小谷野さんから、(たぶん、僕の著書『三浦綾子論ー「愛」と「生きること」の意味』<94年 小学館刊 今年中に80枚ほど増やした「増補版」が出ます>を意識しての質問だと思うのだが、『氷点』で主人公の「陽子」が物語の終盤になって「自分は犯罪者(殺人者)の娘である」と意識するようになったことに関して、「犯罪者の娘もまた犯罪者のごとくに想定する点で差別的な小説だと考えており、……いかがお考えか、お聞かせ下さい」との質問があった。
そのことについてお答えしたい。僕は、三浦綾子の文学について考え続けてきた批評家の一人として(また、何度か直接お会いして彼女の人間観・文学観についてお話を伺う機会を持った人間として)、基本的に三浦綾子という作家は「差別意識を持たない作家」、あるいは「内なる差別意識を排除しようと努力してきた作家」と言えるのではないか、と思っています。その意味で『氷点』において『差別』を増長するような意図は全く三浦綾子の中にはなかった、と僕は思っています。ただ、小谷野さんが指摘するような意味での「差別」は、三浦綾子の「無意識部分」にはあったかも知れません。僕も含めて誰でも、「無意識」のうちに他者を「差別」することがあるからです。特にプロテスタントの熱心な信者であった三浦綾子の人間観の根底には、「性善説」があったと僕は見ており、殺人=悪、犯罪=悪と単純に見ていたのではないか、とも思っています。これが、小谷野さんのような考え方も「あり」かな、と思う理由です。
ただし、僕自身は「陽子」が「人間の中には<氷点>がある」(要旨、つまり「犯罪者の娘もまた犯罪者である」という考え方を許す三浦綾子の思想)と言った意味は、小谷野さんがいうようなことではなく、自分が存在することによって自分を育ててくれた「辻口家」やその関係者に言うに言えぬ精神的負担をかけたことの全体=総体に対してであって、「犯罪者の娘もまた犯罪者」という考え方とは違うのではないか、と思っています。つまり、「人間の心の中には氷点がある」という考え方は、キリスト教で言う「原罪」から導き出されたもので、そうであるが故に『続氷点』において、実は「陽子」は犯罪者(殺人者)の娘ではなかったことが証されるようになったのだと思います。この『氷点』から『続氷点』へ移行する際の「差違」について、僕はやはり小谷野さんが言うような三浦綾子の「差別」意識(思想)に基づくものではないのではないか、と考えています。
詳しくは、拙著を読んでいただくしかないのですが、これでいいでしょうか。
なお、一つだけ訂正があります。それは僕の著書は昨年までで「21冊」(編著書・共著は別。因みに、自費出版は1冊もありません)、「10冊以上」(僕の解釈では12,3冊)ではありません。今年は、(僕の努力次第ですが)先の「増補版」も含めて3冊出る予定です。
(昨日のこの欄に「農水省」と書くべきところ年金のことを考えていたので「厚労省」と書くなど「重大な間違い」がいくつかありました。気が付いたところは訂正しておきました。読者の皆さん、ご了承下さい。) |
おれの批判に答える答えないは自由だが、おれの批判には応接すべき理があると思うから言うだけだ。
三浦綾子のような通俗作家にゴマをすろうなどという黒古先生のコンタンは卑しいが、それはまあ良い(そりゃぁ、三浦綾子も生前1冊くらいはモノグラフィーが欲しかったろうし、版元もサーヴィスしてやりたかっただろうよ)。で、プロテスタントが「性善説」だという珍説の意味ワカラン。それでなおかつ、「原罪」云々というのだから支離滅裂だ。「原罪」を背負ってても、人間は「性善」なんですか?そのことについての説明は、増補版でしてあるんでしょうか?
問題は、黒古先生の言う差別意識なるものが、「『差別』を増長するような意図」の有無に基本的に規定されているとされているところだ。しかし、先生が選考委員をしている部落解放文学賞の胴元が言う「差別」は、「意図」などに関係なく、「無意識部分」に向けて差別糾弾闘争を行ってきたのではないか? ちなみに言えば、おれは、そういう糾弾闘争の意義を一定程度評価するものである。それが、黒古先生の誇る「全共闘」の言った、「すべてのことは政治的である」という言葉の世界的な意味でもあった。ただ、その糾弾闘争が、自派の都合のいい者には極端にアマくなり不都合な者には必要以上に厳しくなるということを何度も見てきた。そのところには批判的だ。黒古先生の三浦綾子擁護は、間違いなく前者である。『氷点』という通俗小説の通俗な所以は、たとえば、かつてハンセン病が「原罪」だと言って大衆に媚びた多くの小説と同じ(いや、それ以下)であることは明らかではないか。
黒古先生は、それでも左翼で全共闘世代なのか?
おれには、サヨクの恥、全共闘世代の恥としか思えん。
あまりにもバカバカしいので、怒り心頭、小谷野先生より先に書き込んでしまいました。スマソ。
一般化した場合:プロテスタントが性善説とか性悪説とかはないでしょう。また、原罪は、とくにプロテスタントと繋がるということではありません。
三浦綾子の場合:「生前」に確認しておくべきだった、ナンチャッテ。
いや、真面目に言えば、クロコダイル先生が「三浦綾子が性善説を取っていた」と作品等から立証できるなら構わないでしょう。しかし、上にも述べたとおり、彼女がプロテスタントだからというのは理由になりません。
(しかし、「はてな」の自動URLリンクと違って、URL貼り付けたって実名かどうかわかりませんな。私がいくら実名と主張しても、そちらでは確認できないので匿名と同じですわ。)
連投スマソ
先生は目が悪いかブラウザの文字を小さくしているのではありませんか。
誰でも誤字やミスタイプはありますが、学校の先生としては確かに多すぎますので。
余計なことですみません。
三浦綾子が言っているのは、単なる「親の因果が子に報い」的な因果話。まぎれもなく差別的だ。
そして、そのいい加減さ(非哲学性)はこの部分につきる。
>実は「陽子」は犯罪者(殺人者)の娘ではなかっ
>たことが証されるようになった
ほう。そのご都合主義的プロットでどうやって「犯罪者の娘もまた犯罪者」という差別的意識が解消されたといえるのかな?
>この『氷点』から『続氷点』へ移行する際の「差違」に>ついて、僕はやはり小谷野さんが言うような三浦綾子の>「差別」意識(思想)に基づくものではないのではない>か、と考えています。
「と考え」た黒古センセの意識(無意識?)のなかには、なお「でも、本当の人殺しの子なら人殺しと同じ」という差別意識がウズ巻いているのではないか?
とうとう文芸サヨクの底が抜けはじめたな!
