
「小 説 で あ る」
選考委員 高橋源一郎
おれの(最近の)小説の定義は以下の通りである。
(1)人間が出てくる。
(2)その人間が、わけのわからないことをいうか、わけのわからないことをする。
(3)書いている作家(「その人間」を兼ねている場合もある)にも、「その人間」がなぜそんなことをしているのか、よくわからない(ので苦しい、もしくは悲しい)。
その定義に説得力があるかどうか、おれにはわからない。だが、そんなことはどうだってかまわない。おれが小説だと思えば、それは小説。それで十分。
かねがね、おれは、おれが小説だと思ったものが、他のやつらには小説と思われないことが多いと思ってきた。その逆もある。そんなの小説でもなんでもないじゃん、というものを、みんながよってたかって、「小説だ」とか「最高の小説だ」とか「これぞ小説」とほめたりするのだ。
良かった。ドゥマゴ文学賞の選考委員が、おれひとりで。
ところで、本家のフランス、ドゥマゴ文学賞成立の事情は、おれの好きなエピソードだ。ご存じの方も多いだろう。1933年、レイモン・クノーは『はまむぎ』という、きわめてチャーミングな(でも、わけがわかんない)小説を発表した。
当時の、フランスのエラい作家たちは、(たぶん、わかんなかったので)、この『はまむぎ』を無視することにした。そんなものはなかったことにしようってことになった。だって、『はまむぎ』について、なにかいわなきゃいけなくなったら、困るからだ。
そんなことはよくあることだ。けれども、そのことに怒った作家たちがいた。13人も。
その、おバカな作家たちは、いかにもおバカなデモンストレーションを、抗議行動を、思いついた。
フランス文学界で最大の権威を誇るゴンクール賞をアンドレ・マルローが『人間の条件』で受賞したその日に、カフェ「ドゥマゴ」に集い、一人100フランずつポケットマネーを出し合って、レイモン・クノーの『はまむぎ』へ与えるための賞を作ったのである。
これを、日本国の事情に合わせて翻訳してみると、要するに、こういうことではないだろうか。
ある作家が、すごい傑作を書いたのに、文壇のおエラいさんたちは無視。少なく見積もっても芥川賞十個分の価値はあるぜと思った作家たち13人が怒りのあまり蜂起して、芥川賞を石原慎太郎(日本のアンドレ・マルローといえばこの人でしょう。作家で大臣経験者
だし)の『弟よ』が受賞した日に(もちろん、一回受賞しているわけだから、ありえない
んですが)、麻布十番のスターバックスに集まり、一人1万円ずつ出し合って「スタバ文学賞」を創設し、その作家に贈ることにした……。
なんてバカなんだ。文学(小説)なんかに、そんなに熱くなっちゃって。おれはそう思う。でも、小説なんて、世の中の役に立つかどうかわからんもんを、マジメに書いたり、読んだり、論じたりしている段階で、バカ丸出しだ。おれも、そうだけど。
この一年も、ずいぶん、おれはいろんな本を読んだ。いい本、ダメな本、ちょっといい小説、ちょっとダメな小説、小説のつもりだけど小説になってないやつ……。
そして、おれの基準で、いちばん小説になっていたもの、最高の小説だったもの、それが、一見、ただの日記にすぎない、聞いたことも見たこともないCDやDVDの膨大な購入リストとグチと泣き言ばかりの、この中原昌也の『作業日誌』だった。文句なし。ダントツである。ついでにいうと、本家にならって、「ドゥマゴ文学賞」というものの基準があるとしても、やはり、この『
作業日誌』がダントツだとおれは思う。
追伸。
この本の帯に、芥川賞を受賞した川上未映子さんの「芥川賞の賞金ぜんぶ中原さんにあげたかった。もうないけど」と書いてあった。できたら、新しい帯には「中原くんに賞金100万円あげる。おれの金じゃないけど」と書いてほしい。
おっと、おれの小説の定義には、もう一つあるのを忘れていた。それは、これだ。
(4)泣ける
おれはこの本を読んで泣いたんだ。中原のために。小説のために。文学のために。人間のために。こんな、悲しくて、不幸で、苦しい本を読ませてくれて、ありがとう。おれ、なんだか、すげえやる気になっちゃったぜ、中原くん。
