三連敗四連勝の大逆転での本因坊誕生や十九歳の名人挑戦など囲碁界がエキサイティングな展開です。グローバル化した碁界の厳しさは一段のようです。
この七月、カド番の絶望状況からの大逆転で本因坊位を獲得、ファンを興奮させたのは日本棋院中部総本部所属の羽根直樹九段(32)でした。
羽根九段といえば現代囲碁界を支える「平成の四天王」の一人。本紙主催の天元や碁界最高位の棋聖のビッグタイトルを手にしている実力者ですが、本因坊位は初。最も歴史ある棋戦での劇的勝利で囲碁史にさらに輝ける一ページを加えることになりました。
羽根直樹九段の快挙
三連敗四連勝は奇跡的ですが、過去になかったわけではありません。趙治勲二十五世本因坊が三度、林海峰名誉天元が二度記録していますが、趙は六歳、林は十歳で、それぞれ韓国、台湾から来日、勝つことを宿命づけられた「粘着流」「二枚腰」の棋士でした。
日本人棋士の達成者はなく、どういうわけか将棋界にもありません。活動拠点が全国からの棋士でひしめく東京でなく中部、羽根九段のタイトル獲得のひときわの意義深さがそこにもあります。
囲碁も将棋もプロは選び抜かれた人たちの世界です。近在近郷に敵なく、大人も歯が立たない天才少年少女たちが切磋(せっさ)琢磨(たくま)します。それでもプロ棋士になれるのはひと握り、タイトル争いをする棋士となるとさらに絞られます。
羽根本因坊も三歳で囲碁大会に出場しています。父親が“中京のダイヤモンド”の羽根泰正元王座だったことから、ごく自然に小学一年生でプロを目指す院生生活、超一流棋士のほとんどがそうであるように、中学三年の十四歳でプロ棋士になっています。
日本の復権はあるのか
タイトルは鍛え上げられた天才たちの戦い。そもそも差があるのか、何が勝負を分けるというのでしょうか。羽根本因坊は勝負の内実をこんなふうに語ります。
「碁はうまい手を打ってリードするというものではありません。そもそも相手が間違わなければ勝つことは難しいものなのです。最善と思う手を打つしかないのですが、相手のちょっとしたミスに気づけるかどうかの嗅覚(きゅうかく)や瞬間がとても大切。それが優れているのが勝つ棋士かもしれません」
棋士には信ずる思想信条ともいうべき棋風があり、技量の差は紙一重。勝負は妙手より一手のミスで決まるというのですから、精神力や運といったものがいかに勝敗を左右するか、勝負の秘密の一端が分かった気がします。
四世紀後半、朝鮮半島経由で中国から伝わったとされる碁は、平安時代の貴族や源氏物語の紫式部や枕草子の清少納言の才女たちにも愛され、日本の文化、芸能として独自の発展を遂げました。
能や狂言とともに室町時代には庶民のものとなり、徳川幕府の名人碁所などの保護策によって研究が積まれ、つい最近まで世界の碁界をリードしてきました。中国も韓国も碁といえば、日本の棋士の指導や著書によって勉強したものでした。
ところが十数年前から力関係は全く逆転、碁の世界戦のタイトルはほぼ韓国の棋士に独占されるようになりました。その背景には百年に一人という天才棋士の出現や韓国の父母たちの教育熱心があり十人中九人の親が「囲碁は教育にいい」と信じ、子供を囲碁教室に通わせる環境があるようです。
その韓国を猛烈に追い上げているのは中国です。棋士たちは国家的支援を受け、住み込みで研さんを積んでいます。賞金額の大きい二つの世界棋戦のことしの優勝者は中国の棋士でした。
世界の囲碁界の現状へのファンの無念は日本の棋士たちに伝わっているようです。タイトル獲得で世界戦への出場機会も増える羽根本因坊も「世界との差はほとんどないですが、わずかの差を守りきられている。世界戦で結果を出すことが囲碁普及の道と思っている」との決意を語ります。期待は日本棋士の世界戦での活躍です。
名人伝と芸道の深遠と
もっとも勝負がすべてではないのはむろんです。中島敦の「名人伝」は芸道の深遠を語ります。
天下一の弓の名人を志した男・紀昌は、厳しい習練で百歩隔てて柳葉を射るのに百発百中の腕前に達します。しかし、斯界(しかい)の大家の前にはそれも児戯に等しく、真の名人が示したのは弓も矢も用いずに空中のトビを射落とす「不射の射」の巧技でした。
その究極の術を習得した名人・紀昌も最晩年にはついに弓矢の名前も用途も忘れた、と名人伝は終わります。芸道の深遠は人知の及ばぬところなのでしょう。
この記事を印刷する