ところで、もう一つ。黒古先生は『氷点』と『続氷点』の「差違」と(わざわざ括弧付きで)おっしゃっていて、この「差違」に深遠な思想が込められているように言っていますが、この「差違」って何ですか?
昔、ある書評で黒古先生が「脱構築」なんて言葉を一知半解(というよりは、無知に基づいて)使っているのを読んで呆れはてたことがありましたが、まさか、デリダを念頭において三浦綾子を論じたなんて言い出すんじゃないでしょうね。
ちょうど先生は全共闘世代(団塊世代)にあたるようですので、お尋ねしたいことがあります。
まずこちらをご覧頂けますか。
http://kangaeru.s59.xrea.com/G-Satujin.htm
少年犯罪はちょうど1950年から1960年にかけての犯罪が非常に多いという統計結果になっています。
これは先生と同時代の少年が該当するものと思われます。
昨今の少年犯罪のひどさがマスメディア上で声高に叫ばれていますが、統計を見る限り、実は半世紀ほど前の日本のほうが、むしろひどい状況だったのではないかと思うのです。
果たして当時の人々には、少年犯罪がひどい時代だったという認識があったのでしょうか?
そこで同時代に生きた者として、先生に当時の少年犯罪はどのように苛烈なものだったのか、何かエピソードなどをお聞かせ頂きたいのですが、このような質問にお答えいただくことは可能でしょうか?
よろしくお願いいたします。
私は三浦綾子より住井すゑの方が遥かに好きです。
以下は、自称小谷野先生に対してです。
>そしてキリスト教において、親が犯罪者であれば子も罪人という思想は、あったに決まっており、なぜならキリスト教徒の多くは、ユダヤ人を、キリストを殺した民族の子孫として差別してきたからです。
というのはどこかからの引用ですか。それとも小谷野先生の認識ですか。もし小谷野先生の認識なら、
>親が犯罪者であれば子も罪人という思想は、あったに決まっており
とは、何を根拠に。
>キリスト教徒の多くは、ユダヤ人を、キリストを殺した民族の子孫として差別
通俗西洋史ですね。キリスト(ナザレのイエス)自身が純粋なユダヤ人なのにね。
そうでなかったら、小谷野先生ごめんなさい。
(どうも、このブログではクロコダイル先生が匿名匿名というわりには「はてな」のような本人確認機能がないのですよ。私も私自身を証明できないし、猫猫先生も本人かどうかわかりませんよ。どうも変だ。)
Dr. Marks こと
Mark W. Waterman, Ph.D.
↑このように書いてもむなしいんだよ。このシステム。
バカ
クズ
と罵った相手を、
相手ブログのコメ欄で
「先生」
とか
「礼を失したことがあればお許しください」
などとヘリ下れるのだろうか。
実に不思議です。
ただ、僕はあなたの言う「1850〜60年」が僕の5歳から15歳に当たり、人口4万人足らずの田舎町で育っていますので、実感(記憶)としては僕の育ったその町で、僕らと同世代の少年が殺人事件を起こしたということは記憶していません。しかし、新聞やラジオ(テレビはその当時、ほとんどの過程で所持していなかった)のニュースで少年が起こした「凶悪犯罪」(殺人事件や強盗事件など)を知った大人たちや教師たちが「また浮浪児(戦災孤児)が事件を起こした」というようなことを話していたのを聞いたことがあります。
戦争が終わって10数年、文学も含む様々な分野で「もはや戦後ではない」と言われたのは、確か1960年代の半ばだったように記憶していますが、それ以前は、戦争(銃後も含む)による精神的な荒廃が激しかったのではないか、と思っています。警察による都会(恐らく県庁所在地の都市と同等以上の都市)での「浮浪児」狩りのことをある教師が「お前たちも街でふらふらしていると捕まるぞ」と半ば脅かすようにしゃべっていたのも記憶していますし、戦争の後遺症ということであれば、夏祭りや神社の例大祭、鎮守様などのお祭りに行くと必ず白衣を着て軍歌をかき鳴らす「傷痍軍人」を見ることになり、子供心に「戦争の爪痕」がいつまでも残っている、というようなことを思ったものです。
体験的な言い方になりますが、僕の記憶ではその4万人弱の町で僕が育った時代に同じ年頃の少年が殺人を犯すという事件は全くありませんでした。
ですから、あなたが改めてお示しになった「統計」と僕の体験では大きな「ズレ」があり、そのことが僕の昨今の「少年凶悪犯罪」に対する考えに影響しているかも知れません。経済的にも精神的にも追い詰められていた「浮浪児」を中心とした当時の少年たちの犯罪には、僕の記憶を元にした思考では、何らかの「理由」があったのではないか、という思いが強くあります。例えば、何不自由なく育った中学生たちが「面白半分」にホームレスを襲って殺すというような事件はなかったのではないか、と思っています。「団塊の世代」ど真ん中の家人(彼女は僕の育った田舎町よりもう少し大きな都会の真ん中で育ちました)にも聞きましたが、少年犯罪が頻発していたという記憶はないそうです。
以上ですが、これでよろしいでしょうか。
ただし差別意識があるからといって、必ずしも作品の価値が損なわれるとは限りません。そのような差別意識を持った人間の姿、或いは差別意識そのものを描くということが、文学として優れた価値をもつ場合もあるからです。そして勿論、作者自身が差別意識を客観化してなくて「本当に」差別意識を持っていた場合であっても、いい作品になることはあるでしょう。
三浦綾子を擁護するなら、そういう観点からするしかないでしょう。差別意識がない、と言うことはどう見ても不可能であって、黒古君は何かの必要があって詭弁を弄していると見られても仕方がない。
あんたみたいな、いい加減な「実感(記憶)」で少年犯罪を語る輩は、「市中引き回し」発言の鴻池みたいなのと寸分も違わねーんだよ! これで自分では「進歩派」「リベラル」気どりなんだから、救いようがない。
保守反動ブタ、社会統制権力のイヌめ。何が原爆ブンガクだ。何が戦後民主義だ。あんたの世渡りダケのための左派ポーズにはうんざりだ。
あんたの頭の中にあるのは、偏見と差別意識と俗情との結託と地位への執着(筑波大学長への抗議をにおわせたら、あわてて訂正陳謝する卑怯さ!)と……そんなガラクタばかかりだ。
大学教員どころか、市井の言論人としても、あんたは完全なニセモノだよ。
>「匿名」(訳のわからないペンネームも同じ)を隠れ蓑にしている人には一切応接しませんので、悪しからず。
だよ。「タケ」と名乗る人にはちゃっかり返答してるじゃないか。
