李舜臣像

韓国「反日」教科書の凄まじさ

斎藤吉久

Saito Yoshihisa

 検定中で内容が公開されていないはずの日本の中学歴史教科書をめぐって、年明けから日本と韓国・中国との間に波紋が生じている。
 韓国最大の新聞・朝鮮日報などは、「日本政府が『韓国併合は合法的』などという内容の『歴史歪曲教科書』を承認しようとしているにもかかわらず、韓国政府の対応は生ぬるい。……日本政府がこのような歴史教科書の検定を不可として処理するまで、全国民的反対運動を繰り広げるべきだ」(2月下旬の社説)と、ものすごい剣幕だ。

 韓国政府は3月、事実上の特使として金鐘泌元首相を来日させて日本政府に「配慮」を求め、中国の江沢民国家主席は新任の阿南惟茂駐中国大使に「中国人民の心配に考慮を」と述べた。

 しかし、韓国・中国両政府は何をもって「歴史の歪曲」と批判しているのか。逆に、どんな歴史理解が正しいと考えているのだろう。とくに韓国の「国定歴史教科書」をひもときながら、日韓「教科書問題」が発生する真因と解決への展望を探ってみたい。

 韓国の歴史教科書の特徴は「国定教科書」であるという点にあるが、どのようにして編纂されるのか。

 歴史教育者協議会編『あたらしい歴史教育 第五巻 世界の教科書を読む』によると、「国史教科書」は日本の文部科学省に当たる「教育部」の委嘱により「国史編纂委員会」が作成する。編纂委員会は国史に関する史料を収集し編纂する国立の研究機関で、実際には大学や研究所に籍を置く歴史研究者が執筆する。教育部が定める編集方針に基づいて作られた原案は、専門の研究者によって内容が検討され、歴史教育の専門家やとくに選ばれた現場の教師によって内容面と教育的側面から整理・修正される。さらに教育部指定の実験校で試用され、問題点が補われ、修正が加えられたのち教育部から発行され、各学校に供給される(横田安司「韓国の歴史教育」)。

 この「国定教科書」制度に変わったのは、1970年代のことらしい。

 近年、日本国内で韓国の初等学校(小学校)から高等学校までの歴史教科書が翻訳・出版されているが、高校用『国史 上下』を日本語に訳した『韓国の歴史』によると、73年の「第三次教育課程」から「国史」が「社会科」から分離され、国民学校(96年に「初等学校」に改称)の5、6年から高校までは「必修独立科目」となった。大学では「国史」が「教養必修科目」となり、各種国家試験では「必修受験科目」として出題されるようになった。

京福宮正殿勤政殿 当時は朴正熙大統領時代で、「国策科目」として「国史」の学習が強調された。このため教科書の編纂方法も変わり、民間の筆者が執筆する「検定教科書」から、「国史編纂委員会」が編纂し、「文教部」(92年から「教育部」に改称)が発行する「国定教科書」に一本化されたという(『韓国の歴史』所収の翻訳者・宋連玉による「あとがき」)。

 こうしてできあがった国史歴史教科書の特色は、小学校用教科書『社会科1』(1945年までの韓国史)を全訳した『わかりやすい韓国の歴史』の「あとがき」(監訳者石渡延男・東京大学講師)が指摘するところでは、「民族主義史観に基づくものである」。

 石渡氏によれば、ベトナム戦争に参加し、大国による和平交渉の切り回しを体験した韓国は、大国に依存しない国造りの必要を痛感し、そのため教育の充実が図られた。第三次教育課程では「国籍のある教育」が命題となり、「国語」と並んで「国史」教育が重視された。なかでも「植民史観」(日本でいう「植民地史観」)の克服と民族的自負心の矜持の二点が重んじられたという。
 原稿の教育課程では中学・高校の「国史科」が廃止され、科目としては「社会科」に戻されたが、歴史教科書に見られる「民族主義史観」はずっと継承されている、と石渡氏はいう。

 義務教育の小学校用「社会科1」を開いてみる。

 古代から近世までをあつかう第一章「わが民族と国家の発展」の特徴は人物史として描いていることだが、第一節の最初に誇らしげに登場するのは建国の祖「檀君王倹」である。韓国の歴史教科書は「神話」を否定してはいない。

 第二節の「国を守った先祖たち」には、隋の侵略を退けた乙支文徳、契丹の侵入を防いだ姜邯賛の記述のあとに、壬申倭乱(秀吉の朝鮮出兵)で日本軍を撃破して「痛快な勝利」をおさめた李舜臣が登場する。
 3人はけっして同列ではない。第二節を学んだあとの「発展学習」には5つの課題が掲げられているが、そのうち3つが壬申倭乱に関連し、「当時、国のために命を捧げた義兵と僧兵の勇士に、感謝の気持ちを表す文章を書こう」と呼びかけている。批判される侵略国の筆頭は日本なのである。

 第三節「歴史を輝かせた先祖たち」には、和冦を追い払うために火薬の製法を中国から導入した崔茂宣、壬申倭乱の前に日本の侵略を予見し王に国防の必要を建言した李珥が登場する。

 第四節「わが民族の海外進出」では、千字文や論語など「百済の文化を日本に教えてあげた王仁」、紙、筆、墨などの「高句麗の文化を日本に伝えてあげた曇徴」が取り上げられ、日本に対する文化的優越感が強調されている。
 また秀吉のあとに現れた「新しい支配者(家康)は、朝鮮侵略を深く反省して、朝鮮通信使の派遣を求めてきた」「日本の知識人はわが国の先進文化を受け入れようと努力した」とつづる。

