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ニッポン人脈記「女が働く」 (朝日: 2005/04/25〜 夕刊)

updated 2005/05/13


(1)憲法24条の志、映画に (4/25)

赤松良子
赤松良子・元労働省婦人少年局長

 みなさん、ベアテ・シロタ・ゴードンという女性のことをご存じだろうか。81歳、アメリカ在住、5歳から15歳まで日本で育ったから日本語は日本人と同じ。はつらつとして元気、いま、映画「ベアテの贈りもの」の封切りを楽しみに来日している。

 30日から東京・岩波ホールで始まるこの映画の製作話が持ち上がったのは、02年12月のクリスマスの夜のことだった。

 文相、ウルグアイ大使をつとめた元労働省婦人少年局赤松良子(あかまつ・りょうこ)(75)、ゴッドマザーともよばれる広い人脈を持つ。そのマンションでの女友達のパーティーに、元ソニー社員落合良(おちあい・りょう)(69)が、ビンゴの景品にと「憲法24条のスカーフ」を持ってきた。

 スカーフには「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有する……」と24条の文言が染められている。「名古屋のグループが、ベアテさんの映画をつくろうと資金集めにつくったのよ」

落合良
落合良・元ソニー社員


 そう、ベアテ・シロタは、敗戦後の日本を支配したマッカーサーの占領軍GHQが日本国憲法の草案をつくったとき、その一員として24条を書いた人なのである。当時ベアテ22歳。ここ何年か、ベアテが来日すると、内外に交際の広い落合が付き添っている。

 「ベアテさんの映画を作っておきたいね」「でも先立つものがないとね」。一同の目が岩波ホール総支配人高野悦子(たかの・えつこ)(75)に向く。高野は「映画はつくろうと思えばつくれますよ」と言ってのけた。

 高野と赤松は同じ昭和4年の生まれ。10年ほど前、あるパーティーで同席、高野が「女は男の3倍から5倍必死で働かないと男性社会では評価してくれませんよ。男は男に甘いんですから」と語るのを聞いて、赤松には感ずるところがあったのだろう、高野を「巳年(みどし)の会」=表=に誘った。日本社会には、干支(えと)の同年生まれの会がいっぱいある。映画好きでのんべえの2人は親しくなる。
昭和4年生まれ「巳年の会」のメンバーから
 「一口1000円かな、2000円だと楽なんだがな。たくさんの人からお金を集めるのよ」と高野。若いとき映画監督を志し、「女だから」と拒まれた高野は、興行ベースにのりにくい、いい映画の上映に力を尽くしてきた。「ふむふむ」とうなずく赤松。むろん簡単ではない。誰が資金集めに動くか。

 10カ月過ぎた03年秋、赤松は「あんた、映画祭へ行きたくない」と、岩田喜美枝(いわた・きみえ)(58)を東京国際女性映画祭に誘った。岩田は労働省婦人少年局の赤松の後輩で、厚生労働省雇用均等・児童家庭局長を退官したところ。「ハリウッド以外の映画が好き」という岩田は、その場で赤松から高野らを紹介され、映画の計画を知る。


高野悦子・岩波ホール総支配人


 「ベアテの贈りもの」、つまり憲法24条がうたった「個人の尊厳と両性の本質的平等」を日本女性がどう実らせたかを描きたい。「あなた、退職金が入ったでしょ。こんな映画にポーンと出したら」と赤松。岩田は「そうしましょう」と二つ返事。

 岩田の大車輪が始まる。目標3000万円。自分もポーンと出すが、多くの人からカンパしてもらった方がいい。歴代の労働省婦人少年局長ら行政OBやOG、女性有識者、大学の先生、草の根で戦った女性たち……。「岩田が言うなら」と100万円ポンと出してくれる人がいて、岩田は感激する。

 かくて映画は、製作委員会の代表赤松、副代表落合、事務局長岩田のトロイカでつくられる。そこに見えてくるのは、戦後女性の苦闘の軌跡である。

 (このシリーズは本社コラムニスト・早野透、編集委員・河原理子、北郷美由紀が担当します。本文中の敬称は略させていただきます)


(2)22歳の草案 (4/26)

藤原智子監督
藤原智子監督

ベアテ・シロタ・ゴードン
ベアテ・シロタ・ゴードンさん

 「ベアテの贈りもの」の映画づくりの話が持ち上がった、赤松良子(75)宅の02年のクリスマスパーティー。「監督はだれにする?」。聞かれた岩波ホール総支配人の高野悦子(75)は、藤原智子(ふじわら・ともこ)(73)の名を挙げた。その年の暮れ、赤松は藤原に電話した。

 2人は飲み友達。一緒に旅館に泊まって目覚めたら、空とっくりがごろごろ並び、あれ、そういえば庭の景色も見なかったなんてこともある。


 藤原は東大で美学を学び、年上の赤松は法学部。61年にできた東大OGの集い「さつき会」で出会った。「あんた、飲みっぷりいいね」と赤松が藤原にほれる。2人は30代。赤松は、希望に燃えて労働省に入ったのに、ちょっと腐っていた。男は地方勤務もこなして成長していくのに、自分は……。仕事以外のネットワーク作りに楽しみをみつけていた。