逃げ回るのもいい加減にして、前エントリに付した私のコメントにさっさと応答しろ、このクズ。
ここを見ている筑波の学生さんたちや同僚の先生方(if any)はどう思ってるんだろうね。黒古一夫が大学教授にあるまじき凄まじいまでのバカであり、しかも一言論人としての誠実さの欠片も持ち合わせていない、卑怯千万、厚顔無恥の愚物である――要するに完全な不適格者であることを示す、これまでの経過をまとめて文書にし、大学に送りつけてやったらどうなるだろうね。
旧約聖書ではヤハウェ(とその名前を発音することにしますが)は、従えば(或いは現に従ったので)子々孫々に到るまで繁栄させるが逆らえば(或いは現に逆らったので)子々孫々に到るまで侮りを受け恥辱にまみれさせるぞ、というタイプの飴と鞭をことあるごとに使っています(カインやハムやエサウの子孫はいい迷惑です)。ということは、酷い目に遭っている子孫が「なぜですか?」と問うと「お前の父祖が〜したからだ」という応答だけが帰ってくるわけなので、これは「親の因果が子に報い」の典型ですね。ヨブ記に見るように「義とされた人」がこの世に於いて繁栄を享受するかというとそんなことはなく――ヨブ記だと最後に無理やりとってつけたようにまた家産が増えて子孫が繁栄するわけですが既に死んじゃった子孫なんざ気にも留められていない――仮に子孫が「義人」だったとしても(つまり「罪人」ではなかったとしても)、親の因果のせいで酷い目に遭うということは旧約聖書的に不思議なところはない。
ユダヤ人迫害はどうなんでしょうね。福音書にはピラトとのやり取りで、ユダヤ人の会衆が四シュア殺害の咎を自分たちと自分たちの子孫が引き受ける(から是非とも処刑せよ)という宣言をしたことになっているわけですが――これも子孫の側からしたらいい迷惑で子孫自身が咎を引き受けたわけじゃないのですが――先祖の行為のせいで子孫もその咎を引き受ける(つまり「罪人」)ということになるのでしょう。こっちは一応「罪人の子は罪人」という発想なんでしょうかね。ただ、現実のユダヤ人差別は基本的には日本の部落差別なんかと一緒で理由なんかありはしない(いやまあ利子とって金融業営んでれば逆恨みは買うでしょうが)、しかし「どうして差別するのか」と問われてから後付の理屈として初めてこういった聖書的言い訳が出てくるに過ぎないでしょう。だから、キリスト教徒がユダヤ人差別以外の日常の場面で「罪人の子は罪人」というような発想をしていたかというと、それは良くわからない。
> 通俗西洋史ですね。
> キリスト(ナザレのイエス)自身が
> 純粋なユダヤ人なのにね。
ヨシュアの人性を否定するタイプの(或いは少なくともカルケドン型三位一体説ほどに人性を重視しない)古代教会の教派なら、ミリアムがユダヤ人であろうと、ヨシュアのユダヤ人性を否定するのになんの苦労もなかったでしょう。それにヨシュアのユダヤ人性を認める三位一体説の場合だって、「メシア」殺しの「罪」はヨシュアが死んで初めて成立するわけなので、ヨシュアが生まれてから死ぬまでユダヤ人であったとしてもヨシュア本人は「メシア」殺しの「罪」を負ったりしないわけですよね(ヨシュア以前のユダヤ人が遡及的に「メシア」殺しの「罪」を負ったりしないのと同じ & ユダヤ人である旧約聖書の預言者たちが「メシア」殺しの「罪」に問われたりはしないわけで)。従って、ヨシュアのユダヤ人性についてどのような見解を取ろうと、ユダヤ人の「メシア」殺しを以降のユダヤ人の「罪」として糾弾する妨げにはまったくなりませんね。
ところで、黒古がいかに「筑波大大学院教授」の地位に驕っているかという一例。黒古ブログ2007・8・11付け参照です。
司修法政大学名誉教授と一緒に与謝野蕪村の調査をやった時、地方のコレクターが「筑波大大学院教授」の名刺出したのにお宝見せてくれないというので怒っている。何じゃ、これ。突然あらわれた人間が小うるさくて見せてやらないというのは、フツーの人の常識的な反応だろう。自分を何様だと思っているのかね。また、そのコレクターが司修を知らないというのにも怒る。一般人が司修知らなくて当たり前でしょ。これって権力意識丸出しじゃないですか。村会議員みたいですね。
この間のコメント欄の相対的にリーズナブルな批判にレスポンスしようとしない傲慢さに通じます。
本当に、自分が権力的でないというのなら、答えてみなさいよ。
しかし、別に司修とか知らなくても全然構わないような。たいした画家でも作家でもないでしょう。黒古先生は自分が知り合いであることが誇らしい「有名人」が実はそんなに有名じゃなかったので、虎の威を借るなんとやらおとしてはご自分の自尊心も傷ついちゃったのでしょうね。でも先生の本丸ご本尊であらせられる立松和平も全然有名じゃないですから安心してくださいね。知ってたとしても、テレビに出てきてキモい栃木弁で知った風なナレーションするウザい奴くらいなもんです。
> まだ大学院生の時、依頼されて各地の同人雑誌や文化活動を
> 取材したことがあるのだが、地方文化人の対応はおしなべて
> 2通りに分類できるものであった。一つは、取材に来てくれた
> ことにひたすら感謝して全面的に協力してくれるタイプで、
> もう一つは「俺は地方文化を支える偉い人なのだ。聞きたい
> ことには答えてやるが、余り協力はしないぞ」という
> ふんぞり返っているタイプ。
その2007年8月11日の記事のこれも実に味わい深いなぁ。取材如きで舞い上がって色々しちゃう奴の方が地方コンプレックス丸出しでキモいだろう。ちやほやしてもらえないと、思わず相手が傲慢だということになってしまう黒古先生でした、の巻。
まあそもそも同人とかやってる時点で自意識過剰――取材と見れば私を見てみてみてとばかりに飛びつく or (ふんぞり返っているかどうかはともかく)取材なんかに舞い上がらず阿らないオレ偉いなあ――のキモい人が多いという点に関しては、黒古先生に同意しますね。確かにその2種類しかいないもんな。
そうなると昨今のマスメディアの報道のされ方と半世紀前の報道では、少年犯罪に対する扱いが違っていたりするのでしょうか?
テレビがほとんどなかったとおっしゃっているので、新聞とラジオの報道のみの時代とは、マスメディアの少年犯罪の報道の仕方も代わり、現在の少年たちは自分自身がテレビのニュースで気軽に事件を知れることも要因なのでしょうか。
先生は少年犯罪の報道を「大人たちや教師たち」から聞いて知ったということなので、先生の時代には少年たちはあくまでまわりの大人たちからの聞き伝えが主だったわけですよね?