 第二章は「近代化への努力」である。
 第一節の「外国文化との出会い」では、日本の幕末期に通商を求めて侵入してきたフランス、アメリカを興宣大院君が撃退したものの、大院君の引退後、日本が武力をカサに不平等条約(江華島条約)の締結を強要したことが描かれる。京福宮3

 第二節「新しい社会への動き」は、朝廷から日本に派遣された修信使は日本が強国に変容したのを知り、開化政策の推進を図ることになる。けれども開化運動はかならずしも民衆の暮らしを豊かにせず、苦しんだ。旧式軍人の不満が爆発して起こったのが壬午軍乱で、日本公使館は焼かれ、日本公使は日本に逃げ帰った。しかしその後、今度はふたたび清の干渉を受ける。金玉均の改革、東学農民運動と改革がわき上がるが、日清戦争後は日本の干渉が激化する。日本を嫌ってロシアに近づこうとした明成皇后(閔妃)は日本に殺害され、憤慨した高宗はロシア公使館に移った。
 この危機の時代に独立運動家・徐載弼は亡命先のアメリカから帰国し、元山では民族独立の精神を呼び覚ますために初めての近代的学校が建てられた、とする。
 ここでは日本はものの見事に「悪玉」に仕立て上げられている。しかし近隣の強国に挟まれて右往左往する韓国人自身の自己批判はうかがえない。

 第三節の「近代文化の発達」では、西洋の文物が流入して衣食住が変わり、新しい民族宗教が誕生し、愛国心、民族精神を広めたことが記述されている。キリスト教の社会的貢献にもふれられているが、儒教支配を脱し信教の自由が認められたのは日本時代以後であることには言及がない。交通・通信の変化も取り上げられているが、京釜鉄道建設などに日本が果たした役割には触れられない。池永錫の種痘法導入やソウル大学校付属病院の前身の建設も説明されているが、それらに日本が深く関わっていることは記述がない。

 第三章は「国権回復のための努力」である。
 第一節の「光復のための努力」では、日本の侵略に対抗して、「義兵戦争」が展開されたが、1910年に「国の主権が奪われた」。それから45年まで「わが民族は数え切れない苦しみを味わった」と説明する。
 祖国のためではなく、日本の欲のために、女性までが戦場に引っ張られ、多くの人々が命を失った。誇り高いハングルを使わせず、姓名を日本式に改めさせ、民族の精神を抹殺しようとした。日本の祖先神をまつる神社に強制参拝させた−−と畳みかけたあとで、教科書は「蛮行を犯した日本とどう向き合うか」と生徒たちに問いかける。
 1919年3月の高宗皇帝の葬儀の日、「大韓独立万歳」を叫ぶ、三・一運動が始まる。日本は運動を妨害するため、発砲、放火、虐殺など、あらゆる悪行を犯した、と記述する。

 第二節の「大韓国民臨時政府」では、中国・上海の大韓民国臨時政府樹立が語られたあと、「日本の国王」が乗った馬車に爆弾を投げつけた李奉昌、「日本王」誕生日の記念式場に爆弾を投げた尹奉吉を「義士」と称える。

 第三節「民族の実力養成と文化守護運動」では、民族精神覚醒のため教育運動を展開した安昌浩、新聞発行によってハングル普及に貢献した周時経について書いているが、近代教育改革に日本が果たした役割や漢字ハングル交じりの新聞を最初に発行した日本人については言及がない。

 いずれの民族であれ、民族固有の文化や歴史を尊重すべきだとする基本的立場に立てば、韓国の「民族主義」は評価に値するが、韓国・朝鮮問題の第一人者として知られる佐藤勝巳氏は「これはナショナリズムではない」と指摘する。

漢江鉄橋 「韓国は日本の侵略は批判するが、中国の侵略は問わない。精神的、文化的に自分たちより上だと思う中国に対しては何もいわず、日本にだけ矛先を向ける。これはナショナリズムといえるのか。韓国人は日韓関係を上下関係で見ようとする。儒教倫理に照らして、『弟分』の日本が自分たちを植民地支配し、いまなおアジアのリーダーとなっていることに屈折した苛立ちがある。これが『反日』となって現れている」

 この姿勢が典型的に現れているのが教科書問題なのだが、もっと悪いことに、「韓国には客観的な歴史認識さえない」と佐藤氏は指摘する。
 「韓国には史料や史実に基づいて、実証的に考察する文化がない。『強制連行』『慰安婦』の問題でも数字と声が大きければいいという考えだ。民族・文化がまったく異なる日韓の歴史理解の共有は容易ではない。文化そのものを改めなければ解決はできない。しかしそれは不可能に近い」

 それなら積年の教科書問題を解決し、新たな友好関係を構築するために、日本はどうすればいいのか。
 「日本は自己主張するしかない。『教科書編纂は国家主権に属する。日本が韓国の教科書に干渉することを認めるのか。自国の考えを頑強に主張し、互いに押しつければ、最終的には戦争するしかない。わが国はそれを選択しない』と主張すべきだ。ところが毅然と語れる政治家がいない。逆に政府は、植民地支配を愚かにも謝罪している。長年、主張してきたように、国立の歴史研究所を設立すべきだ。近隣諸国の批判に客観的・合理的に対応できる公的体制を作ることだ。いまは民間の個人の力に任されている。これではいけない」

 「日韓融和」実現の日はいつの日かめぐってくるのだろうか。


 追伸 この記事は宗教専門紙「神社新報」平成13年4月16日号に掲載された拙文「日韓歴史認識の埋め難き溝−−韓国『反日』教科書の凄まじさ」に若干の修正を加えたものです。

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