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新刊

こんな日本でよかったね
こんな日本でよかったね/バジリコ

街場の現代思想ー文庫版
街場の現代思想ー文庫版/文春文庫
2004年にNTT出版から出た同名書のリイシューです。
ひさしぶりに読み返したら、クリスプで面白かったです。
「おいおい、そこまで言うか」的な断言満載。

てつがくこじんじゅぎょう
てつがくこじんじゅぎょう/鷲田 清一・永江 朗/バジリコ
鷲田先生と永江さんが『ミーツ』でやってた「哲学上方場所」が単行本になりました。
途中で、私と江さんが「乱入」して勝手なことを言っていますが、「この人たち素面でこんなことしゃべってるの?」と疑問を感じる読者もおられるでしょうが、もちろん飲みながらやってるんです。


今日:
昨日:

2008.09.18

アメリカの夢

リーマンブラザースが破綻した。
こういうときは「平川くんはこの事態をどうとらえているだろう」と思うので、さっそく彼のブログを読む。
http://plaza.rakuten.co.jp/hirakawadesu/diary/200809160000/
なるほど、そのような理解でよろしいわけですね。
そうか。
私はアイボリー・タワー(最近わりと娑婆臭くなってはきたが)の人間なので、リーマンとかメリルリンチとかAIGというのが「なんぼのもん」なのか実感としてはさっぱりわからない。
つい二週間ほど前のある雑誌(気の毒なので名を秘す)がこの外資系金融機関で働く女性たちを特集していた。
先端的ビジネスで、複雑怪奇な金融商品を捌いて、年収数千万円というようなサクセスフルな女性のアクティヴでアグレッシブな生き方を、「ロールモデル」としてご呈示したいというような内容であったかに記憶している。
間の悪い話である(そういえば、昨夜「AIGに公的資金投入」のニュースの直前にアフラックのCMが入っていた。これもかなり間が悪い)。
現場を取材していて、金融危機を予見できなかったジャーナリストとしての嗅覚の悪さがいささか問題ではないかと思う。
ご存じのとおり、「腐りかけたもの」は腐臭を発する。
それはわずかな、ほんのわずかな徴候から感知できる。
ふつうは「どうしてこんな奴が威張っていられるのかわからない奴が威張っている」というかたちで検出できる。
無意味にえらそうにしている人間がそこここに目に付いたら、その組織は「末期的」であると判じて過つことがない。
「えらそう」に見えるのは、外部評価と自己評価の差が大きいせいである。
「自分の能力は過小評価されているのではないか」という不安をもつ人間は、自分への敬意を喚起するために「わずかによけいな身ぶり」をする。
「えらそう」というのはその「わずかによけいな身ぶり」のことである。
いちばんわかりやすいのは「アイコンタクトの遅れ」である。
こちらが声をかけても書類から顔を上げない、隣の席の人間とのおしゃべりを止めない。
こちらが質問すると、答えることよりも「私はそういう質問をされることをすでに予見していた」ことを誇示することを優先する人間(彼らは答える前に、「だから」という鬱陶しげな一言から始めることが多い)。
そういう人間が一定数いたら、そういう組織はもう長いことはない。
リーマンブラザースやAIGに私は(もちろん)足を踏み入れたことはないが、高い確率で「そういう人間」が蟠踞していたことは想像に難くない。
というのは平川くんも指摘していたように、この金融という商売は「自己評価が異常に肥大する」という人間の治癒しがたい傾向を基盤にしてはじめて成立するものだからである。
サブプライムローンというのが今回の直接の火種であるが、これは要するに「払えない借金の証文」に「今は無理だが、未来の私には払えるんじゃないか」という「錯覚」によってハンコを捺させるシステムである。
「未来のオレ=ほんとうのオレ」は今のオレより「金がある」ということを信じることのできる人間だけが身の丈に合わない借金をする。
これは古今東西を問わず「借金の定法」である。
つまり、サブプライムローンというのは、現にたいへん低い社会的評価しか受けていない人たちを対象に、「あなたへの外部評価は不当に低く、ほんとうのあなたはもっと高い評価を受けて然るべきであり、必ずや受けるであろう」という悪魔の囁きをもたらすことで成功したシステムなのである。
これに、「あなたがローンで買った土地は価格が上昇し続ける」という「土地神話」が一枚噛むのであるが、これも「あなたがいま所有している土地の外部評価は不当に低く、いずれその本来の評価に達するであろう」という、外部評価と自己評価の「埋められるべき落差」という物語を前提にしている。
つまり、サブプライムローンというのは「現に外部評価がたいへん低いのだが、それに比べて自己評価が異常に高い人間」を組織的に備給し続けることによってはじめて莫大な利益を上げるシステムだったということである。
ここまではご理解いただけたものと思う。
では、なぜそのスーパークレバーなシステムが破綻したかというと、「外部評価が非常に低く、自己評価が異常に高い人間」のことを私たちの社会では一般に「バカ」と呼ぶからである。
つまり、「身の丈に合わない借金をする人間」を生み出し続けることで利益を上げるシステムとは、「バカを構造的に備給し続ける」ことでのみ生き延びることのできるシステムだったということである。
このサブプライムローンシステムを構築するにあたって、アメリカの金融界は業界全体で「外部評価が低く、自己評価が異常に高い人間」こそがアメリカンドリームの体現者となるべき「模範的アメリカ市民」であるというナラティヴに同意署名した。
自分たちが信じない「物語」を顧客に信じさせることは困難だから、おそらく金融大手の社員たちもまたこぞって「ほんとうのオレの力はこんなもんじゃないよ」という肥大した自己評価で鼻の穴を膨らませる競争に励んでいたはずである(見たことないから想像ですけど)。
そして、この顧客開拓戦略(ならびに金融エリート=成功者モデル)は劇的に成功してしまったのである。
結果的にアメリカ社会は必要以上の数の「バカ」を抱え込むことになってしまった。
さいわいなことに「アメリカ人が全部バカになる」ことでしか延命できないシステムは瓦解した。
そのことの危険に誰かが気づいたのか、それとも・・・

