新司法試験の合格者が発表になった。旧制度では合格者が極端に少ないため、裁判などの問題処理に時間がかかり過ぎる、世間知らずの法曹人がエリート風を吹かせるなどの弊害が目立っていた。その改善策として新たな試験制度へ移行したのだから、この制度をヤユしたり、欠陥を声高に主張する論調には賛成しない。改革を止めてはならない。
大学の同級生に長い間、司法試験に挑戦していたが志を得ないまま、子どもを残してあっけなく逝ってしまった男がいる。親友だった。
彼には友人が多かったから、訃報を聞いて7、8人の同窓生が病院に駆けつけた。まだぬくもりが感じられる死に顔を、私はまともに見られなかった。いろいろな、懐かしい思い出が脳裏に浮かんだ。なんともいえない気持ちだった。
2、3回だが、彼に法律上の問題を相談したことがあった。同級生には弁護士になった者が何人もいたが、なんとなく敷居が高かったし、私はあらかじめセカンド・オピニオンを聞くようなつもりで相談した。そんなとき彼はいつも親切に相談に乗ってくれた。
司法試験が話題になると、いつも真っ先に思い出すのが彼の顔である。彼が試験に落ち続けていたころ、司法試験の合格者は500人ほどだった。裁判に非常に時間がかかるという深刻な問題があるのを尻目に、なぜか合格者はいつも500人ほど。法曹の人員は少しも増えなかった。
何万人もの人が受験するので合格率はわずかに2%〜3%!。「一将功成って万骨枯る」。司法試験はなんとも恐ろしい仕組みだった。もちろん、記念受験も少なくなかったろうが、友人のように10年も20年も失敗し続ける人も非常に多かった。十数年も失敗し続けたら本当につらいだろうが、他方で合格した者は大変な選良意識をもつだろう、とも思う。
そればかりではない。そもそも、試験勉強に猛烈な努力を注ぎ込まなければ合格できないので、法律論をあやつることには長けていても、社会常識に欠けるものがしばしば混じり込むという弊害も、だいぶ前から指摘されていた。
一体全体、こんな仕組みでいいのだろうか?。私はずっと前から、そう疑っていた。その上また、国際化がいっそう進行するなかで、ビジネス社会には外国法に通じた法務担当者の需要も急増しているではないか。
こういう状況が長い間、続いたあと、やっと法曹界が司法制度改革に重い腰を上げた。法曹人口を増やすこと、裁判にかかる時間を短くすること、法律論しかできない頭でっかちの法律家を減らすこと、企業法務など法曹以外の場にも資格を持った専門家をふやすこと。これらの課題解決を目指してできたのが、新司法試験制度と裁判員制度である。新しい制度にも問題がないわけではないだろうが、旧制度にくらべたら余程マシだ。わたしは断然、改革を支持したい。
今年、新司法試験制度の合格者は思ったほど増えなかった。合格率もだいぶ低かった。このところ、制度改革の弊害が叫ばれているが、それに呼応して改革にブレーキをかけるかのようだった。
しかし、誰がどんな理屈で改革反対の声を上げているか?、よくよく目をこらして見てほしい。曰く「新試験合格者はレベルが低くて使いものにならない」、曰く「新試験合格者を迎え入れる弁護士事務所なんかないだろう」などなど。
裁判にかかる時間が長すぎるとか、社会常識に欠ける法律家を減らそうとか、企業に法律家をといった、もともと改革を支えていた議論など、どこかに飛んでいってしまった。どれもこれも、すでに弁護士として活動している人たちの立場に立った意見ばかりだ。新試験に合格した若者を励ます意見はひとつもない。おかげで、新試験をめざす人びとの間には大きな不安が広がっている。
悲しいのは、そういった声に踊らされて新制度が失敗であるかのような論調があちこちに見られることだ。週刊誌などにも「お馬鹿弁護士急増中!」みたいな記事が散見するようになった。そういう論調に安易に乗せられてしまう人も少なくない。
だが、考えてみてほしい。旧制度はあまりにも弊害が目立ったではないか。「改革を止めるな!」と言いたい。