(その九)
ジャマイカ移民の子 ( 黒人 )としてニューヨークの貧民街で生まれ、1990年の湾岸戦争当時アメリカ軍人のトップとして統合参謀本部議長を勤め、現在は国務長官であるコリン・ パウエル によれば、1960年( 昭和 35年 )代の人種差別について
軍隊は以前よりも民主的になっていたが、一歩兵舎の外に出ると古い南部の世界に逆戻りした。ジョージア州コロンバスにあるウールワースのチェーン雑貨店に行けば欲しい物は何でも買えたが、 有色人種が白人の食堂で何かを食べることは出来なかった

ベトナム戦争から帰国した私は、アラバマ州にあるフェニックス・シティのハンバーガー・ショップで入店を断られた。陸軍将校であったにもかかわらず、警察官には 「 小僧 」と呼ばれ、「 町から出ていけ 」とまで言われた。

デパートでは商品を買うことができたが、そこには 有色人種専用のトイレは無く、黒人は白人専用のトイレを使えなかった。

繁華街の通りを歩くことはできても、有色人種の男性は白人女性の顔を見るのは御法度だった。教会も遠くにある黒人専用の教会にしか行けなかった。

車で旅行する時にはどこのガソリン・スタンドでも白人専用トイレだけで、われわれ ( 有色人種 )が使用できる トイレが無かった。やむなく道端に車を停めて、木陰で用を足したこともあった。( 自伝、コリン・パウエルより )

(その十)
アメリカ人がドイツ人を憎むには、彼等のしたことを学ばなければならないが、 ジャップに対しては 憎しみが自然と湧いてくる 。これはかつて インディアン達と戦った時と同様に、自然な感情だ。( ライフ誌の記事より )

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(その十一)、フランスの人種差別
人種差別は米国だけではありません。血筋、家柄、貧富による社会的階級が今もなお厳然と存在するヨーロッパにおいて、英国やオランダに比べて人種差別が少ないといわれているフランスでさえも、有色人種に対する差別がおこなわれています。

パリの観光をする日本人もよく利用するセーヌ川の観光遊覧船 バトー・ムッシュの ディナー・クルーズでは、日本人などの有色人種の客を入り口近くの 「 良くない席 」 に座らせ、白人客は奥の席に案内されます。パリの四つ星 ホテルなどでは、ホテルの 「 格式を保つ 」という理由から有色人種の国からの客を、予約の段階で極力制限するのだそうです。

オテル ( ホテル )・ニッコー( 日航 )ド・パリのような日系の ホテルでさえも、日本人客に対する従業員の冷淡な対応( 注:1参照 )から、日本人客を敬遠する営業姿勢が感じられます。

三つ星レストランでは有色人種の客 ( 日本人が大部分 ) が増えると、店の上品な雰囲気が失われてしまい、 店の格式が下がる のを恐れて日本人の予約を断る店もあります。それ以外のレストランでも通りから見える窓際の良い席や店内の目立つ場所に、有色人種の客を座らせないのは レストランにとって昔からの常識です。

ホテルのフロント係りが部屋を割り当てる際に、同一料金でも環境の悪い部屋を有色人種に割り当てるなどの行為はよく見うけられますが、日本人は差別に気が付かないか、あるいは気が付いても言葉の障碍から、ホテルの部屋や レストランでの席の変更要求を言わずにいるのが実状です。

フランス語や英語が話せない客( 多くの場合非ヨーロッパ系 )は、「 ここはお前にとってお門違いの場所だ 」 と、一流 レストランや ホテルの従業員からも態度で バカにされます。

注:1)
日本航空が経営するパリのホテルでのこと、ある日本人旅行者が胸の名札を見て日本人のフロント係りに日本語で尋ねたところ、その男はフランス語で返事をしたそうです。君は日本人なのになぜ日本語で返事をしないのかと文句を言ったところ、日系の ホテルにもかかわらず フランス語か英語を使うように、上司から指示されている との返事でした。

ベルサイユ宮殿 注:2)
三十年近く前に夫婦の個人旅行で初めてパリを訪れた際に、ベルサイユ宮殿の観光をしました。チュイルリー庭園前にある観光 バス発着所に行き、女房を乗り場付近に待たせて窓口で切符を買って戻ってくると、女房が怒っていました。

「 バス乗り場の案内人が私のことを婆さん、婆さんと呼んでいるの、失礼だわ!。私はそんなに年寄りに見えるのかしら?。」

小柄な日本人は外国では一般に 十才くらい若く見られるのが普通ですが、当時 三十代半ばの彼女が婆さんに見られるはずはありません。私は彼女に言いました。
「 ベルサイユ ( Versailles ) の英語の発音は、 ヴァーサイ だよ 」。