先生の時代の少年たちも今の子どもたちと同様にあまり新聞も読まないし、ラジオでニュースを直接には聞かなかったと(と解釈してしまってよろしいでしょうか?)なると、いかに現在のテレビ中心のニュース報道が少年たち自身に直接的な影響を与えているか、とも受け取れます。
ニュースを周りの大人たちを経由して(身近な大人のバイアスをかけて)耳から知る先生の世代と、ニュースを直接テレビの映像から目で知る世代とでは、影響が異なるように思います。
少年犯罪報道の過程やあり方も考えなければなりませんね。
新聞やラジオではなく、周りの大人からニュースを知って育ったという先生の体験談は参考になりました、ありがとうございます。
> 経済的にも精神的にも追い詰められていた「浮浪児」を中心とした当時の少年たちの犯罪には、僕の記憶を元にした思考では、何らかの「理由」があったのではないか。
半世紀前の少年たち(「浮浪児」という言葉は初めて知りました、勉強になりました)には経済的、精神的な理由があったと述べておられます。
しかし現在の少年犯罪にも、経済的にはともかく(それだって物が溢れている昨今では友達の家庭と比較することでの所得格差は子供ながらに感じるとは思うのですが)、精神的な理由はあると思うのですが、先生(を始めとする多くの大人たち)の「何不自由なく育った中学生たち」という言い方には、現在の子供たちの精神的な理由を探ろうとする思考が欠け、経済面しか指摘されていないように思います。
私は「何不自由ない」という状況は、常に自分自身での行動の選択決定を迫られるという意味で、むしろ「不自由」であると考えています(むしろお前がこれをやれ、と一方的に決められていたほうが楽な面があります)。
「あなたは何をやってもいいよ、けど何をやるかはあなた自身が決めなさい」という状況は、それに対応できない人間にとって、きつい社会になると思います。
また質問をよろしいでしょうか。
半世紀前の少年たちで犯罪をしていた者は、精神的経済的に追い詰められていたとのことですが、それで全員が全員精神的経済的にも追い詰めらる少年ばかりではなく、普通の家庭の子供や裕福な家庭の少年たちもいたはずですが、半世紀前には経済的精神的に余裕のある立場にいる少年の犯罪は存在しなかったのでしょうか? 当時の少年犯罪は全て「浮浪児」の仕業だったと言い切れるのでしょうか?
半世紀前は新聞とラジオだけがマスメディアの時代と言うことは、今よりもずっとニュース報道の数も少なかったわけですし、少年犯罪自体も今よりもずっと多い時代と考えると、裕福や普通レベルの家庭の少年犯罪が、「浮浪児」の犯罪の影に隠れてしまった可能性があるとは考えられませんか?
それ故、このブログとコメント欄、小谷野、栗原両氏のブログ、それに付随する2ちゃんねるでの書き込みは近来の快事である。益々の発展を望む者である。
以下同様に意味不明の文章が続く人は、
もしかして、
自称小谷野敦。
本名は勘弁していただきたいのですが、都内の大学に通っている者で、少年犯罪を研究したいと考えています。
なにか問題が? もしかして「ヨシュア」「ミリアム」という呼称が気に入らないのか?
「子」に於けるhuman natureがJewishnessという普遍者を例化している(Ockhamのようにuniversalsではなくaccidentsだというのでも構わないが)を備えている――スコラ的にはhuman natureはsubstanceだから――ということを普通の三位一体説が認めないとでも? 「子」は(というか少なくとも「子」のhumanitasが)人間的不完全性を蒙っていることを否定するのか? もちろん「子」がその存在性をhuman nature自体には負っていないという立場を取ってJewishness(やその他の人間的属性)が「子」にとってはexternalなものに過ぎない――本質的には「ユダヤ人」ではない――という立場を取る三位一体説も可能(この立場は究極的にはdocetismと区別がつかなくなる恐れがあるが)。これが「意味不明」なの? 特定の信仰に照らして賛同できないとかいうことはありうるかもしれないが、言語的にも形而上学的にも別段「意味不明」ではない。
で、普遍者であるユダヤ人性について(或いはその個別化されたaccidentsについて)、それがたとえば「罪深い」という属性を有しうるか否か(そして現に有しているか否か)、その属性が内的か外的か、ヨシュアの処刑という出来事との関係によるものか否か、といった形而上学的問題があり、そしてどのような立場を採るかに応じて、「ユダヤ人」の(或いはユダヤ人であることの)「罪」などというものがありうるのか否かが影響を受けるわけだ。ある特定のキリスト教信仰に於いて、「ユダヤ人」という属性そのものが「罪」の徴表を帯びているかどうかなどを問題にしているわけではない。「ヨシュアは純粋なユダヤ人であった」ということだけから、「ユダヤ人」という普遍者そのものが罪の徴を帯びている――ヨシュアを殺したユダヤ人の子孫もまたヨシュアを殺した罪を負っている――という立場の成立可能性を否定することはできない(他の補助的前提がない限りは)。「キリスト(ナザレのイエス)自身が純粋なユダヤ人なのにね。」などといえば、「通俗的」なユダヤ人差別の――「メシア」を殺した民だからという――論拠が崩れるなどというのは幼児向けのおためごかしに過ぎない。それだけのことだ。
あなたの信仰、或いはあなたの奉ずる特定セクトの「神学」が、ユダヤ人を「罪ある民」とみなすことを誤っているとみなしているかどうかには私は興味も関心もない。
とか言われるとそれは神学(theology)なのであって、Metaphysics などではありえない。
そして、「普通の」というわけですから、三位一体説の変遷にもかかわらず共通した概念なら三位のすべて(父、子、聖霊)のすべてが神格(Godhead)なのであって、ここで個別のペルソナの人性と神性(deity)をごっちゃにして論ずるのは、そもそも間違いなのですよ。(この辺りで基本知識の欠如で100点満点の50点減点)
