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(15)試練耐え巨木へ
この取材を始めたのもそのころだ。それから一年。風向きは一変した。 新臨床研修医制度の導入に伴う医局の崩壊が引き金となり、仕事量の増大に耐えていた医師が悲鳴を上げ、政府は医師不足を認めた。この六月、医学部定員を五百人以上増やす方針が固まり、公立病院の財政支援見直し検討も決まった。 また、一部の三次救急病院では安易な時間外受診を防ぐため、緊急性を要しなかった急患には特別料金の徴収を始めた。 そんな中、高知医療センターでも六月、救急外来の当直体制が変わった。 これまでは、救急車からの直通電話対応をする「ベル持ち」が一人、患者が自力で来院するウオークイン対応が三人だったが、ベル持ち、ウオークインとも二人ずつに。ベル持ちを増員することで、救急車対応医師の負担を和らげた。 さらに、ベル持ちの主力だった脳外科を全員、ウオークインに移した。同科はこれでかなり救われた。 「救急車の患者さんは重症だし、詳しい情報は取れませんからね。緊張が続くんです。僕は一睡もできなかった。ウオークインだと少しは仮眠できます」と福井直樹医師(40)。 救急車の患者でも、頭に問題がありそうな場合は脳外科も呼ばれるが、専門分野なので望むところだという。 当直だけではない。昼間の救急対応でも脳外科はかなり楽になったという。それは救命救急科が力を付けてきたからだ。 「彼らの、頭の画像診断力がものすごく上がったんです。この三年間、毎朝、MRIなどを見て皆で症例検討してきましたから。僕らが驚かされるようなこともある。以前ならすぐ呼ばれていたのが、最後の確認作業だけで済むことも。助かっているんです」 今年の一―三月、脳外科は倒れてもおかしくないほどの忙しさだったが、「それを乗り切れたのは救急科のおかげ」と福井医師。 脳外科の中堅、若手も着実に成長。岡田憲二医師(36)が血管内手術でも戦力として育ってきたのは心強い。医師の事務作業を手伝う医療秘書も五人雇われた。 そうした変化と成長の一方、脳外科の未来に明るい兆しがあるという。高知医療センターに入った研修医の中で、脳外科に興味を持ってくれる医師がいるそうだ。高知大からの学生実習でも人気が高いという。森本雅徳部長(56)が熱心に教えるからだ。 「あの忙しさの中で、国家試験にも役立つからといって、症例を一つ一つ説明してあげるし、うちは急患が多いから救急外来にも連れて行く。脳外科もやりがいがあることを知ってほしいんでしょうね」と福井医師。 何年後かを見据えた長期戦略。実を結べば、状況は大きく変わる。 ◇ ◇ さて、よく考えてみれば高知医療センターはまだ三歳である。体は大きく、医療スタッフの個々の力はあっても、組織としては未成熟である。 大病院同士の合併で大変なところへ、あまりにも時期悪く新研修医制度の荒波が襲った。その中にあっても、各診療科が頑張って中四国でも誇れる実績を挙げているのは〈別表〉の通りだが、ひずみが大きく生じたのが脳外科。救急科の大黒柱二人と神経内科三人全員が辞めるという事態が重なり激務となった。 しかし、高知赤十字病院にしても、昭和四十年代半ばは深刻な経営危機だった。近森病院も昭和五十年代初頭、外科医が次々と消え、現院長一人が不眠不休で乗り切った過去がある。 高知医療センターも風雪に耐え年輪を重ね、巨木になっていくのだろう。いや、そうなってもらわねば、高知の医療は大変だ。その日が来るためにも、高知県民は高知医療センターという限られた医療資源を大切に活用すべきだし、高知医療センターも変わっていくべきだろう。 最後にこの連載で主人公的な役割を果たしてもらった溝渕雅之医師(48)の好きなダーウィンの言葉を紹介する。 「生き残るのは最も強いものや賢いものでなく、最も変化に対応できるものである」 (編集委員・掛水雅彦)=シリーズおわり (2008年07月10日付・夕刊)
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