日にはついにパンダのぬいぐるみを作りすぎて大量の不良在庫を抱えた玩具の業者が自殺するという痛ましい事件まで起きた。「ゴジラ対メガロ」を柱に「雨ふりサーカスの巻」を上映した「東宝チャンピオンまつり」の興行成績もふるわず(観客動員で100万人を割り込み、前年春の55%しか入らなかった)、以降「パンダコパンダ」の続編が作られることはなかった。当時テレビシリーズとしての「パンダコパンダ」の企画書も作られて関係者も続編の制作に意欲を見せていたようだが、6月には産みの親である宮崎駿、高畑勲、小田部羊一の三氏が「アルプスの少女ハイジ」を製作するためズイヨーに移籍し、「パンダコパンダ」の続編は幻に終わることになった。(大塚康生が作画監督を務めた「侍ジャイアンツ」の裏番組だった)。「ハイジ」はハイジ役をミミちゃんの杉山佳寿子が演じたこともあり、「パンダコパンダ」の世界観をかなり継承している。一方、作品の完成度の高さから「パンダコパンダ」は根強い人気がおり、1981年10月にはアニメ雑誌「アニメージュ」の付録としてポスターが作られ、1982年にはドラマがLPレコード、1984年にビデオカセット化、ぬいぐるみなどの商品も発売されて続々と新しいファンを生み出してきた。2008年は北京オリンピックがあって(1972年も札幌とミュンヘンのオリンピックイヤーだった)、「パンダコパンダ」の2本立て再公開、新作アニメ「カンフーパンダ」やさらには宮崎駿監督の新作「崖の上のポニョ」が公開されるなど状況が1972年と似ている。公開以来はじめて発売されたこのオリジナルサウンドトラックやDVD(ディズニーより発売)を通じて、さらに多くの人が「パンダコパンダ」の世界に親しんでくれることを願ってやまない(敬称略)。


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「それがいかなるビジネスであっても、成功したいとおもったら、この本を読むべし」

言わずと知れた私のベストセラーだ。amazonでも大きく取り上げられている。
私の生い立ち、そして業務グループに入ってからの活躍が描かれている。アニメ部門を建て直し、施設事業をてこいれし、実写部門を設立し、果てには放送局を買収して、業務グループが一大メディア企業へと成長して行く様が描かれている。アニメ業界を志す人は是非一度読んで欲しい。

私の盟友マイケルの著作だ。二人は気が合うのかなぜか装丁も似たようなものになった。こちらも大変おもしろいので是非読んで頂きたい。


1984年当時、低迷状態にあったディズニー社は、会社の危機を打開するべく、マイケル・アイズナーを最高経営責任者(CEO)に迎える。以来15年のあいだにアイズナーは、映画・アニメ・テーマパークなどすべての事業を立て直したうえ、新規事業を展開。売上高を15倍、利益を19倍、株価を30倍に増やす。ディズニー・マジックさながらの、この経営マジックの秘密は何か?本書は、夢王国を構築するまでの悪戦苦闘の舞台裏と、その経営哲学をアイズナーみずからが赤裸々に語り尽くした話題の書だ。