身内に葬儀などがあり、忙しくてこのブログを見ている時間がなかったのだが、この5日間、「劇場(芝居や映画、など)」を眺める如くに自分のブログに書き込まれた「コメント」類を読むと、(たぶん、またいきり立つ人が出てくるかも知れないと思いながら)「神学論争」やら「サヨク談義」やら「知識人論・大学教授論」やら、僕に直接関係ないと思われる(間接的には関係あるのだろうが)論議が起こっていて、「賑々しいことだ」と思わざるを得なかった。
しかし、同時に思ったのは、何故人はこれほどまでに他人を攻撃することに浮き身を費やすことができるのだろうか、ということでした――と書くと、お前だって石原慎太郎とか小泉純一郎とかを批判しているではないか、と批判されるのは眼に見えているが、僕は彼ら「個人」を批判したつもりは全くありません。読者に伝わったかどうかはわかりませんが、彼らの言動が示す「思想」について批判したつもりですが、俺達だってお前個人ではなくお前の考え方(思想)を批判しているのだ、同じではないか、という批判がまた山のように寄せられるのだろうな――。他人を「批判」するというのは、経験的に言うのだが、ストレス解消にもなるし、自己顕示欲を満足させるということもある。その限りにおいて、どうぞ「後勝手に」に言いたいところだが、自分を「安全地帯」(自分はブログやホームページを持たないから、ということで)に置いて、人のブログ内で勝手に「論争」(非難合戦)するのはいかがなものだろうか。
そもそも、思い起こして欲しいのは、事の起こりは僕がこの欄で栗原裕一郎氏の「<盗作>の文学史」に対して、僕が関与した「盗作問題」に関する事件に鑑みて「感想」を書いたに過ぎない、ということである。そして、その「感想」に小谷野敦氏が「異議」を呈し、現在に至っているのだが、そのような「発端」から現在のような状況に至るとは、誰が予想したでしょうか。これが、「ネット社会」の現実であるとするならば、僕らはとんでもない「未来」を生きなければならないのではないか、と危惧する。――この欄にコメントを寄せてくる人たちがどのような「未来図」を描いているのか知りたいものであるが、こんなことを書くとまたどっとコメントが寄せられることが予想されるので、今は御免被りたい。
また、以上のこととも関係するのだが、「見解(見方・考え方)の相違」ということを認めない人がこの世の中にはたくさんいるんだな、ということも理屈ではなく実感として知ることができました。――僕がいちいちのコメントに答えなかったのは、この「見解の相違」に基づいた「論争」は、水掛け論になると思い、それは消耗だ、と思ったからです。それ以上でも、以下でもありません。なお、国語学者の方が「況や・言わんや」について黒古が答えないのは卑怯だ、と他の人も巻き込んで執拗に僕の返答を待っているようなので、この際僕の考えを述べておきますが、この「言わんや・況や」について、僕が「況や」の方が正しい言い方だ、といったのは、辞書的な意味では僕の間違いだったようです。しかし、今ここで具体的事例を書けないのが残念ですが(時間があれば調べられるのですが)、明治以降の文学作品の中には結構頻繁に「何をか、況や」が使われていたと記憶しており、僕もそのような使い方をするようになった、ということです。弁解するつもりはありませんが、小説などに使われる言葉には「誤用」「正当な使い方」が混在している場合が多々あり、それらが転換してしまうことなどが多々あります。――
ただ、僕が「匿名」の人のコメントには答えないという「原則」を破り、僕の判断で「特定の匿名者」には答えたこと、これは完全に僕の「判断ミス」でした――どなたかコメントにもありましたが、「実名」を装って僕の返答を引き出し、それに反論を加えるという「高等戦術」について僕が無知だったということ、また「匿名性」に拘る余り、これもどなたかが言っていたことに従って、僕の「恣意」(勝手な選択)によってコメントに返答する、と言えば良かったのかも知れません。――
以上が、「雲隠れ」や「逃亡」していなかったことを明らかにするための僕の見解ですが、現状を憂えていろいろとアドバイスしてくださった方々には、ここに感謝の意を表したいと思っています。いろいろ心配してくださって、ありがとう。でも、僕は元気です。ただ、このような状況が依然として続くようでしたら、僕を「潰そうと思っている人」の思うつぼかも知れませんが、何らかの手段を考えたいと思っています。
では。 |
憂き身をやつす だろププ
ウキは変換ミスだとしても、ツイヤスって覚えてたんだろ?