キリスト教も人種差別に一役

キリスト教の教義に依れば神が自分の姿に似せて人間を作ったとされますが、肌の色が白い白人は、より神に近い存在なのだそうです。それに対して、黒人とは神が奴隷として作り、白人に賜ったものだと考えられていました。

注:)旧約聖書
白人達は神も人種差別を認めているとして、旧約聖書の創世記、九章の二十一節〜二十七節を根拠に主張しました。

カナン は呪われよ。彼はしもべの下僕 ( しもべ )となって、その兄弟たちに仕える。」また言った。「 セムの神、主はほほえむべきかな、カナンはそのしもべとなれ。神は ヤペテを大いならしめ、セムの天幕に彼を住まわせられるように。カナンはそのしもべとなれ。」

白人聖書学者の解釈によると、セムはイスラエル人の祖、ヤテベはヨーロッパ人の祖、 ハム はアフリカ系人種の祖となったのだそうです。品性下劣だとして ノアはその子 ハム を嫌いました。 ハムの子カナン は神のしもべ ( 人間 )の下僕となれとノアは宣告しました。

白人牧師たちは黒人を カナン に見立てて黒人は下僕に生まれついた人間であり、白人は生まれながらにして彼等の主人であると説きました。そして白人達は子供の頃から、親や学校、教会、社会から

有色人種 ( 黒人、黄色人種 ) とは神の創造物の一つではあるが、人類的尺度から見れば白人よりも かなり下等な生き物 ( Sub Human ) である。故に彼等にはそれに ふさわしい扱い をすべきである

という人種差別肯定説を教わっていたのです。

注:)ジョン万次郎
漂流記で有名な土佐中浜出身の万次郎は1841年に十四才で漁船に乗組み土佐を出航しましたが、嵐に遭い遭難して八丈島の南にある無人島の鳥島に漂着しました。幸運にもアメリカの捕鯨船に助けられて米国に行き、ホイットフィールド船長の好意で家に寄宿させてもらい、学校にも通わせてもらいました。

船長が万次郎を連れて近くの ユニオン派教会に行ったところ、人種的偏見から万次郎の受け入れを教会が拒否しました。そこで船長は万次郎の受け入れを認めてくれる ユニテリアン 派教会に、止むなく所属を変更したという出来事がありました。

その当時から有色人種に対する蔑視、偏見は、 教会を含めて 白人社会に広く行き渡っていました。

米国では1960年代に始まったキング牧師などの人種差別撤廃運動、公民権運動の結果から、公共の施設における人種差別を禁止するという公民権法の施行により、表面的な人種差別は廃止されたものの、 肌の色や人種に基づく偏見と差別は 現在も白人社会の中で依然として根強く残っています。

5:人種蔑視に基づく残虐行為

日本軍のおこなった残虐行為については東京裁判以来耳に タコができるほど聞かされてきましたが、それに対して連合国側の将兵は、戦場において国際法を遵守し立派な行動をとってきたのでしょうか?、決してそうではありません。 彼等は有色人種に対する 蔑視から 、日本兵以上に残虐行為をしてきたのです。それゆえ以下の事実をしっかりと記憶に留めることこそが、非業の死を遂げた多数の犠牲者の慰霊につながります。

勝てば官軍、歴史は勝者によって記される という言葉がありますが、これまで戦勝国にとって都合の悪い事実は全て隠され、残虐行為の犯人が戦争裁判にかけらることもなく、敗戦国の兵士の行為のみが誇張されて報道され、責任を追及されていました。

連合国側がおこなった 非戦闘員の無差別大量虐殺、戦場における 捕虜の虐殺や戦闘能力を失った者に対する虐殺以外にも 戦死者の遺体に加えた冒涜行為 などは日本人の宗教的感覚とは相容れないものであり、その実態は彼等の残虐行為を戦場で体験し、目撃した者が書いた以下の著作にあります。

その中には米軍兵士の残虐行為を目撃した米国人のものも、数多くありました。

(1)、沈没艦船の兵員の運命

昭和二十年 ( 1945年 )四月七日沖縄への海上特攻に赴いた戦艦大和をはじめ巡洋艦矢矧 ( やはぎ )など二隻、駆逐艦三隻が敵の空襲を受けて沈没しました。
「現場の海面で浮遊物につかまり漂流中の無抵抗な乗組員に対して、空母を飛び立った米軍戦闘機の群が執拗に来襲しては情け容赦もなく機関銃を撃ちまくり殺戮した。」(矢矧の原艦長の証言)