,藤原の父は翻訳者、母は教師。「女の方が強い家庭」だった。新しい憲法ができて喜んだのは、父親。「これでやっとわが家も男女平等だ!」。そのせいか、いわゆる女性問題にうとく、後に赤松から「この人おくてなのよ」と冷やかされる。

 フランス映画にうつつを抜かし、高校の授業を抜けては新宿の映画館に通った。「望郷」「巴里の屋根の下」……。映画は焼け跡に開けた世界への窓だった。

 55年、記録映画会社に入社。監督になった藤原に2作目の声がかかったとき、妊娠していた。

 「放射能を扱う企画だったから断ると、だから女は信用できないって。私<やしくて、いつか必ず監督に復帰してやるって豪語した」

 48歳で現場復帰。60歳をすぎて次々と長編映画を制作し、高い評価を得る。主人公は関東大震災直後に虐殺された大杉栄・伊藤野枝の遺児伊藤ルイや、明治の初めにアメリカ留学した津田梅子だ。

 ベアテの映画づくりの話を聞いて、藤原が心ひかれたのはベアテの父レオ・シロタだった。「リストの再来」と言われたピアニスト。妻を愛し尊敬した人。映画では、レオが弾くストラビンスキーの「ペトルーシュカ」が流れる。

 レオは19世紀末、キエフで生まれたユダヤ人だ。音楽の都ウィーンに出た後、ロシア革命が起きた。結婚、ベアテが生まれる。山田耕筰の誘いで1929年、一家で来日。半年の予定が延びるうちに欧州でナチスが台頭、日本にとどまる。ユダヤ人強制収容所で命を落とした親類もいた。


 ベアテ・シロタ・ゴ―ドン(81)は、15歳でアメリカに単身留学するまでの10年間、東京・乃木坂で育った。近くに画家の梅原龍三郎が住み、娘と仲良しだった。そのころの日本といえば、農村の娘の身売り、子どもが生まれないと離縁される妻、「お妾(めかけ)さん」の存在。「日本の女性には人権が全然なかった。子どもだった私も毎日の生活から知りました」

 戦争中は音信不通だった両親を探すため、戦後、GHQに職を求め日本に戻った。憲法草案の人権班に指名されたとき、女性や子どもが幸せになれる決まりをどうしても書き込みたかった。

 22歳で憲法を書いたなんて信じられないんですが。「うん、ちょうど私がそこにいただけよ」

 焼け残った図書館をジープで回って、ワイマール憲法やロシア憲法まで借り集めた。結婚は「男性支配ではなく」と踏み込み、非嫡出子の平等、「同じ仕事に対し男性と同じ賃金を受ける権利」まで書き込んだ草案をつくったが、そこまでは日の目を見なかった。どれも、今なおもがいている問題ばかり。ベアテ草案の先進性がわかるだろう。
=文中敬称略


(3)「梁山泊」がともした灯 (4/27)

山川菊栄
山川菊栄(1890〜1980)=
73年、神奈川県の自宅で


 憲法ができて、ベアテはアメリカに帰った。そこから日本の女性にバトンが渡された。労働省婦人少年局が走り出した。はるかなゴールは、男女平等。

 敗戦、インフレ、食糧難。労働運動が燃えさかる1947年、社会党首班の連立内閣ができた。たった9カ月だったが、その雲の切れ間に「労働省」が生まれ「婦人少年局」ができた。では、だれを局長にするか。戦前の官僚制の下で女性の高級官僚はいない。白羽の矢がたったのは山川菊栄(やまかわ・きくえ)、当時56歳だった。戦前、女性解放の書、べーベルの「婦人論」を訳した菊栄は、夫の均とともに警察に追われた著名な社会主義運動家だった。

 山川は、浴衣を縫い直した質素な洋服で就任会見に臨んだ。「国家の金と官僚組織を便って、私は日本の婦人(の実態)をレントゲンにかけ、くまなく調べ上げたい」。山川にとって、それは運動を前進させる場だった。


 山川のお付きになった原田冴子(はらだ・さえこ)(75)は「とにかく妥協のない人で……」と思い出す。局長室に用意された女王のようなイスを「こういうのには座りません」と断り、高等官用トイレを女性用にあてたために「便所が遠くなった」と省議で文句を言われたのには「女が何かしましたか」と怒った。

 婦人少年局のスタッフをどう集めるか。各県に置く「婦人少年室」の室長には推薦された男性を断って、「捨て身で飛び込んできて下さる優秀な方をお待ちします」と檄文(げきぶん)を発表、全国ではせ参じた女性たちを起用した。職種は教員など様々、年齢も23歳から57歳まで。

 東京の本局でも行政経験があるのは、戦前から婦人工場監督官をしていた谷野せつ(たにの・せつ)・婦人労働課長ぐらい。夫を亡くして3人の子を育てていた高橋展子(たかはし・のぶこ)は得意の英語でGHQで働き、夫が社会党の運動家で3人の子を抱えた田中寿美子(たなか・すみこ)は、資料を見せてもらいに出入りするところをスカウトされた。公務員試験に受かった森山真弓(もりやま・まゆみ)(77)が入ってくる時代まで、婦人少年局は梁山泊だった。