ご自分でも「僕が無知だったということ」とおっしゃるように、その蒙を開いたのは種々のコメントだったはず。このような形のコミュニケーションは、「未来図」云々する前に、ブログを開く者が享受できる楽しみであり得分そのものではありませんか。ご存知ないらしい。私も二つのブログを運営しておりますが、お叱りも含めてコメントくださる方々に感謝こそすれ、先生の冒頭の一文のような「感想」を抱いたことはございません。
このことから、ふと感じた、これも私の感想ですが、人々は先生の思想ではなく、人格に何かを見たのかもしれません。いやいや、これは単なる私の根拠のない妄想でしょう。心から妄想だとよいと思っています。
これも言わないほうが大人とされる日本の社会ですから言わないほうがいいのかもしれませんが、敢えて申し上げます。
>「雲隠れ」や「逃亡」していなかったことを明らかにするための僕の見解
確かに、いろいろうかがいました。辞書にある用法ではなく、誤用の例を探す時間がない、等々ですね。しかし、決してご自分から「雲隠れ」や「逃亡」云々と、おっしゃらないほうがいい。「問うに落ちず語るに落ちる」ということはご存知でしょう。
このように申し上げても、「賑々しい」ものの一つにすぎず、「眺める如くに」読み捨ててお終いなのでしょうね。私の名前は実名です。ブログのコメントも万人に開放しています。名前をクリックすると私のブログの一つに飛びますから、お試しを。私はいろいろなことを教えてもらうことが多いので、匿名コメントも歓迎ですよ、先生。
では。
が、ストレス解消にもなるし、自己顕示欲を満足させるということもある
なるほど、そうでしたか。
ある記念すべき企画展の公式なカタログで、言わずもがなの中傷的な言辞を読んで、疑問に思いました。
人格を疑わざるを得ませんでした。
Dr. Watermanのコメントに今回は賛同致します。
>僕が「況や」の方が正しい言い方だ、といったのは、辞書的な意味では僕の間違いだったようです。しかし、今ここで具体的事例を書けないのが残念ですが(時間があれば調べられるのですが)、明治以降の文学作品の中には結構頻繁に「何をか、況や」が使われていたと記憶しており、僕もそのような使い方をするようになった、ということです。
要するにこう言いたいんだろ?「むかしのしょうせつかのひとたちもしょっちゅうつかってたんだもん。ボクはそのまねをしただけだもん。ボクはバカなんかじゃないもん」――だったら最初に俺が指摘したときにそう言えばいいじゃないか。お前、俺に対してどういう返答をよこしたか忘れたわけじゃあるまいな?
>僕が使っている「大辞林」や「広辞苑」には、「況や」が最初に出てきて、「言わんや」はその通用語であるというようなことが書いてあります。意味がわかるかどうかわかりませんが、あなたのような方を「一知半解」というのです。
あのな、再三言ってるが、『大辞林』にも『広辞苑』にも、お前の言うようなことはいっさい書かれていないぞ。お前の狂った読解力がそう読ませてるだけであってな。――ともかくお前は当初、「辞書にちゃんと書いてある。したがって自分は正しい」と言ってたじゃないか。なぜ今になって「明治以降の文学作品」なんぞを持ち出すんだ。責任転嫁はやめんかい、みっともない。それに、なにが「一知半解」だ、この耄碌爺。てめえが間違ってたと認めるなら、この発言についてさっさと謝罪しやがれ。
もしお前の言うとおり、「明治以降の文学作品」に「何をか況や」の用例があったとしても、だからといってそれが正用だとは言えんわな。お前も
>弁解するつもりはありませんが、小説などに使われる言葉には「誤用」「正当な使い方」が混在している場合が多々あり、それらが転換してしまうことなどが多々あります。
などと不細工な文章で見苦しく付け加えてるが、どう頑張っても「許容される程度の誤用」ってとこが関の山だろ。「『況や』の方が正しい言い方だ」などとは
絶対に言えんはずだ。
いずれにせよ、お前の「記憶」にあるという、「明治以降の文学作品」における「何をか況や」の用例を、典拠を明示して挙げてもらわんことにはおさまりがつかねえな。この際「時間がない」などという言い訳は通用せんぞ。
――Waterman先生へ
>これも私の感想ですが、人々は先生の思想ではなく、人格に何かを見たのかもしれません。いやいや、これは単なる私の根拠のない妄想でしょう。心から妄想だとよいと思っています。
いえ、先生の妄想などではありません。紛れもなく黒古の人格こそが問題なのです。
>「問うに落ちず語るに落ちる」ということはご存知でしょう。
いや、たぶん知らんと思います。
待ってましたとばかりに、コメントを書き込む
暇人さんたち。またかとうんざりします。
少し前までは、旅行記や農業の話をはじめ、
難しい政治の話や、内容も様々で、
コメントする方のまた様々なコメントを寄せていて、ためになるブログでした。
意見の相違があれば先生は丁寧に答えていたし、
感謝の意も表されていたと思います。
しかし、他人をバカだのクズだのと
罵るコメントにも感謝しないと
いけないのでしょうか?