「この悲惨な状況をあざ笑うかのように、 米軍機は何時間にもわたって、無抵抗の漂流者に執拗な機銃掃射を加え続けた 。」( 著書、「 伊藤整一 」、大和と運命を共にした第二艦隊司令長官 )
これらの残虐行為は最近映画化され評判になった「 男たちの大和 」には、なぜか描かれていませんでした。

同様な残虐行為は ニューギニア近海でもおこなわれました。昭和18年3月3日に起きた ビスマルク海戦 ( 空襲 )の結果、陸軍の兵士を乗せた輸送船 八隻と駆逐艦 四隻が敵機の攻撃により沈められましたが、沈没した日本の艦船から ボートや筏で逃れ、浮遊物につかまり 漂流中の千名の兵士達に対して 、アメリカと オーストラリア軍の飛行機が低空から機銃掃射をおこない、機関銃の弾を撃ち尽くすと基地に戻り弾を補給し、映画撮影の カメラマンまで乗せて何度も弾の補給に往復しては攻撃を続けました。

「 決して男らしいやり方ではなかった 」 と第 五爆撃隊のある少佐は戦闘記録の中で報告していました。「 隊員の中には気分が悪くなる者もいた 」。

救命ボートやその周辺を文字どおり 血の海に変えた その殺戮の様子を、機上から撮影した実写フィルムが十年ほど前にオーストラリアの テレビ局から放映されて、国民に大きなショックを与えました。「我々は フェアーな戦をしたと思っていたのに.....と」。( 容赦なき戦い、ジョン・ダワー著 )

ちなみにハーグの陸戦条約第23条では、兵器を捨てた自衛手段を持たない漂流者に対する攻撃を禁止していました。

(2)、米海兵隊兵士による蛮行

昭和十七年(1942年)八月十七日の早朝、カールソン中佐率いる海兵隊は、西太平洋のギルバート諸島の マキン島にある日本軍前哨陣地を攻撃し、守備隊を全滅させました。しかし彼等が戦場で敵の遺体におこなった蛮行は、アメリカ海兵隊の歴史に恥ずべき汚点を書き加えました。

これが手始めとなり、その後の太平洋各地での戦場から ベトナム戦争に至るまで、米軍兵士による敵の遺体を冒涜する行為は、各地で続けられましたが、いずれも人種的偏見、蔑視に基づく行為でした。

(その一)
ルーズベルト大統領の息子で海兵隊大尉のジェームズ・ルーズベルトも加わっていたカールソン襲撃隊は、戦死した日本兵の 死体を切り刻み、男根と睾丸とを 日本兵の口中に詰め込んだ

太平洋戦争について熱心な研究者で著書もあり、またテレビの連続番組(戦線、Battle-Line)のプロデューサーであるシャーマン・グリンバーグが、二十年後にカールソン隊員の一人にその時の模様を( テレビ で) 詳細に語らせている。その隊員は戦友たちのやった蛮行を写真に撮っていた。

( ジョセフ・ハリントン著の「 ヤンキー・サムライ 」から )

(その二)
マキン島へ救援に赴いた私 ( 谷浦中尉 )は、戦場で妙なことに気が付いた。どういうものか仰向けになった屍体が 十五〜六あり、しかもすべて下腹部を露出している。死後一週間経っていたため原形は完全に崩れていて、顔の穴という穴はすべて蛆で真っ白である。

どうしてこんな格好をしているのだろう。被弾して苦痛のあまり無意識にズボンをずり下げたのか?。アメリカ兵といえば キリスト教徒であり、日本人以上に文明人とみなされ、しかも選りすぐった精兵とこの種の蛮行を結びつけることなど、遺体収容作業に当たった誰一人として思いつく者はいなかった。

戦後五十年経って意外な事実を知り、愕然とした。それはマキン襲撃の際に行われた 海兵隊の蛮行を物語る、翻訳された出版物を読んだからである

( マキン、タラワの戦い、独立陸戦隊、中隊長谷浦英夫著 )

(その三)
作家上坂冬子の著書によれば、硫黄島の洞窟内から戦後米兵により持ち去られた日本兵の頭蓋骨は 壱千個 にもなる。彼等はそれで ロウソク立て、灰皿やペン皿を作ったといわれ、また硫黄島で戦死した日本兵の頭蓋骨と称するものが、ロサンゼルスの骨董店で一個 二十五ドル で売られていた。( 硫黄島いまだ玉砕せず )