熱心なのは認めますが、間違った前提から飛躍に飛躍を重ねた議論を空論(metaphysics)とも言います。意味がありません。わけがわからないというのはそのことです。日本語も私には難しかったなあ。
>あなたの奉ずる特定セクトの「神学」
上記のことは特定セクトも何もありませんよ。現代のまともな教育機関で「神学」を学んだらどこでも同じことです。ヨシュアと言おうがミリアムと言おうが私は構いませんが、普通はそんなふうには言わないものですよ。奇を衒いすぎ。それを衒学といいます。それこそ、どこぞの新しいカルトかと勘ぐられますぞ。
もともと私は特定セクトに属するどころか、(黒古先生のような有名人ではないからあなたが知らないのは仕方がないが)神学も哲学も大嫌いと日頃からブログなどで公言している聖書学者です。
もっとも、嫌いだからといってそれらの分野の素人ということではありませんよ。一応10年くらいの研究歴があって、Ph.D. を含めて学位二つと単行本2冊(ちっ、黒古先生には数で圧倒的に負けるな)。
なんだか横レス連続で皆様ごめん。この名無しさんがちょっと気になったものだから。
んっ、そんで、あなたは自称小谷野敦ではないわけね。私の敬愛する猫猫先生ご自身でもないわな。
おやすみ、寝ます。黒古先生失礼しました。MWW
> 共通した概念なら三位のすべて(父、子、聖霊)のすべてが神格(Godhead)
> なのであって、ここで個別のペルソナの人性と神性(deity)をごっちゃに
> して論ずるのは、そもそも間違いなのですよ。(この辺りで基本
> 知識の欠如で100点満点の50点減点)
そういわれればまったくその通りですね。専門家でもなんでもないので「はっはっは、やっちゃったか」という感じですが。「ヨシュアに『ユダヤ人性』を認める三位一体説」は「三位一体説はヨシュアに『ユダヤ人性』を認める教義である」という意味ではなかった(つもりな)のですが、確かにこれは私の日本語の書き方が悪かったです。「『普通の』三位一体説」などと言わずにCalcedonianismと言えば良かったのですね。その場合には人性の問題もきちんと扱われるはずですから(もしかしてこれも間違ってたらイヤだなあ)。
で、「キリスト(ナザレのイエス)自身が純粋なユダヤ人なのにね。」というご指摘がそれ自体としてユダヤ人を「『メシア』を殺した民」として差別することに対するどのような否定的論拠になるのかDr. Watermanに是非ご教示を賜りたいと思います。博士のコメントの関心が「神学の基本がわかってなくて嗤える」というのと同じように私にとって関心はそこにあるもので。どうやって論証するのかはっきりいって私なんぞには考えも付かない。
ヨシュアが――この呼称は「衒学」ではなくある個人的かつ感情的な理由によって用いているので他人に勧めるつもりもなく、セクト的とは言いがたいと思いますが――ユダヤ人であるとう事実と補助的前提としてのCalcedonianism(←いえもちろん博士がCalcedonianでないなら何か別のdoctrineでもいいのですが)という少ない素材と専ら理性の働きによって、ユダヤ人差別に「通俗的」に用いられてきた論拠が論理的に否定できる――つまりCalcedonianismとヨシュアが実際に純粋なユダヤ人であるという事実は、ユダヤ人を「罪ある民」として差別することと論理的に両立不可能であるということを示すことができる――とすればそれは大変興味深いので、是非そのdemonstrationを見たいのですが。
というわけで専門家におねだりして見ます。こんなところで詳細なdemonstration出来るかということであれば、ブログかどこかに書き付けてリンクしてくださるととても嬉しい。
なお、ご指摘の通り私は単なる匿名であって上に「小谷野敦」と書かれている人物でもなければ猫猫先生でもないです(というのも自己申告に過ぎませんが)。
お休みなさい(ご起床後にこの書き込みを目にされることでしょうから「おはよございます」かもしれないですが)。
私には――どうやるのか到底思いつかないけれど――「キリスト教を信じている(←私はこの内容をとりあえずCalcedonianismと解したけれど)及びキリスト(ナザレのイエス)は純粋なユダヤ人である」ということと、「ユダヤ人は『メシア』を殺した民だから差別してもよい」という差別的信念の論理的両立不能性を示すにはアプリオリなスコラ的議論に訴えるしかないように思える。かつまた、かくも少ない前提とスコラ的な議論によって「ユダヤ人は『メシア』を殺した民だから差別してもよい」という主張を反駁しうる望みはないように思える。
いやそもそも論理的不可能性の論証などという高いハードル以前に、なぜ「キリスト(ナザレのイエス)は純粋なユダヤ人である」という指摘が当該の差別的信念への批判になりうるのかがそもそもわからない。どんな補助的前提を補うとそういう風に考えられるのかをまず知りたい。
なのでWaterman博士の論証がとても楽しみ。わくわくする(こういう気持ちはこのブログを読んでいて初めてだ)。
×Calcedonian → ○Chalcedonian
恥ずかしい……
Waterman博士へ
私が主として知りたいのはキリスト教徒であるAとBの
A:「ユダヤ人はキリストを殺した罪深い民だから差別してもよい」
B:「でもキリスト(ナザレのイエス)は純粋なユダヤ人だよね」
A:「それがどうかしたの? 」
という会話の先を埋めて頂きたいということなのです。私も確かにAに対するBみたいなコメントは何回も聞いたことがあります。「でもそれが何か関係あるんですかね?」といつも思ってきました。BはここからAの信念をどうやって批判していくのでしょう?? Aの差別的信念がAのキリスト教信仰(その内容は2つのCreedsで充分でしょう)と矛盾することをBはどのように示すのでしょうか?