原田冴子さん


 第一の仕事は調査だった。原田が山川と紡績工場に行ったとき、うなぎの昼食を用意されたことがある。山川は「職員食堂があればそこで食べる。なければ外で食べて来ます」と断った。
労働省 歴代婦人女性局長
 調査の伝統は山川が辞めた後も続く。原田は売春婦の実態調査もした。業者の名簿から無作為抽出した女性と一対一で向き合う。「私はもう心臓がどきどきで。でもはすっぱな人はいなくて、純朴な人が多かった」。全国1313人の調査では、多くは貧しさが原因だった。工員や女中を経てたどり着き、家に仕送りをしていた。全体の4分の1に子どもがいた。

 「売春の店と気づいたときは親が前借金していた。母親が店まで無心に来る」「戦災と水害、夫の結核。入院費も払えず、子どもを母に託して遊郭に来た」

 56年に売春防止法が成立、各地の婦人少年室は、女性たちの身の振り方の相談にのったりした。

 「調査こそ、ともしび」。後の婦人少年局長高橋久子(たかはし・ひさこ)(77)は、山川の初志をそう表現する。

 山川のもとには、市川房枝(いちかわ・ふさえ)、神近市子(かみちか・いちこ)、平林たい子(ひらばやし・たいこ)、加藤シヅエ(かとう・しづえ)、日教組の高田なほ子(たかだ・なほこ)ら女性運動の先駆者たちが出入りした。いま、東京都港区の「女性と仕事の未来館」には、紙芝居や幻灯、挿絵入りパンフレットなど、そのころ婦人少年室が、女性たちに権利を知らせるために使ったものが保存してある。有名になる前のいわさきちひろが描いた紙芝居「ばら寮のできごと」も残っている。

(文中、年齢のない人は故人)
=文中敬称略


(4)男社会切り開く「太陽」 (4/28)


森山真弓・衆院議員


 キャリア官僚から政治家に転身、官房長官、文相、法相などを歴任した森山真弓(もりやま・まゆみ)(77)の人生は、いつも「女性初」の形容とともにある。といってバリバリのやり手タイプだったわけではない。

 戦時中、森山が通った津田塾専門学校では、体育館が飛行機の部品工場に改造され、空襲があれば防空壕(ぼうくうごう)に避難した。そこで肩寄せ合って幾夜かを明かしたのは、時事英語を教えてくれた当時50歳前の藤田たき(ふじた・たき)だった。

 戦後、女性も東大に入れるようになって、森山も周囲につられて受験を思い立つ。突貫勉強で授業中に居眠りしても内職しても、藤田は見逃してくれた。合格して学校に息せき切って帰ると、藤田が抱きしめてくれた。

 50年、東大を卒業。どの会社も復員してきた男たちを食べさせるので精いっぱい。「女の局長がいるから、ひょっとして」と訪ねた労働省が採ってくれて、婦人少年局に配属された。森山は国家公務員上級職に合格して中央官庁に入った女性第1号である。


「男女雇用機会均等法案」要綱の諮問書を受け取る
当時婦人少年問題審議会長の藤田たきさん(1898〜1993)。
右は赤松良子・労働省婦人少年局長=1984年、労働省で



 51年、初代の山川菊栄局長に代わって、2代目に藤田が来る。戦前、津田塾を出て米国留学した藤田を、GHPの婦人問題担当の女性中尉ウィードが見込んで口説いた経緯がある。靴磨きの少年や花売りの少女をどう助けるか、そんな仕事を始めていた森山にとっては、思わぬ師との再会だった。

 実は、山川も津田塾、藤田も津田塾。さらに藤田の教え子人脈が婦人少年局を支える骨格になる。その教え子たちが津田塾にいたころの印象を、藤田が書き残している。「成績抜群」田中寿美子、「物静かで目立たなかった」森山、「色白で下ぶくれ」の赤松良子、「ちゃめっ気で反骨」の久保田真苗(くぼた・まなえ)(80)……。藤田は62年から11年間、津田塾大学学長になる。

 森山は正直なところ、男性社会で希少価値の女性は得だなと思ってもいた。70年ごろは、国際会議に出ても、「女性は仕事と家事で大変だから保護すべきだ」という意見が大勢を占めていた。

 だが国際社会は、「保護」より「平等」を重んずる考え方に急速に傾く。「あらまあ、変わっちゃった」と、婦人少年局長になった森山。そんな空気のなか、お年に開かれた戦後女性史のエポック、国際婦人年のメキシコ会議の日本の首席代表に藤田を担ぎ出す。

 藤田のために外務省の用意した演説は、立派だけど面白くない。日本には「元始、女性は太陽であった」という言葉があるんです、女性解放の先駆者、平塚らいてう(ひらつか・らいちょう)が言ったんですってアドリブで演説しちゃいましょうと森山と藤田。外務省の鼻を明かす。