(その四)、リンドバーグが見たもの
1927年 ( 昭和二年 )にチャールズ・リンドバーグはニューヨークからパリへ、史上初の大西洋横断、単独無着陸飛行に成功したが、この偉業は後に 「 翼よあれが、パリの灯 ( ひ )だ 」の題名で映画化された。彼は1944年 ( 昭和十九年 ) に ニューギニアの米軍基地で陸軍将校として四ヶ月過ごしたが、その体験を日記に記して後に「 第二次大戦日記上巻、下巻 」として出版した。( この本は私が読んだ後に、どういう理由からか絶版になった )

それによると彼は戦場で見たものに ショックをうけた。それは兵士が嬉々として敵を殺したからではなく、 米兵が日本兵に対して抱く露骨な人種蔑視の念と、それに基づく残虐行為を目のあたりにしての苦悩であった。

たとえ敵味方に別れて戦い軍服に違いがあるとしても、敵の人間としての勇気は勇気として、兵士の使命は使命として認めなければならないにもかかわらず、太平洋地域の連合軍の中には、そうした感情のカケラもないことを発見した。

そこでは士官も兵士も日本人に対する人種差別、蔑視から自分達と同じ人間とは考えず、 人間以下の 単なる動物 としか見ていなかった

注:)
ニューギニア戦線において捕虜となった日本兵の数がなぜ少なかったのか、その理由は以下を読めば納得できます


Yellow Monkey (黄色い猿)

1944年 ( 昭和十九年 )六月二十一日の日記には、日本人捕虜に タバコをやり、気がゆるんだところを後ろから押さえ、のどを 「 真一文字にかき切った 」というのを、日本兵捕虜殺害の一例として教えてくれたある将軍との会話を要約している。残虐行為に対するリンドバーグの異議は、嘲笑と 「 あわれみ 」をもって軽くあしらわれた。

六月二十六日の彼の日記には日本兵捕虜の虐殺、およびパラシュート降下中の日本航空兵の射殺について述べている。降伏し捕らえられた 二千数百人 という日本兵捕虜のうち、捕虜収容施設に引き渡されたのは僅か 百人か二百人に過ぎなかった 。残りの者たちは殺害されたが、事故に遭ったと報告された。

「仲間が降伏したにもかかわらず機関銃で撃たれたという話が日本兵に広がれば、投降しようという者などまずいなくなるだろう」とリンドバーグは聞かされた。つまり 黄色い猿 に過ぎない捕虜を取り扱う、余分な手間や面倒がはぶけるという理由からであった

七月十三日の日記では、「 われわれの兵士たちは、日本人捕虜や降伏しようとする兵士を射殺することをなんとも思わない。彼等は ジャップに対して、 動物以下の関心しか示さない 。こうした行為が大目にみられているのだ。」と記されていた。

八月三十日に リンドバーグは、中部太平洋 ギルバート諸島にある タラワ環礁を訪ねた。そこでは日米の激戦が行われ米軍も甚大な死傷者が出たのだが、日記には、捕虜になった数少ない日本兵を一列に並べ、尋問に英語で答えられる者だけを残し、あとは全て殺させた海軍士官のことが出てくる。

ある仲間の パイロットから直接聞いた話によれば、後ろ手に縛られた日本人捕虜達を輸送機に乗せて収容施設のある地域に輸送する際に、 彼等を飛行中に突き落とす行為がおこなわれた 。そして報告書には捕虜全員が自分から飛び降りたと記録された。( 以上、第二次大戦日記、チャールズ・リンドバーグ著 )

捕虜を取らない、とは

ニューギニア戦線でのオーストラリア軍やマッカサー指揮下の第四十一師団は、「 捕虜を取らない 」つまり武器を捨て両手を上に挙げて降伏しようとする日本兵や、既に降伏した日本兵 を殺するので有名だった

軍事歴史家デニス・ウォーナーは1982年に出版した日本の特攻隊に関する本の中で、ブーゲンビル島での自らの体験を紹介している。そこで彼は、投降しようとした日本の負傷兵を、 オーストラリア軍の司令官が射殺するように命じるのを目撃する。

「 しかし彼等は傷つき、おまけに降伏を望んでいます」と、日本軍の大規模攻撃が失敗に終わったあとの戦場で、部下の大佐が司令官に反論した。

「 私の言うことが聞こえただろう 」 と、両手を挙げた日本兵からわすか数 ヤード離れただけの少将 ( 司令官 )は答えた。「 捕虜はいらない。全員射殺してしまえ 」。そして彼等は撃たれた