なお私自身はそもそもキリスト教徒でもなんでもないので(というか「悪の問題」やその異型の議論によってユダヤ・キリスト教的な神の不存在が説得的に論証されうるという無神論者ですがここでは関係がない)、ユダヤ人に対して如何なる宗教的差別感情も持ってはいませんし、世俗的差別感情も持ってはいません。
批判もあるのが当然です。
しかし、批判と侮辱は別物ではないでしょうか。
鶴見俊輔さんが、刀を後ろに回してまず自分を貫いて、その残りで相手を貫くような批判をしたい、と言っていました。あるいは、小田実さんは自分のことを抜きにして相手を批判することはできない、と言っていました。(記憶に頼っているので、正確な引用でない点、申し訳ないですが。)
うまく言えませんが、批判とは本来そのような、批判をする人自身にとっても厳しいものであるものではないでしょうか。
心ない言葉、相手をバカにしきったような形の言葉を書き連ねることは、そういう批判になっているとは私には思えません。一度も会ったこともない、自分に対して何ら害をかけたこともない人に対して、意見の相違があるということだけで、そこまで憎しみのこもった罵詈雑言を浴びせかけたくなる心情も、私には正直理解できかねます。
匿名性というのが本質的な問題かどうかは別に議論する余地のあることと思いますが、現実にこのような状態になっていることと無関係ではないと私は思います。
もう一度、冷静になって、意見の相違となっている点を一つ一つ丁寧にあぶりだしていくことが、意味あることではないでしょうか。
みどりさん、あなたは黒子先生の近くにおられるかたですか? でも、私たちにとっては、同じ匿名のひとですね。
これまで議論されていることは、おおむね大事な問題ばかりで、しかも論点は個々に鮮明です。わざわざまた列挙する必要はないでしょう。それが、批判のしっぱなしのように見えるのは、黒子先生の身から出た錆というものです。先生が、自分が言いだしっぺのくせに、答えるべき問題を答えないのですからね。これでは、傷口が広がるばかりでしょう。意見の相違以前の問題ですよ。先生にご忠告申し上げるのが、身近にいる人の務めかとおもいます。
>「キリスト(ナザレのイエス)自身が純粋なユダヤ>人なのにね。」というご指摘がそれ自体としてユダ>ヤ人を「『メシア』を殺した民」として差別
おっしゃる通り、このこと自体(Anti-Semitismのこと) が謎なのです。矛盾しますから。恐らく聖職者レベルではイエス(イエッシュア=ヨシュア)がユダヤ人であることを知らないはずはないと思いますが、聖書を自分で読むことのない人たちは、その矛盾に気づいていなかったかもしれません。
ユダヤ人に対する差別は、どなたかが(また名無しさんも)おっしゃっていますが、教会やキリスト教以外のさまざまな要因があると思います。しかし、キリスト教側で誤解の元を作った一つが「受難劇」(教会アトラクションとしての)ではないかと思っています。英語版のWPで"Passion Play"を見てください。
現存する今でも有名なのがドイツのOberammergauのものですが、クロッサン(J.D. Crossan)なども、あれはよくない、と言っていますね。どういうわけかマタイ伝27:25特有の「血の責任は…」という台詞が使われるようです。マタイの責任だから、マタイの子孫だけが被れ、なんちゃって。
今朝、私のブログで猫猫先生にもお答えしたことに補足すれば、気違いじみた箇所を除けば、ユダヤ人もレビ記20章の規定のように、個人の罪は個人で終わります。ヨシュア記2:19の連帯責任規定も今日の常識に合わせても妥当な連帯責任ですから、これは理解できます。
本当にマタイってどうしたんだろう。困った人ですね。もっとも、私はユダヤ人のまっただ中に暮らしていますが、ユダヤ人同士も差別のしっぱなしですよ。年がら年中。
皆さん、たびたび野次馬ですみません。マタイの子孫かな…。MWW
黒古センセがこのブログの床屋政談(以下)で、どれだけ為政者や役人に「心ない言葉、相手をバカにしきったような形の言葉を書き連ね」てきたと思ってるんだ?
「意見の相違がある」と言うだけで、「一度も会ったこともない、自分に対して何ら害をかけたこともない人に対して」な。自業自得だろうが。
それがイヤならブログ閉じろや。
それから鶴見さんはともかく、小田実みたいなサヨクの名折れような外道を持ち出すんじゃねー。
ところで、みどりさんはどうして黒古先生に対しては一言も苦言を呈しないのですか?
黒古先生の思想言動はあまりにも完璧すぎて、批判をするところは皆無とお考えですか?
戦時中にお国の頑張った女学生たちにそっくりで、大変微笑ましいことです
いつの時代も女性の真摯な生き様は美しいことです
特に黒古さんを無批判に擁護しようとする意図はありませんでした。(黒古さんとは一度もお会いしたことはありません。)
私は以前から、様々な場面で様々な意見がぶつかり合いながら、最終的に考えそのものが深化されずに、人間的な中傷合戦に終わることが多いことを残念に思っており、どのようにしたらより建設的な議論が成立できるか、ということが自分の問題意識の一つになっているのです。
繰り返しますが、今回も、黒古さんを無批判に擁護する気持ちは、私にはありません。
批判をするのは大いに結構だと思います。ですが、中身の議論以前に、相手に対して礼を失した、感情的な言説が多すぎると思うのです。私の前回のコメント及び前文に対して反感を持つ方は、自分のことを言われた、と思われた方、自分のコメントが内容はともかく人格的攻撃をしていたと自覚している方ではないでしょうか。
Kobayasi,Yさんへ
上にも書いたとおり、私は黒古さんとは一面識もありません。ですが、おっしゃるとおり、わたしも匿名になっているので、その証明は難しいのですが、傍証として、2007-07-22、2007-08-02のコメント欄をご覧頂ければと思います。
何が大切な論点かは人によって違うので、そもそも取り上げるかどうか、という問題にも関わっていますね。すべてのコメントにレスをするのも現実的には難しいです。難しいところです。
呆れはてさんへ
1.私は別にふざけているつもりはありません。
2.為政者や役人に対する批判、すなわち権力者に対する批判というものとは同列に論じることができないかと思います。権力者の行動は我々国民の生活に関係するので、自分に対して何ら害をかけたこともない人とは一概に言えないのではないでしょうか。もちろん、その批判の仕方に対する批判はあり得ると私も思うことがあります。
3.「小田実みたいなサヨクの名折れような外道」とはどういう意味か、私にはよく分かりません。呆れはてさんは小田さんの本を読まれたことがおありでしょうか。もし読まれていなければ、一言で説明をするのは難しいので、レッテル貼りをする前に、一度読まれることをお勧めします。(『世直しの倫理と論理』あるいは『日本人の精神』あたりが私のお薦めです。鶴見さんの本では、著作集5逆に、呆れはてさんが共感できるような、お勧めの本があれば教えてください。)なお、鶴見さんと小田さんは40年以上に渉る友人でした。
Unknownさんへ
上にも書いたとおり、私はできるだけ偏向しないようにしたいと考えているのですが、そのように受け取られなかったのなら残念です。黒古さんの思想言動が完璧で、批判するところが皆無とは思っていません。私の批判は私自身に向けられており、それから黒古さんも含む方に向かっています。というか、そうでありたいと思っています。今回の議論の具体的な中身に私が触れていないのは、そもそも私は栗原裕一郎さんの『<盗作>の文学史』を読んでおらず、コメントすることができないからです。
戦時中の女学生の比喩はよく分かりません。
以上、私のコメントにレスして頂いた方3人に、私の再レスを書きました。
本来なら、このように対話を続けていけば、有意義な共通基盤を見いだせる(と同時に相互の意見の相違の由来となる基盤も見いだせる)のでは、というのが私の考え(というか願望かも知れませんが)なのです。
しかしながら、私も普通に仕事をし、生活をしている訳で、現実的にこれを続けるのは時間的にも困難です。(このコメントを書くだけでも1時間近くかかりました。)
私だけでなくみなさんもそうでしょう。したがって、すべてのレスに回答をする訳にもいかないかもしれません。そうすると、どうしても取捨選択をすることになって行かざるをえません。その取捨選択には、自分の好悪に依りがちです。また、自分の欠点、間違いだった点を指摘されると、自分が成長するきっかけを与えてくれたと感謝すべきところ、やはり自分のこれまでの考えに固執しがちになる傾向にも、往々にして流れがちです。人間の弱いところですね。
まして、この場はそもそも黒古さんのブログでした。長々とまとまりのないことを書いて、申し訳ありませんでした。
「鶴見さんの本では、著作集5」という意味不明の言葉が入ってしまいました。推敲不足のまま書き込みしてしまい、すいませんでした。
サヨクの匂いが濃厚な「呆れはて」が知らないわけはないだろ
と同時に、鶴見と小田では知的レベルが違うという評価もあっちではコンセンサスに近い
それを区別できないのは、生ぬるい「市民主義」サヨクだけ
もちろん鶴見も思想的にはかなり駄目だが、小田よりは学問的蓄積があるぶんマシかな
ところで政治家や役人には罵詈雑言がゆるされるのなら、年一千万円を税金から支給されていやがる筑波の無能教授は徹底糾弾してもいいんだよな
民間の納税者として
評論家というのは、時に、あるいはしばしば論争的なレトリックが求められます。単に冷静な、礼儀正しい書き方が良いわけではありません。もちろん、書き手自身の冷静さは必要ですが。
ここでコメントをしておられる方々は、概ね論理は冷静で、しかしレトリック自体は論争的だという印象を受けます。ところが、ヒョーロン家を自称する黒古さんの文章は逆ですね。レトリックは冷静さをよそおっていますが、論理自体が冷静さを欠いている。というよりは、思考能力が欠如している。
まず、匿名にはレスしないといっておきながら、「タケ」とかいう人に、黒古さんはしていますね。こんなことやるようでは、致命的に論争家失格でしょう。私は、「タケ」という人が、黒古さんをさらに陥れるために、あんな書き込みして、レスを誘発したんだと思いましたよ。黒古さんのヴァルネラビリティーは、どんどん累進していますね。あとは、罵倒の嵐のなかで没落するのみです。
そもそも、論争というものは共通の思考の基盤を見出そうというものではありませんよ。古来、そんなことができた論争がありましたか?