 それからの森山は、男女平等について深く考え始める。例えば、生理休暇って必要なのか。「3年後輩の赤松さんが『森山さんしっかりして。最初の人がちゃんとやらないとあとに響くから』とおどかすんですよ」。省内に雇用平等についての研究会をつくった。森山は、公務員の13職種が男性のみ採用であることに気づく。航空管制官、国税専門官、入国警備宮、刑務官……。国税庁に談じ込むと「国税大学校に女子トイレがないんです」。運輸省関係が最初に門戸を開いた。そのときの運輸相は森山の夫、森山欽司だった。

 85年、男女雇用機会均等法がようやく成立し、国連婦人の10年の締めくくりでナイロビ女性会議が開かれた。森山は参院議員に転じ、外務政務次官の職にいて政府代表として演説した。

 そこでは、与謝野晶子(よさの・あきこ)の女性解放の詩「山の動く日来る」を引用した。こんどは用意した草稿に初めから入れていた。

=文中敬称略


(5)「結婚退社」誓約に怒り (5/2)

松原亘子
松原亘子・イタリア大使
=ローマで、大友良行氏撮影

 映画「ローマの休日」で、ヘプバーン演じるお忍びの王女さまは、パンプスを露店で買ったサンダルに履きかえて、スペイン広場の階段を上っていく。

 この映画が大ブームとなった50年代の日本で、「ヘップサンダル」なるビニールサンダルがはやった。東京・浅草あたりでげたや鼻緒を作っていた人たちも、こちらを作り始めた。典型的な、家内工業と内職の産物だった。

 59年。サンダルの底はりなどをしていた女性たちが、ひどい貧血になり死者まで出たことがわかり、大問題になった。原因は、のりに含まれたベンゼンを吸い続けたこと。手間賃は1足数円から。量産するには、安くて乾きの速いベンゼンのりが欠かせなかった。

 家内労働の実態解明に、労働省が数年がかりで取り組んだ。


 労働基準局にいた高橋久子(たかはし・ひさこ)(77)は、東京の吉原に出かけた。「昔の遊郭の、6畳1間の半分で家族がサンダル加工して、あと半分に赤ちゃんが寝てるのよ」。排気装置をつけるよう話しても、「間借り人だからできないと言うし、排気しても、すぐそこがお隣で……」。

 高橋は部下の新人女性に派手な格好をしないよう注意して、現地調査に連れて行った。鍛えたその「ちょっと元気良すぎる新人」が、松原亘子(まつばら・のぶこ)(64)だった。

 後に高橋は、婦人少年局長を経て女性初の最高裁判事になる。松原は、三つの局長ポストを経て女性で初めて事務次官に。観光客のあふれるローマでいま、日本の顔、イタリア大使を務める。今年は日本EU市民交流年。2月には、交流年行事の開幕コンサートをチャンピ大統領と催した。

 働き続けようと燃える女性を、戦後早くから採り続けたのは労働省くらいしかなかった。

 高橋は、「女子学生は、入学したときは意気盛ん。就職が近づくと憤慨して」とふり返る。「あそこの会社は試験も受けさせない、ここもダメ……」。

 東大経済学部から53年労働省に入った。もっとも、「私が最初にした仕事はね……」。先輩の広田寿子(ひろた・ひさこ)(後に日本女子大教授)が朝お掃除当番していたのを手伝っての、ゴミ捨て。どうして? 女性だけ、湯飲みや灰皿洗いなどの当番があった。

高橋久子
高橋久子さん


 一方の松原は小学生の頃、初めての当時唯一の婦人外交官、山根敏子(やまね・としこ)の存在を知った。「こんな仕事をしている女性がいるんだ」。山根は7年目にカナダで飛行機事故で亡くなる。松原は、東大で国際関係論を学び、さあ就職。男子学生は外交官に、商社や銀行に。そのなかでやっと、メーカーの内定にこぎつける。

 ところが――。会社から「サインしてください」と誓約書を求められて、びっくり。結婚したら退社すること、と書いてある。「私そんなつもりで一生懸命に就職活動したわけじゃない」。亡き父が、「働き続けるなら公務員か教師だな」と言ったことを思い出した。私は世間知らずだった……。

 当時は、東京オリンピックに向けて、マスコミがわずかに大卒女性を採用した程度だった。

 松原は留年して、63年に国家公務員試験に合格した。官庁を回ってまた、ガク然。その年、上級職で採用された女性は、労働省・松原と厚生省の横尾和子(よこお・かずこ)(64歳、現・最高裁判事)くらい。試験に合格したのは125人いたのに。

 松原はのちに、37歳から45歳までの8年間、男女雇用機会均等法づくりに力を尽くした。また、上司の高橋と組む。眠くて疲れていても「子どもとの唯一のきずな」の弁当を作り続けた、働き盛りで子育て盛りの日々だった。

=文中敬称略


(6)参政権、差別に法で挑む (5/6)

若者の支持で当選した市川房枝さん(1893〜1981)。左は前民主党代表の菅直人さん=1974年、東京・婦選会館で
若者の支持で当選した市川房枝さん
(1893〜1981)。
左は前民主党代表の菅直人さん
=1974年、東京・婦選会館で