ブログをたくさんお持ちで、事情に詳しい
偉い方でもさえも、他人のブログで
先生の人格がどうのこうのと、
正直随分失礼だなと思います。
京大の学生さんにしても、(大学のレベルに
ついては詳しくありませんが)
京大といったらイコールエリートと連想する
私にとっては、そんな偉い方が、目上の先生に
対して、お前呼ばわりのあげくバカだの、
てめえだのとひどい言葉でコメントする
なんて信じられません。
幼稚園や小学校で、人をバカにするようなことを
言ってはいけませんと習いませんでしたか?
あなたこそやり直した方がいいのでは?
そういえば、ここでコメントされている
もう一人の偉い先生(確か早稲田大学の先生?)も、
自身のブログで、黒子先生をバカだのクズだのと
書いておられました。
まったく、何が偉くて何が偉くないのか
わからなくなります。
つまらない話は、もうおしまいにして欲しいです。
てめえだのとひどい言葉でコメントするなんて信じられません。
ほう、そうかい。じゃあ信じなきゃいいじゃねえか。勝手に人の大学に妙な幻想抱くんじゃないよ。京大にはあんた好みの穏やかな物言いをする奴もいれば、俺みたいな荒くれ者もいるんだよ。俺は自分のことをエリートだなんてこれっぽっちも思っちゃいないがな、エリートであるか否かと言葉遣いの良し悪しなんて関係あるかよ。「目上の先生」だ?だから何だっつうんだよ。目上だろうが何だろうが、尊敬に値しない奴に対してはいっさい敬意を表しないというのは、俺が小学生の時から貫いてる方針なんだよ。ほっとけ。
この俺だってな、あんたも知ってのとおり最初のうちはあえて丁寧な言葉遣いをしてたんだぜ。ところが黒古のバカがいつまでもだんまりを続け、ようやく返答したかと思えば愚にもつかん言い訳を並べるばかりで、人のことを「一知半解」などと罵ったことに対して一言の詫びも述べやがらねえもんだから、アホらしくなって猫かぶるのやめたんだよ。
だいたいよ、バカにバカと言って何が悪いんだよ。俺は自分の無知や間違いが明らかになれば、誰に何と罵られようが自業自得だと思って甘受するがね。
ところで、「黒子先生」って誰だい?あんた、クロコデイロス先生の教え子かい?誤字脱字の多さはお師匠さん並みだね。
黒古氏は「況や」という漢語について、辞書の定義よりも「明治時代の小説」を重視するおつもりなのか?
以上を前提に申しますと、吉高さんにおかれましては相手を「バカ」と罵るのは慎むべきだと存じます。あなたの知性が、バカという罵倒によって霞んでしまうからです。むろん慇懃無礼を奨励しているわけではありません。況やの問題について、冷静で、上品に語ることができれば、あなたの知性はより輝くと思う次第です。
私の知性などたかが知れていますが(そもそも「況や」問題のごときは知性で勝負するようなレヴェルの話でもありませんしね)、小谷野先生やWaterman先生のようなdoctissimiの顰みに倣い、冷静かつ上品な物言いを心がけねば、と自戒する次第です。
小泉改革の結果、汚染米の問題が生じたと、先生は仰っています。今も本当に、そう思っていますか?