2008.09.16

総合誌は生き残れるのか?

四日目でようやく体内時計が日本時間と同調した。
やれやれ。
終日『街場の教育論』の推敲。
去年の4月に、授業ではできたばかりのサイバー大学(福岡市、ソフトバンクが出資する株式会社立大学)について「この大学はユビキタス大学の失敗例となるだろう」と予言している。
理由はビジネスマンは「師弟の対面状況」の重要性を理解していないからだと書いているが、サイバー大学が単位認定と非認定大学(学位工場)からの学位で新聞記事になるような問題を起こした後に本になるので「なんだあと知恵じゃん」と思われるだろうな、きっと。
教育再生会議の批判ももうあまり新味がない(というか、これほど短期間に教育問題に対する世論が「冷めた」ということに驚く)。
一昨年暮れから去年はじめにかけては、日本中が教育問題でわきたっていたのにね。
そういう言論状況のなかで、長期にわたってリーダブルであるようなものを書くというのは、なかなかむずかしい。

『論座』と『現代』が相次いで発行停止に追い込まれた。
在仏中だったが、あるメディアからコメントを求められた(外国にいると日本のメディアの状況というのは火星の出来事のように遠く感じられるので、「わかりません」とお答えした)。
日本に帰ってきて、その理由について考えた。
ちょうど小田嶋隆さんが連載をもっていたm9という雑誌が3号で発行停止になった件についてコメントしていたので、それを読んで考えた。
小田嶋さんはこう書いている。