 「結婚の男女平等」を定めた憲法24条、労働省婦人少年局の設置と並んで、戦後の女性を大きく変えたのは婦人参政権だった。その実現をめざして戦前から苦闘したのが市川房枝(いちかわ・ふさえ)だった。

 日本の女性が初めて投票した46年4月の総選挙のことを、戦前から市川とともに運動してきた藤田たきは、こう詠んでいる。

 敗戦のいたみをしばし忘れたり花吹雪あび投票に行く


 だが、市川は大日本言論報国会理事だった経歴を問われて公職追放になる。のちに市川を継いで日本婦人有権者同盟を預かり、参院議員にもなる紀平悌子(きひら・ていこ)(77)が市川を訪ねたのは49年、そんな失意のときだった。

 「父が死に、夫が病気で、父と懇意だった市川さんに仕事を紹介してもらおうと思ったけれど、秘書みたいにして居ついてしまった。市川さんは庭で菜っ葉をつくりアヒルを飼って暮らしていた。私の給料は、500円とアヒルの卵10個」

 藤田らは公職追放の取り消し運動の先頭に立つ。17万人の署名を集めた。市川は50年に追放解除、婦人有権者同盟会長に復帰する。

 51年のある朝、紀平が婦選会館に出勤すると、いつも早く来る市川が来ない。市川は時の首相吉田茂の娘、麻生和子を突然、ひそかに訪ねていた。

 当時、もう男女平等はいい、婦人少年局はいらぬという廃止論が起きていた。藤田が局長だった。「女性はまだ差別されている。婦人少年局を残して」と訴える市川に和子は答えた。「パパに伝えましょう。パパはフェミニストだから」。数日後、吉田は「婦人少年局には触るな」と指示した。16年後、吉田の国葬に、市川は「恩義を感じて」参列する。

 52年、アメリカを4カ月間旅する。ルーズベルト元大統領夫人ら米国女性との意見交換に、通訳として付き添ったのがなんとベアテ・シロタ・ゴードン(81)だった。ベアテが憲法24条の草案をつくったことは当時はまだ秘密、このとき市川も知らない。

紀平悌子
紀平悌子・日本婦人
有権者同盟代表



 参院議員になったのは53年。市川は「理想選挙」を掲げ、金権腐敗を追及し続けた。しかし、女性の権利の問題では、与野党を超えた女性議員の結集をめざした。

 超党派の女性議員が力を合わせたのは、例えば売春防止法案だった。「市川さんの部屋にみんなが集まる。私はおそばを食堂から運んだ。代金を置き忘れる議員もいた」と秘書だった紀平。売春業者が政治家に献金し、法の成立を阻止しようとする汚職事件も起きた。市川は、女性解放はロマンじゃない、法律を作らなければ前進しないと考えていた。

 80年の女性差別撤廃条約署名のとき、政府は「準備ができていない」と見送ろうとしたが、市川は48の女性団体を結集し、激しく抗議してそうさせなかった。折しも参院選。市川は全国区で1位、278万票で当選する。その一票一票には、各地で日常的な差別に苦しんできた女性たちの思いがこもっていただろう。

 労働省婦人少年局長から転身した森山真弓(77)が当選したのも同じ参院選である。「先生、私のビラに推薦の言葉を書いてくれませんかと頼んだの。市川さんは、あなたはどっちみち自民党でしょうけど、自民党にもちゃんとした女性議員がいてはしいからねと書いてくださった」

 翌81年2月、市川は87歳でこの世を去る。60年来の盟友藤田が別れの言葉を述べた。「あなたのひつぎには、メモ用裏紙ひと束、ご愛用のペン、それに女性差別撤廃条約のコピーが納められました」

=文中敬称略


(7)5度廃案、均等法へ道 (5/9)

田中寿美子
田中寿美子さん(1909〜95)、
参院全国区で2度目の当選。
前列中央が田中さん=71年、東京都内で


 95年5月、東京。2カ月前に85歳で亡くなった田中寿美子を偲ぶ会で、司会の樋口恵子(ひぐち・けいこ)(73)は、「いつもおしゃれで、つややかな愛の人。私たちは田中山脈で育てられ、それぞれ一本の木となった」と語った。

 集ったのは赤松良子(75)、久保田真苗(80)、清水澄子(しみず・すみこ)(77)、土井たか子(どい・たかこ)(76)、松永伍一(まつなが・ごいち)(75)……。詩人の松永は田中を「日本のボーボワール」とたたえる詩を書いている。労働省婦人少年局から巣立って社会党初の女性副委員長となった人、政府に先駆けて男女雇用平等法案をつくり、5度も廃案になりながらくじけなかった人。


 戦前、津田塾で学んだ田中は、後に社会党衆院議員になる夫稔男の感化でクリスチャンをやめ、「思想結婚」した。ところが、九州・鍋島藩出身の夫は「日常習慣は封建的な権威主義だった」と田中は書いている。

 35歳、疎開先の熊本で敗戦。お上に従順だった村人が一転、日本軍の物資、とりわけ絹のパラシュートを山分けした。「どこに隠した」と怒る占領軍の将校、おびえる村人。田中が英語で話をつけたとの逸話がある。