日本軍も負傷兵や捕虜に対する連合国側の殺害に関する情報をつかんでいて、戦時中の日本からの対米宣伝放送 ( 東京ローズ )では、第四十一師団のことを 「 屠殺者、Slaughterer 」と呼んでいた。

終戦直後ある米陸軍大尉が公表した記事には、 第四十一師団、捕虜を取らず という堂々たる見出しが付けられていた。この師団が例外的に日本兵を捕虜にしたのは、軍事情報の収集のために捕虜が必要な場合だけであった。( 容赦なき戦争、副題太平洋戦争における人種差別、カリフォルニア大学教授ジョン・ダワー著 )

病院に対する爆撃

昭和十九年(1944年)五月二十四日にブーゲンビル島 ラバウル基地にあった第 八海軍病院が、米軍機による攻撃を受けて、 患者、看護婦、医師ら千四百名が死傷した 。病院の屋根には国際法の定めに従い、上空からよく見えるように 赤十字の標識 を大きく塗装していたにもかかわらず、それを無視して病院の建物に対して爆撃や銃撃を加えるという国際法違反の非人道的攻撃をおこなった。

それ以後日本軍は病院施設に対する国際法違反の攻撃を防ぐために、地下壕や洞窟内部に病院を設営することにした。

遺体を損壊する行為

日本兵を自分達と同じ人間とは見なさない連合国兵士による、死体や死にかけた日本兵から金歯、耳、骨、頭皮、頭蓋骨などを収集し、戦果の証とする堕落した行為が広く行われていたことも、米国民の間で戦時中からよく知られていた。

日本軍との戦いを前にして武勇自慢をし合う若い兵士達の会話を、ジャーナリストのリチャード・トレガキスが記録している。「 ジャップは金歯をたくさん入れているそうだが、それを頂いてネックレスでも作るかな 」と一人が言う。「 おれは奴らの耳を持って帰るよ 」ともう一人が宣言する。「 塩漬けにしてな」。( ガダルカナル日記、1942年 )

戦後出版された水兵の日記の1944年( 昭和十九 年)七月の記述に、すでに 十七個の金歯を集めた海兵隊員がいて 、その最後の金歯はサイパンで負傷してまだ手を動かしている日本兵の頬を、ナイフで切り裂きほじくり出して取ったものだ、と事もなげに述べられている。( 容赦なき戦争、ジョン・ダワー著 )

太平洋の激戦地ペリリュー島および沖縄で、日本兵の死体から

手を切り取って戦果のトロフィーとする、金歯をあさる、死体の空いた口を目がけて小便をする、恐れおののく 沖縄の老女を撃ち殺し 「 みじめな生活から、解放してやっただけだ 」
と気にも留めない海兵隊員の様子を目撃した。( E・スレッジ、生物学者、1981年に出版の回想録 )

(その五)
フィリピンのラグナラ州カランバには日本兵を収容するルソン第一捕虜収容所があったが、ここはフィヒリピンにおける最大規模の収容所であった。米軍の発表によれば収容された捕虜のうち、戦争が既に終了した昭和二十年(1945年)末までに、栄養失調で死亡した日本兵捕虜は一万二千人にものぼった。

もし日本側の捕虜収容所がこのような米兵の大量死を起こしていたら、原因や経過はどうであれ、B C 級戦犯裁判に掛けられて多数の責任者、兵隊が絞首刑になったことは間違いない。しかしここの米軍責任者は誰も罪を問われなかった。

そこには「バターンの死の行進」に対する 復讐の意図から 、敗戦後も栄養失調状態であった 多数の捕虜 に対して必要な食糧補給をしなかったからである。(孤島の土となるとも、 B C 級裁判)

(その六)
ベトナム戦争においてもかなりの数のアメリカ軍兵士がベトナム人の頭蓋骨を収集していたが、アジア人がアメリカ人兵士の死体に対してこのようなことをすれば、アメリカではどんな反応が起きるかは、考えてみる価値があるだろう。

(米英にとっての太平洋戦争、下巻)

太平洋戦争中の米国による日本人に対する残虐行為は、人種差別に根ざすものだと英国人ジャーナリストのラッセル・スーパーは述べています。

「アメリカ人は絶望的になっている敵国人を殺戮することに、気がとがめなかった。彼らは太平洋において人種戦争を常に派手に戦ってきた。新聞の大見出しになる種を探しているアメリカの高官連中は公然と、日本人を殺すことは シラミ を殺すよりも悪いことではないと言明した。 この残虐性 は四ヶ月後に 広島、長崎でその頂点に達することになる。

(著書、戦艦大和の運命)

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