この問題について、私は吉高氏が「況や」の問題について示したしつこさを継続していくつもりです。
>け、跋扈している連中がいます。内田樹とか中島岳>志とかいう連中で、さらに狡賢い連中は、決してブ>ログなど持ちません。黒古先生はできる限り誠実に>対応したと思います。本当に悪い奴は、いつも影に>隠れるものです。
小谷野先生、はじめまして。
先生のはてなダイアリーでのブログをいつも楽しく拝見しておりますが、もし、あそこにコメント欄ありせば、一般の方々や専門職の方々の旺盛な投稿によって、もっともっと深化されたコンテンツが期待できると思うのですが、如何お考えでしょうか。
(黒古先生、表題記事と関係ない内容のコメントで申し訳ありません)
ここはいわば“黒古理容店”でして、店主の黒古さんが、ご常連さんの前で“なんとなく反体制気分”で心地好く床屋政談をしていたのです。
論理整合性とか事実関係をあまり重要視していないんです。
況や、や、小泉改革と汚染米の因果関係についても、うろ覚えの知識を基に気分でしゃべっているのです。
そういう政談のファンだっているわけだし、いいじゃないですか、そんな理容店があっても、ほほえましくて。
これが大きなメディアにスペースが割かれていたり、ブログの世界でも小谷野さんのような読み手の多い人が唱えるのなら、たしなめるべきですが、ここはそういうところじゃないのですから・・
いまここでムキになってコメントしている人たち、多くは猫猫から栗原問題で流れてきたのでしょうが、あなた方は理屈が得意なんだから、自説を展開したければ、床屋政談の戯言に絡んでいないで、もっと適当なところを探したらいかがでしょう?
ほくろ(笑←まね)さん、ここで汚染米問題をしつこく追及していくって(せっかくいい提案をされて、あの学生さんも気持ちいい対応をされたというのに)、ご冗談でしょう!!
>たくさんいて、ブログに批判的なコメントを
>つけても(むろんそれはごく真面目な疑問
>なのですが)、一切返事せず、そのことに
>よって「大人」としての評価を受け、跋扈
>している連中がいます
ご自分のブログのコメント欄を一切閉鎖している小谷野さんよりはマシだと思いますが。
お気持ちを害されたようで、申し訳なく思っております。
なかなか結構なご提案じゃござんせんか。手前も一読者として申し上げやしょう。
「ほくろ」さんと「吉高和史」さんとの間の提言とその受容は言葉遣いの問題であって、黒古先生への追及そのものを止めちまえってことじゃございませんわ。黒古ブログに慣れ親しんだ方は、読み取りが甘くなるというわけではないでしょうね。どうして、
>ほくろ(笑←まね)さん、ここで汚染米問題をしつこく追及していくって(せっかくいい提案をされて、あの学生さんも気持ちいい対応をされたというのに)、ご冗談でしょう!!
となっちゃうのかわかりませんわ。ご冗談でしょう?
床屋談義結構ですよ。誤りを誤りとも知らず、認識不足を認識不足とも知らず、害悪を害悪とも知らず、非道を非道とも知らぬ輩、おっと、忘れるところでした、一読者さんのような読解力のない方をも再生産してゆくブログをそっとしておけとの提案ですね。
おいらのような<めんどくさがり>は、ああそうかい、と賛同するかもしれません。そうなるといいですね。(いつまでも読んでると読解力がなくなりそうだし、ほんとにブクマ消しちゃうかな。)
しかし、世の中には、もっと真面目な人のほうが多いかもしれませんよ。小谷野氏のブログで黒古ブログを知った人が多いことは想像できます。しかし、きっかけは何にしろ、このトンデモブログを見て、あるいはコメント者との応答振りを見て、義憤(あえて義憤と言っときます)を感じた読者も少なくありますまい。
そうなると、黙っていられないんでしょうな。あっ、黒古先生、私、コメント欄の「大人」の対処の仕方を伝授したものですよ。床屋さんだって、このような実名堂々(かっこいいなあ)ブログの場合は、今どき知っておくべきことはたくさんあります。小谷野先生ご推薦の本くらいお目を通されてはいかがでしょうか。たかが東大修士程度の著者ですがね、役には立つかも。
(一読者さんの思惑に反して、今はコメントが少ないが、大学関係者が多そうだから、週明けはドドーと来そうだな。まず「ほくろ」さんから来るな、きっと。)
>匿名でYahooオークション
と匿名で意見述べるのとは違うだろ、普通。
上のようなこと言ってると自分がWだぞ。
小谷野先生って確かに、
ブログ→リンク先→問い合わせ
になってるわ。誰か試してみたら。
ご自身が世の中からどれほどキワモノ扱いされているか、よくご存知でないようで。
どうぞご自愛ください、いろいろと。
自分の都合の良いときは世の中に対する「異議申し立て」で、都合が悪くなると「床屋政談」というのはご都合主義だよね。
ネットの良い面は都合良く利用するけど悪い面は批判というダブスタだ。