なお、読者には絶対わかりません。コメントしている者同士が連絡を取り合っていれば別ですが。
その上でなのですが、実名だから返事する匿名だから返事しないという先生の姿勢が批判されていますよ。先生ご自分が立てた安易な原則は、実名者増加でどんどん崩れています。私なら、はっきりと、返答したいコメントにはレスポンスするが、したくないものにはしない、とするのですがねー。甘い。
(それにしても、みどりさんはかわいそうだな。黒古先生の擁護をしたって勝手なんだから黒子先生に責任はないけれど…先生、見殺しみたいに見えるよ!)
特に2008年8月6日付けの記事
http://blog.goo.ne.jp/kuroko503/e/db4a95677b3177584cab88c1eb2dc032
での「チック」差別は酷い。黒古先生によれば「チック症状」はその人が「小心者」であることを証明してしまうらしいですよ。少しでも本気でそんなことを考えたのだろうか。まずその心性の差別性に驚き呆れますね。これだけでも十分にひどい。
しかも、これが差別的ではないかという疑念を少しでも持っていれば、チックおよびトゥレット症候群について調べてみるはずで、そうすれば直ちに脳神経系の器質的異常によるものだとわかったはずです。ここで黒古先生がしている差別は本人に如何ともしがたい肉体的特徴に基づく差別という最悪の差別です。事実を確認せずに自分の臆見や差別的心性を無批判に口に出すというのが黒古先生の得意技なのですね。
「差別」だとは思わなかったとでも言うつもりですか? 無意識的差別が「糾弾」の対象になることをまさか部落解放文学賞の審査員であらせられる黒古先生が否定されるとは思いませんよ。それとも、この差別的言辞の対象が自分の嫌いな「ネオ・ファシスト」である「石原慎太郎」だから許されるとでもいうつもりですか?
なるほどこういう差別的心性を以ってすれば『氷点』『続氷点』が差別小説ではないように読めるのでしょう。深く納得するところがありました。
解同文学賞か、笑わせる
このブログ騒動を呉智英あたりにたれ込んで、新聞や雑誌で取り上げさせるか
解同も筑波大学も考え直すだろうよ
逃げてもこのままでは済まないぞ
釈明は?
自己批判は?
私は国語学者ではないので、どちらが正しいのか分かりません。が、私の手元にある僅かな辞書などで調べる限りでは、吉高さんの方が正しいようにも思います。本当のところは私には判断できませんが、本当に間違いであれば、間違いは間違い、誰でも勘違いはあるので、黒古さんも潔く認められたらいいと思います。
と同時に、そもそもの議論の本流から逸れた些細な問題、批判のための批判のような気も私はします。些細な間違いを執拗に追及する姿勢に、私は正直のところ疑問を感じます。議論を拡大しているだけで、深める方向に向かっていない気がいたします。
Unknownさんへ
1.「サヨク」「知的レベル」「生ぬるい「市民主義」サヨク」「思想的にはかなり駄目」などという言葉がありますが、サヨクとは具体的にはどういう考えをもった人たちのことを指すのか、具体的にどういうものなのか、生ぬるいのはダメなのかいいのか、熱いのがいいのか冷たいならいいのか、なにが駄目なのか、すべて私にはよく分かりません。
それからあなたの思想的立場をもう少し説明してください。
2.罵詈雑言と批判は違うと私は申し上げました。
3.法律的なところは、私はよく知りませんが、国立大学の教員が権力者に含まれるのか否かは微妙なところだと思います。少なくとも公人にはあたる気もしますが。
Kobayasi,Yさんへ
1.ここにあるコメントが概ね論理は冷静ということですが、論理以前のスタイル(私は前回のコメントで述べた批判に対する姿勢)が欠如している方が多いように私には思えます。
2.黒古さんの匿名に対する対応に一貫性がないところがあるのは私も同意します。
3.論争はそもそも共通の思考基盤を見出そうというものではないという件についてですが、現実にはおっしゃるとおりですね。皆無かどうかは分かりませんが、少なくとも私は具体的に反証となる論争を今提示することはできません。ですから、私は願望かもしれませんと申し上げました。それを私は残念に思っているのですが、その原因は、論争の目的を、互いの認識を深めるということに措いていないからではないかと私は考えています。論争相手に勝つこと自体が目的化してしまい、たとえ議論の中で、自分の間違いに内心気づいたとしても、何とか取り繕って相手を負かそうとする。でも、相手もそうなのだから、結局共通基盤を見いだせないまま終わっている。でも、それは結局両者とも勝てていないのです。
以下はかなり変わった考えかも知れませんが、共通基盤は実は既に存在している、というのが私の考えです。それは共通の言語を用いている以上、まったく共通基盤ゼロならば、そもそも議論が成り立ち得ないからです。
お互いにこの時代に生きて、いずれは死ぬ人間同士です。日本語を使い、論理を用いています。それが共通基盤だというのが私の認識(というか信条かもしれませんが)です。
以下はコメント頂いた方に対してではないのですが、2008-09-07以降、悪意あるコメントが急増している現象を、私はやはり問題だと思うのです。
匿名性云々についても、勿論いろいろ議論はあるでしょうし、正当化する議論もあり得るでしょう。しかし、私は議論のための議論、批判のための批判というものには興味がありません。実際にこのブログがこのような状態になっていること自体が、匿名性の問題点を示していると思います。(匿名のコメントがすべてダメだと結論づけている訳ではありません。問題を含んでいると申し上げているのです。)
2008-09-07以前のコメント欄は、ない日もしばしば、あっても数件というところでした。(それがいいと言っているのではありません。)何か叩く対象を見つけて、ワッと野次馬のように群がり、散々に悪口雑言罵詈讒謗を書き連ねる、そしてしばらくすると別の話題に移っていく。最近のテレビでもネットでも、そういうことが多いように私は感じます。
