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市長雑感(第224号) ダモイ遥かに


ダモイ遥かに

 「朝の読書」推進運動や、家庭で大人も子どもも一緒に本を楽しむ大切さを訴えておられる「家読(うちどく)」の仕掛け人でもある佐川二亮さんから一冊の本が送られてきました。『ダモイ遥かに』(著者は辺見じゅん) という本です。
 どんな内容の本かと言えば、日本が戦争に負けて、当時中国の旧満州、朝鮮、樺太にいた70万人近い日本人将兵はシベリアに連行され極寒の収容所の中で飢えと厳しい労働によって多くの日本人が死んでいき、死者は白樺の木の根元に穴を掘って埋められたので「白樺のこやし」と呼ばれ、物語はシベリアに連行された一人の将校、山本幡男という男のいつかは必ず日本にダモイ(帰国)することができると信じて生き抜く、壮絶な物語です。その物語の内容を紹介します。

 『日本とソ連が戦争状態を終結したのが、1956年の日ソ共同宣言であるので、この時正式に日本人抑留者の全員釈放が決まり、戦後12年経って生き残った日本人は、ようやく最後の引き揚げ船、興安丸に乗りナホトカ港を離れ、日本に向かった。
 しかし、この船には山本幡男の姿は無く、ソ連生まれのクロという山本にかわいがられた犬が日本人を追いかけ、氷海に飛び込み、興安丸に引き上げられ、山本幡男の魂を背中に乗せて日本に引揚者と一緒にやってきた。山本は、ダモイ(帰国)寸前に飢えと衰弱で亡くなっていたのである。
 山本幡男は、当時の旧制松江中学出身でロシア語が堪能で、戦前当時の満鉄調査部に勤務し、一家5人で幸せな生活を送っていた。しかし、戦争が激しくなり、兵隊として応召され、そのまま日本が負けるとシベリアに捕虜として連行されたのだ。ロシア語に精通していたので、シベリアではスパイと疑われ、特にひどい仕打ちを受けていたが、知識と教養があり、収容所の仲間の日本人から慕われ、必ずダモイ(帰国)があるから皆んなで頑張ろうと呼びかけていた中心人物である。しかし、当時の収容所のロシアの見張りは厳しく、日本への手紙も日本からの手紙や届け物も没収されてしまい、お互い家族や本人の生死もわからない状況が続いていた。
 そういう中で、「最後に勝つものは道義であり、誠であり、まごころである」と信じ続け、「人間は与えられた命をいとおしみ、力を尽くして生き抜くこと」を仲間と自分に言い続けた山本幡男という男の生き様をこの小説はみごとにドキュメンタリー風に書かれている。
 実は、山本の妻や子どもや母にあてた遺書は、帰国船に乗る前に検閲検査で没収されているため、山本の5人の仲間がそれぞれ頭の中に刻み込み、その記憶をもとに再現し、山本家に届けたのは日本が「もはや戦後でない」と『経済白書』で経済企画庁が日本の復興を謳いあげた戦後12年経った1956年の昭和31年以降で、最後に届いた遺書は、昭和62年のことである。』

 この小説の中で、興味深かったのはシベリアから日本に手紙を出すけれども音信不通の状態が続き、これは実はロシア側が双方の手紙などを途中で没収していたことが判明し、何としても家族にシベリアで生きていることを伝えたいために、思いついたことが、日本に渡るシベリアの鶴の脚や体の一部に小さな紙片を巻きつけたことです。
 抑留された日本人は、何千羽という鶴に故国日本への思いを託したかったのでしょう。九州のある海岸で一羽の鶴の脚に短いカタカナのメモが巻きつけられたのが発見されたが、そこを読んだ時は心が震えた。ひょっとしたら、伊万里の長浜干拓ではないかと・・・。

 歴史に埋もれたシベリア抑留の事実の渾身の書き下ろし小説を読んで、戦争というものがいろんな形で大きな犠牲を生む産物であり、何物にも代えがたい代償であることを痛切に感じました。
 戦後65年、伊万里市は5月19日に戦没者慰霊祭を今年も市民会館で行います。毎年、戦争の犠牲者でもある家族の人も少なくなりつつありますが、今日の日本が多くの尊い犠牲者のうえにあることを肝に銘じ、世界平和を願って続けていきたいと思います。

 

             平成20年5月   伊万里市長 塚 部 芳 和

 

『ダモイ遥かに』著者:辺見じゅん、発行者:佐川二亮 

『ダモイ遥かに』著者:辺見じゅん、発行者:佐川二亮 

 


 


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