清水澄子
清水澄子さん 

戦後、田中は山川菊栄婦人少年局長の引きで嘱託から婦人課長になる。米国留学をきっかけに評論家に転進、62年、山川と「日本婦人問題懇話会」、松岡洋子(まつおか・ようこ)、羽仁説子(はに・せつこ)、深尾須磨子(ふかお・すまこ)らと「日本婦人会議」を結成する。知的でやさしい田中が結節点となり、幅広い女性が参加した。そんな田中を社会党が誘い、65年の参院選全国区で当選する。

 そのころ福井市で、清水澄子は、家が押しつけた2度の結婚に破れ、県評事務局で働いていた。求婚者が現れ、清水が離婚歴を理由に断ると、「離婚なんてひとつのつまずきにすぎないでしょう。自分を傷ものだなんておかしい」。新しい夫は、家事を分担し、赤ちゃんのおむつも洗った。清水は「働く婦人の会」結成や保育所建設などに取り組む。県評は「余計なことを」と歓迎せず、清水をクビにするとの騒ぎもあった。

 そんな清水の評判を聞いた田中は、「上京して秘書になってほしい」と頼む。清水は迷いつつ受ける。夫も関東の職場に変わった。

久保田真苗
久保田真苗さん

 こんなこともあった。沖縄の復帰闘争支援で乗った船の中で、同行した男たちがあの店は2千円だとか3千円だとか話している。「何の値段かと聞いていると、沖縄で女性を買う値段なんです」。基地返還を叫びながら女の人権には無頓着な男。清水は怒り、田中は「沖縄の売春問題と取り組む会」をつくった。措水は後に、田中から「日本婦人会議」議長を引き継ぎ、参院議員になる。

 83年、リウマチに苦しんだ田中は引退を決意。気がかりは男女雇用平等法案を誰に託すかだ。

 田中は、久保田真苗にいきなり電話して立候補を頼んだ。津田塾の後輩で、婦人少年局の後輩、78年から82年までニューヨークで国連の「婦人の地位向上部長」の職にあった人。「田中さんが心血を注いでつくった法案ですけれど、廃案廃案でしょ。だから私に声かけていただいたと思うんですよ」と久保田。当選を果たす。

 田中の努力の成果とも言えるだろう、85年、赤松婦人少年局長のときに政府提案の「男女雇用機会均等法」が成立する。田中が自分の法案に「差別禁止」や「救済機関の設置」を盛り込んだのに対して、均等法は「努力義務」にとどまるなど、ずいぶん弱められたものだったが。

 田中は札幌の娘のもとで療養しつつ、土井や久保田の活躍を見守ることになる。

=文中敬称略


(8)国籍法・家庭科 長い曲折 (5/10)

1980年、コペンハーゲンで、女性差別撤廃条約に署名する政府代表の高橋展子デンマーク大使(左端)。右端は国連婦人の地位向上部長の久保田真苗さん=AP
1980年、コペンハーゲンで、女性差別撤廃
条約に署名する政府代表の高橋展子デン
マーク大使(左端)。右端は国連婦人の
地位向上部長の久保田真苗さん=AP


 80年、日本政府は女性差別撤廃条約にはサインした。しかし、条約に違反する国内状況が幾つも残っていた。何とかつじつまを合わせないと国会も条約承認に進めない……。

 主な課題は三つ。一つは、雇用の平等。これは85年に男女雇用機会均等法が成立した。国籍法と高校家庭科の男女共修問題も、乗り越えなければならなかった。

 77年3月、国会で国籍法問題を初めて追及したのが土井たか子(76)だった。

土井たか子衆院議員。壁の額は金子鴎亭による「山の動く日来る」(与謝野晶子)の書=東京・永田町の衆院議員会館で
土井たか子衆院議員。
壁の額は金子鴎亭による
「山の動く日来る」(与謝野晶子)
の書=
東京・永田町の衆院議員会館で


 大学教員だった土井は、社会党の田中寿美子に誘われて政治の世界に入った。95年5月の「田中を偲(しの)ぶ会」で、土井は語った。「68年、神戸・三宮駅前でバスに乗ろうとしたら、成田知巳(なりた・ともみ)社会党委員長と田中さんが演説する声が聞こえてきた」。田中は静かだけど迫力がある。バスに乗らずに演説を聴き終わった土井は、田中と言葉をかわした。

 その秋、成田から朝に晩に、立候補要請がくる。「男性からこんなに電話が来たのは初めて」。田中からも「一緒に仕事したい」。夢にまで田中が出る。出馬を決意し、69年に当選。社会党委員長、衆院議長、社民党党首とたどる政治人生が始まる。

 当時の国籍法では、日本人男性が外国人女性と結婚すると、その女性は「夫の付属物」みたいにすぐ日本国籍をとれる。しかし、日本人女性が外国人男性と結婚しても、その男性は3年は日本国籍をとれない。これって男女差別じゃないか。土井の追及に、法相は「日本には妻が夫に従う慣習がある」と答えた。