「 雑誌の内容は、《時代を読み解く新世代「ライトオピニオン」誌》と銘打っている通り、最近の若者向け雑誌の中ではちょっと硬派なノリだった。
 が、部数は期待していたほど伸びず、結局、通算で3号を出したところで、早めの撤退を判断することになったようだ。
 私は、スポーツコラムを担当していたのだが、連載は3回で終了ということになった。残念。あれこれとしがらみや制約の多い大手の雑誌からは発信しにくいプギャーなご意見を存分に吐き出す覚悟でいたのだが。
 スポーツジャーナリズムの世界は、メディアと競技団体と興業組織と選手会と専門ライターが、まるで互助会みたいに肩を寄せ合って生きている、金魚鉢みたいな世界だ。それゆえ、水中生活に慣れたえら呼吸のできる人間以外には、取材パスがまわってこない仕組みになっている。
 で、私のような部外者のライターは、金魚鉢の外から見ると、金魚たちの泳ぎがどう見えるのかといった視点で、記事を書いていたわけなのだが、そういうご意見は、残念なことに、あんまり需要がない。
 というのも、読者もまたすべては金魚鉢の外に住んでいる存在で、価値ある情報は、水の中にしか無いと思いこんでいたりするからだ。
 うん。負け惜しみだけどさ。」
(http://takoashi.air-nifty.com/)

小田嶋さんがこの中で書いている「金魚鉢みたいな世界」という形容は、政治の世界にも、学術の世界にも、文学の世界にも、どれにも当てはまるような気がする。
おそらく「総合雑誌」もまたそのような「金魚鉢みたいな世界」なのであろう。
そこでは同じような書き手(私のような)があちこちのメディアに繰り返し顔を出し、同じようなことを繰り返し語っている。
その批判者の顔ぶれもさっぱり代わり映えがせず、そのような硬直した構図に対して「けっ」と斜に構えている「オレはそういうんじゃないかんね」的メタ批評者の語法も十年一日。
そういう面子が「水中生活になれたえら呼吸できる人間」たちのクローズドなクラブを作って、排他的に発言の場を占めている。
新しい書き手(新しい「えら呼吸」者)が定期的に補充されるけれど、この「金魚鉢」のつくりそのものを批判的に吟味するような言説は排除されている。
私は『AERA』に隔週半頁のコラムを連載しているが、この自分の立ち位置というのが、なんか「よろしくない」ような気がする。
というのは、「金魚鉢」構造の中で、「金魚鉢」批判のようなことをさせてもらっていることが結果的に、「金魚鉢には自浄能力がある」ということの「言い訳」として機能しているんじゃないかと思うからである。
『AERA』のコンテンツに関しては、毎週送ってくるから読んでいるけれど、「sigh」(チャーリー・ブラウン的)を吐かずに読み通すことができない。
このトリビアルな「格付け」に焦点化したメディアはいったい、それによって何を伝えたいのか。あるいは何を実現したいのか。
それが「社会の実相です」とスーパークールな口調で言いたいのかもしれない。
いずれにせよ、そこに「金魚鉢の世界」を超えてゆこうという志向を読むことは限りなく困難である。
前に高橋源一郎さんが『世界』の編集者に『世界』の部数低迷を救うアイディアはないですかと訊かれて、「『世界』の罪」という特集を行って、戦後『世界』が世論をミスリードした事例を洗い出して、その原因について吟味したらどうかと提言したら、一蹴されたという話をご本人から聞いたことがある。
『世界』がほんとうに批評的なメディアでありたいと思ったら、これを「一蹴」すべきではなかったと思う。
結果的に採択されないにしても、編集会議で真剣に議論されるべきことだったと思う。
「誌面刷新」というのが、編集長の入れ替えや、執筆陣の入れ替えということでとどまるなら、「金魚鉢」の再生産は止まらない。
「金魚鉢」を超えるためには、まず「金魚鉢の歴史と構造」についての自己剔抉から始めなければならない。
それを喫緊の課題として認識している雑誌がどれだけあるか。
読者減の理由を出版社側が「読者離れ」とか「企画力の弱さ」とかいう言い方で説明している限り、総合誌の廃刊趨勢はこのまま止めどなく続くだろう。

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