Cerebral secreta: 某科学史家の冒言録 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2008-09-19

[]駒場出張

また、駒場に来てしまった。朝早くおきて、10時ごろ、駒場に到着。図書館へ行き、一仕事。

11時過ぎに、留学について相談したいという大学院生と相談。ランチを買って、12時から科哲で昼食会。14時に図書館へもどり、もう一仕事。16時に科哲にもどり、講演を聴き、駒下で夕食をして葉山へ帰る。

ウィークディであれば、逗子に11時30分ごろに到着すれば、深夜バスで帰宅することができる。そのためには、渋谷10時20分発の湘南新宿ラインで間に合うらしい。しかし、この日は10時10分発の東横線を使ってみた。11時20分には到着した。間に合ったけれど、これなら湘南新宿ラインでも良かったかもしれない。

[]大学院生の指導とか

大学院生と教員との倫理規範の確立が必要だと感じている。倫理規範といっても、別にセクハラとかパワハラとかの次元の話ではない。そのようなことはあまりに自明だから、論じるまでもないのだ。それよりも、幾つか微妙な問題があるのである。

それは例えば、教員が大学院生に対してアドヴァイスすることに対して、どの程度教員が責任を持つのか、といった問題である。アメリカの大学にいるときに言われたのは、たとえば、論文を教員にみてもらって、コメントをもらったときに、コメントにかかれたその通りに論文を書き換える必要はない、ということだ。教員のコメントというのは、その論文にたいして、そのように反応する一人の読者が存在するという情報を提供するものであって、そのような反応に対して、どのように対応するかは、著者である大学院生の責任で判断すべきだ、というものである。これはもちろん、ハーヴァードの大学院生というのは、入るときから相当自力で研究能力がある人たちなので、あまり一般化できることではないのかもしれないが、しかし、研究者の卵としての大学院生というのは、本来こうあるべきだとも思うのである。

だが、院生がどの程度自己責任で判断すべきか、というのは非常に難しい問題なのだ。

逆に、どの程度、教員が院生に対して、強制力を発揮すべきか、という問題も難しい。例えば、ある本を読むべきだと教員が判断することがあるわけだが、もちろん、本を読むには時間・労力などのコストがかかる。院生のほうは読んでいない本について、それがどの程度重要であるのか、あらかじめ知ることはできないので、自己責任で判断することは合理的でない。さらにいえば、多くの学生は安易な方向に流れるわけで、なるべく本を読まないで済まそうとするか、あるいはいい加減な読み方で済まそうとする。そうしたときに、強制力を発揮して、むりやり本を読ませるのが大学院生のトレーニングになるわけだが、それを強制するには、教員の側に責任が伴う。すなわち、教員の側で、その大学院生を研究者として養成し、博士論文を執筆させるという責任があるときに、そのような強制をする権限をもつべきなのである。その場合には、つまり、院生にサジェスチョンを与えて、あとは自分の責任で判断しなさい、というわけではない。

そして、院生の水準によってはこのような指導をずっと続けなければならない、ということはありうる。とくに、研究経験の浅い、学部時代にちゃんと勉強しなかった院生の場合はそうだ。

逆に言えば、そのような権限のない、指導教員でない教員は、むやみに大学院生に対してアドヴァイスすべきではないと思うのである。大学院生を見ていて、このままではこの人はだめだろうと思うことは、しばしばある。そうしたときに何も言わないのは、別に意地悪をしているわけではなく、アドヴァイスをする立場にないからだ。別に私のアドヴァイスが正しいという保証もないわけであるし、何よりも、アドヴァイスを、正しく理解して、自己責任で受け止めるだけ、研究者として成熟した相手であるかどうか、ある程度よく知っている人でないと確信がもてないからだ。中途半端にアドヴァイスすることはかえって無責任な結果になるかもしれないのだ。だからといって、知り合いの院生それぞれに対して、最後まで責任を持つことは不可能である。さらに言えば、その院生の指導教員に隠れてこっそり指導するようなことはすべきではないのである。

大学院生と、教員との双方で、お互いの責任についての共通の理解が成立していなければ、大学院生の指導はありえない。それが定かでなければ、黙っていたほうがよいと思われる。