 81年2月、折しも市川房枝の告別式の日、土井は「えりをただして」質問し、改めて国籍法改正を求めた。84年、ようやく国籍の男女両系主義が実現する。

 この質問で、土井は生活保護費の差別も取り上げた。男の食費は3万2210円、女は2万8340円。「女子マラソンがいよいよロサンゼルス五輪の正式種目になるのです。私自身は男性より食欲旺盛でございます」。園田直厚相は頭をかいて是正を約束した。

 89年の参院選。消費税、リクルート事件で世情騒然、土井率いる社会党が圧勝、与野党逆転した。「山が動いた」と土井は高揚した。

樋口恵子さん
樋口恵子さん


 評論家樋口恵子(73)も、田中に「選挙に出て」と誘われた一人。樋口は断って、市民と政府をつなぐ立場から女性運動を続けた。東大に進んで新聞部に入ったら、「これで掃除と会計をやってもらえる」と言われたのが性別分業を実感した最初。30歳でババア呼ばわりの会社、「妊娠6カ月で退職」などの職場を転々、主婦に戻った時期もある。

 樋口は新聞広告で「婦人問題懇話会」を知ってメンバーになる。そこで山川菊栄や田中と出会い、交友と視野を広げた。

 高校家庭科は当時、女子だけ必修だった。男は外で仕事、女は家庭を守る。いつまでもそんな性別分業でいいの? 樋口は、市川房枝を看板に、和田典子(わだ・のりこ)(89)、半田たつ子(はんだ・たつこ)(77)らと「家庭科の男女共修をすすめる会」をつくって、長い曲折の末に実現させた。

 03年、樋口は東京都知事選に立候補、「ババア」発言の石原慎太郎知事に挑んで敗れた。それまで政治と距離を置いていたのに、なぜ立ったのか。

 「だって、これから4人に1人は65歳以上の女性、おばあさんの世紀になるんですよ。『ババアは不要』発言は亡国の論です」

 樋口の選挙事務所には、田中の労働省時代の部下だった赤松良子が、選挙にでる女性を応援する募金ネットワーク「WINWIN」の代表として詰めた。

=文中敬称略


(9)未収集 (5/11)


(10)賃金差別 本音で闘い (5/12)


越堂静子さんと住友3社の原告の西村かつみさん、
笠岡由美子さん、石田絹子さん
(左から)=大阪市内で

 職場の男女平等を裁判で勝ち取ろうとした大阪の女たちがいた。その輪の中心にいた一人が、越堂静子(こえどう・しずこ)(61)だった。

 85年7月、ナイロビの世界女性会議。越堂は41万6千円をはたき、休みをとって出かけた。アフリカは暑いと思っていたのに、空港の案内のおじさんはセーターを着ていた。えー、寒いの?

 NGOの会議の場で、越堂が大阪弁英語で訴えたのは男女の賃金格差。「私は勤めて23年、41歳。賃金は男性の半分です」

 商社にあこがれて就職し、契約書を作ったり税関に走ったり面目かった。結婚しても「もう少し」と働き続けた。だが、越堂たちが「商社に働く女性の会」をつくって10社の賃金を調べたら……。25歳女性の年収は同年の男性の8割。30歳で6割。40歳で半額に。なぜ。会社は「女は早く辞めるから」。女性が働き続けることを考えていなかった。

 大阪市の出版社、創元社の編集者だった正路怜子(しょうじ・れいこ)(63)は大学時代に女性問題に目覚め、草の根グループの勉強会「国際婦人年 北区の会」を催していた。越堂も一緒に活動し、ナイロビ行きも会の「修学旅行」だったのである。

昨年12月、国際女性の地位協会から「赤松良子賞」を受けるWWNの正路怜子さん=越堂さん提供。
昨年12月、国際女性の
地位協会から
「赤松良子賞」を受ける
WWNの正路怜子さん
=越堂さん提供



 会では、主婦も弁護士も記者も自由にしゃべりあった。宮地光子(みやち・みつこ)(52)は、弁護士2年目に講師によばれた。宮地には、ある弁護士事務所に入れてもらおうと訪ねたら「町の経営者が命かけて相談に来るのに、女に任せられるか」と門前払いされた経験がある。

 ナイロビ会議を前に成立した男女雇用機会均等法に、みんな期待した。しかし、働く女性たちからは「均等法ができても私の周りは変わらない」といういらだちがもれた。90年、宮地は「均等法実践ネットワーク講座」を始めた。講座に通ってきたのが、男女賃金差別を訴える一連の裁判を起こした「住友の女性たち」だった。

 働き続け、どんなに仕事をしても女は評価されない。66年には、住友セメント(当時)の鈴木節子(すずき・せつこ)が結婚退職制を憲法違反と訴えて裁判に勝った例がある。住友生命の女性たちも、結婚後に昇給差別されたとして闘おうとしていた。私たちも何かできるだろうか。裁判を起こすなんて怖いけど。

 「で、もう突然、国連なんですよ、私たち」と住友電工の西村かつみ(にしむら・かつみ)(57)。先駆けは越堂。91年に賃金差別を知らせる英訳リポートをニューヨークの国連に届けた。担当者は「あなたたちのリポートに強い印象を受けた。こんな風に職場から直接来た人は初めて」と話を聞いてくれた。