集団的暴力のようなもの、あるいは自分のことを省みることなくまったく無傷のまま、ひたすら他者を糾弾し、自己批判を要求する心性というものを、私は恐ろしいと思うのです。
おまえは差別主義者だ、自己批判しろ、お前のつとめている大学へこの話を広げるぞ、などという脅迫まがいの言葉を、他の方はどう思われますか。このような匿名の人に対して、あなたの立場は何か、あなたは一度も人を差別したことはないのか、と問い質したくなる気持ちは、私には十分理解できます。
私はへそまがりですから、そのような人たちとは逆の方向に向かいたいと思います。
私は議論の具体的な中身について意見を申し上げている訳ではなく、その議論の前提である批判とはそもそもどうあるべきか、議論とはどうあるべきかについて、意見を申し上げました。その点について、黒古さん、小谷野さんも含めて、みなさんの批判を頂ければと思います。
以上の記述も、できるだけ偏向することのないように、単に黒古さんを擁護するためだけの論理にならないように、私としては一般的に書いたつもりです。その意図を汲み取って頂ける方がいることを望みます。
これだけ書いただけで、正直疲れました。仕事をしていても、このブログのことが気になったりして、精神衛生上よくありません。書きたいことは書いたので、しばらく騒ぎが収まるまで、私は自分の生活に戻って静観したいと思います。
鶴見の本から何を学んだんだ?
だれもが権力者になりうるし、だからどんな批判も無差別だ、と言うなら分かるが、黒古は「ネオ・ファシスト問題」でも分かるようにそうは考えていない
ならば公務員(準公務員)か否かが、ネオ・ファシストのたぐいの罵詈雑言を甘受すべきか否かのボーダーになるわけだ
明らかに黒古は黒古理論によって甘受すべきとなる
この無能な税金泥棒の差別主義者め!さっさと説明責任を果たせ!
あなたがどういう職業の人か知りませんが、国立大学教授というのはものすごく保護された立場で、警察に逮捕でもされない限りクビにはなりませんし、公金横領をしてすら名誉教授になれたりするのです。数年前までは国家公務員でしたし、今でもそれに準ずるものであって、「国立大学法人職員倫理規則」という法によって厳しく倫理を問われる立場であります。仮に国家公務員だった頃のことを言えば、歴然たる「公人」すなわち国家の一部であって、「人権」という概念を、国家から個人を守るものと位置づける立場からは、公務員には人権はないのです。ですから、大学に言いつけるなどという言葉は、まったく脅迫的意味を持ちえません。つまり黒古先生は、福田首相その他に準ずる立場にある人なのです。
このことを理解していない人は非常に多いですね。
あと、多分こうした激烈な批判や攻撃を受けたところで黒古先生の政治信条や知的構えに少しでも変化があるとはみなさん期待してないんじゃないのかと思います。その意味では別に黒古先生を説得しようとはたぶん思っていない。むしろこのブログをある種の「劇場」としてその観客たちに対して、黒古先生のようにならないようにと警告しているのではないでしょうかね。もちろん攻撃する方があまりに品位を欠けば黒古先生に観客の同情が集まることで、そうした目標が阻害されることになるでしょうからその限りで品位は保つべきだとは思うのですが(黒古先生個人に対してはまあ、コメント主には学生・院生さんもおられるようですので、自分たち全共闘世代が大学教授を吊るし上げたときのことを懐かしく思い出していただければ微笑ましくてよいのではないかと思います)。
小谷野さんへ。『黒古一夫BLOG』は公務員の業務なのでしょうか。ブログ書きにいそしんで本業をおろそかにすればCそれは怠業でしょう。ブログ書きになんらかの名目をつけて金を得ればD、それも問題でしょう。そういう証拠があったのならどしどし通報すればいい。そういう事実があるのですか。公務員が私的にやってるブログの表現に問題があるEのなら、それも抗議すればいい。しかしC、DとEの罪の重さの差はとてもおおきな開きがあるでしょう。べつに止めませんが。
「黒古先生の政治信条や知的構えに少しでも変化があるとはみなさん期待してないんじゃないのかと思います」それゆえに、私は、あなたたち「俳優」にすみやかに「舞台」を降りていただくことを要求します。茶番をお開きにしていただきたい。
意味不明の文章で、黒古先生のブログを荒らさないでください。
見物しようっと。
そんなもん、国語学者なんかじゃなくたって分かるだろうが、普通の日本語の使い手なら。
>と同時に、そもそもの議論の本流から逸れた些細な問題、批判のための批判のような気も私はします。些細な間違いを執拗に追及する姿勢に、私は正直のところ疑問を感じます。議論を拡大しているだけで、深める方向に向かっていない気がいたします。
あのねえ、俺だってここまでこの問題を拡げるつもりはなかったよ。最初は、何度も言うように単なる誤変換、それこそ「些細な間違い」だと思って、「このオッサンなんべん注意されても直らんなあ」と、軽い気持ちでミスを指摘したわけだ。それを黒古がだな、黙ってスルーするか素直にミスを認めるかすりゃいいものを、ムキになって反論し(それによって自分がとんでもないバカであることを露呈してくれたわけだが)、のみならず俺のことを愚弄しやがったもんだから、こっちも抛っておくわけにはいかず、徹底的に反論してやったわけだろうがよ。黒古が自分の誤りを認めて失言を詫びさえすりゃ、誰も「執拗に追及」などしねえよ。
>日本語を使い、論理を用いています。それが共通基盤だというのが私の認識(というか信条かもしれませんが)です。
そもそも黒古の日本語が滅茶苦茶で論理も破綻してるから、あんたの言う共通基盤なぞ存在しないし築きようもねえっつうんだよ。
これまで見てきたところ、黒古を掩護しようとするやつは悉くバカだったけど、みどりさんよ、あんたも例外じゃないみたいだな。
イヤなら、黒古にコメント欄閉鎖か、ブログ閉鎖でも要求しな