今月になって「葬儀」が続く。
ひとたび葬儀が入ると、次から次へと葬儀が連鎖するように感じる自分がいる。
しかも、今日は、市内の他の宗派のご住職の葬儀があり、宗派が違うと「儀式・作法」もまったく違うので、緊張しながらお参りし、終了後、すぐに寺に戻って、すぐにお檀家さんの葬儀を勤めた。残暑が厳しいので、大汗をかきながら、ヘロヘロだった。出棺の時に、それまで気丈に振る舞っていた奥さんが大泣きしている姿を見て、僕も泣く。(汗と涙。身体から水分出まくりである……。)
夕方、葬儀が終わって、ご遺族の方が「ご挨拶」に見えたと同時に、お寺の電話が鳴り、また檀家さんが亡くなった知らせ・・・・。すぐに「枕経」に向かう。
「なぁぁんかさ、去年、俺が住職になってからさ、葬儀が連鎖するようになったよなぁぁぁぁ・・・。昔はこんなことなかったのにさ・・・」
と心の中で愚痴をつぶやいてしまう。・・・・・・・が、、そんな自分自身の姿をすぐに照らし出す教えという“眼差し”がある。
葬儀が連鎖することは、「僕が住職になったから」ではない。人の亡くなる時期が重なっただけのことである(あたりまえである)。
いつも、このブログで書いているけど、
「死へ至るご縁(条件)が整えば、死んでいかなくてはならない人間存在」
なのであり、
葬儀が重なるのは、色んな方の「死の縁」が整ったという「偶然」である。それ以上それ以下でも、誰が悪い訳でもない。
しかし、その偶然の中に、「死の縁は老少善悪を問わず」という「厳しい事実」が顕され、示されているのを見逃してはならない。
正〜〜〜直に言うとですね・・・・・、
葬儀が重なると、思わず、その忙しさに愚痴が出たり、暗くなったり、イヤになったりする私なのであります。 今日もそうでした。
でも、愚痴を言おうが、暗くなろうが、この私も
「死へ至るご縁(条件)が整えば、死んでいかなくてはならない人間存在。」
であるのは動かせない事実。
だから、ハッとして、また歩き出す。
いのちにであい続ける為に。
愚痴を吐いて、その場に座りこんでしまわないように、
たくさんの「学び」が待っている・・・・。