 西村や住友化学の石田絹子(いしだ・きぬこ)(60)が続いた。「賃金のことなんか言っていいのかなあと思ったけど、インドから来ていた女性に励まされた。『世界の女性差別は根は同じ』と」

 正路や越堂は、裁判するなら応援するよと、95年にワーキング・ウイメンズ・ネットワーク(WWN)をつくった。

宮地光子さん
宮地光子さん



 住友電工の女性たちは初め敗訴した。だが03年暮れ、大阪高裁の井垣敏生(いがき・としお)裁判長(61)が和解を勧告した。そこには「国際社会においては男女平等の実現に向けた取り組みが着実に進められ」「過法の社会意識を前提とする差別の残滓(ざんし)を容認することは社会の進歩に背を向けることになる」と書かれていた。国も会社も受け入れ、西村たちは昇進を果たした。

 流れはできた。住友化学も石田たちに1人500万円払うことで和解した。今年3月の住友金属の判決は、笠岡由美子(かさおか・ゆみこ)(50)ら4人に計約6300万円を払うよう命じた。会社は控訴した。

 越堂は言う。「私ら本音でしゃべる。しゃべったら実行する。あかんかったら、しゃーない。これが浪速女の心意気」

=文中敬称略


(11)男性含めた変革模索 (5/13)

坂東真理子さん
坂東真理子さん

 「私つくる人、僕たべる人」というインスタントラーメンのテレビコマーシャルが問題になったことを覚えているだろうか。

 75年9月、「国際婦人年をきっかけとして行動を起こす女たちの会」が、「食事を作るのは女、男は食べるだけというのは性別分業の固定化だ」とハウス食品に抗議した。「言葉狩りだ」「ヒステリックなことを言うな」などと世情騒然。結局、ハウス食品は10月に放映を中止した。

 「女たちの会」は、市川房枝田中寿美子吉武輝子(73)三井マリ子(みつい・まりこ)(56)らが個人として参加した。弁護士の中島通子(なかじま・みちこ)(69)の事務所が本拠になる。テレビでニュースを読むのはどうして男だけ? 司法界から女性を排除する発言をした判事を許すな! 次々と抗議した。「世間からたたかれもしたけれど、あのころは楽しかったなあ」と中島。

 中島のもとには「仕事を辞めて子どもを育てろといわれてそうしたら、夫は別の女性のもとへ去ってしまった。再就職できず食べていけない」といった相談が来る。「男は仕事、女は家庭という性別分業がある限り、男女が平等になれるはずがない」。中島は「女が働く権利」の保障をライフワークにしてきた。

中島通子さん
中島通子さん


 その点、85年の男女雇用機会均等法で変わったのか。

 法は、募集、採用、配置、昇進の男女差別を禁止はせず、企業に解消の努力義務を課しただけだった。「差別だとしても違法とは言えないとされ、かえって裁判で勝てなくなった」と中島。制定当時、「ザル法」と言われるたび、労働省で懸命に法案をつくった松原亘子(64)は怒った。「これは醜いアヒルの子。いつかきっと白鳥になるから」

 97年の法改正で、これらの差別ははっきり禁止される。セクハラ防止も盛り込まれた。改正にかかわった厚生労働省審議官の北井久美子(きたい・くみこ)(52)は言う。「醜いアヒルの子は白鳥になった」

 白鳥になったのは? 「企業が採用してみたら女性たちがよく働いて、企業も能力を認めるようになったから。それに、国際化が進んで企業幹部も国際標準を意識するようになってきた」と松原。

 だが、中島は言う。「禁止規定になってみなが救われたかというと、そうじゃない」。ひとつは総合職・一般職といったコース別採用。もう一つ、パートや派遣などの非正規雇用。いずれも実質的な女性差別の温床になっている。「均等法でカバーされているのは、3分の1以下じゃないですか」

 育児・介護休業法で認められたのに、男性が育休をとる例も増えない。「それでも遅々として進む。次の法改正では、妊娠や出産で不利な配置転換をするのを禁止したい」。北井たちのなすべき仕事は続く。

北井久美子さん
北井久美子さん


 99年、男女共同参画社会基本法ができた。「自社さ」政権時、社民党党首の土井たか子(76)、さきがけ座長の堂本暁子(どうもと・あきこ)(72)が「女性基本法を作ろう」と種をまいていた。01年、内閣府に男女共同参画局が誕生した。

 初代局長坂東真理子(ばんどう・まりこ)(58)は、労働省人脈が多数を占める中、旧総理府生え抜きとして女性問題に取り組む。いま昭和女子大教授。

 共同参画ってなに? まず「仕事と子育ての両立支援」を手がけた。各役所の縄張りに踏み込むと族議員が「局長のクビを取る」と息巻く。「首相や官房長官に近い地の利を生かすことができた」との感慨がある。「でも、女性だけを対象にした政策では限界。男性の働き方を含めた社会のシステム全体を変えなければ」

 均等法からもう20年。光もあれば影もある。まだ20年というべきかもしれない。

=文中敬称略


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ニッポン人脈記「女が働く」 (朝日: 2005/04/25〜 夕刊)  - TransNews