アウトドア・スポーツ

2008/04/08

目覚める肉体 アイロニング河川敷トレーニング

僕は周りから運動神経抜群だと思われがちだが、幼少期の僕はけっして運動が得意なほうではなかった。むしろ運動が苦手だったと言えるだろう。そんな僕がスポーツに目覚めたのは、僕がかなり大人に近づいてからのことだった。いろんなアウトドアスポーツの魅力に気付いた僕は、それこそ長い時間をかけてハードなトレーニングを続け、苦労して現在の肉体的ポテンシャルを手に入れた。それは、いろんなスポーツを高い次元で楽しみたいという、たったひとつの思いの為に他ならない。僕は今も変わらずハードなトレーニングを続けているが、エクストリームアイロニングの日本代表としても、今よりも更に激しく鍛えなければならないと思っている。競技系エクストリームアイロニングという行為においても、やはり世界はそう甘くはないのだ。そして、もし世界大会などがなくても、僕は終生同じ姿勢でこのスポーツに取り組んでいきたいと思っている。それがこのスポーツに対するリスペクトってやつだろう。






















この日、僕はMAXにダッシュしつつアイロン掛けする基礎練習を反復した。これはすべての競技アイロニングに通じる基本中の基本的な行為である。そしていろんなスポーツへの基礎体力作りにも、ダッシュは適している。このダッシュ&アイロン掛けも、実際にやってみると意外なほど難しい。そのスピードにアイロン掛けという行為を合わせるのは至難の業なのだ。そして肉体的にもキツい。本番では、サポートする人がアイロン台の横にひとり付き、選手が駆け抜けるごとにサポートがシャツの位置をずらし、最短7回の「駆け抜け掛け」でシャツ一枚のシワが大抵伸ばせる、という計算である。この日、何度かこれを繰り返しているうちに、僕の肉体もようやく目覚めてきた感覚があった。そして僕はシャツを脱いだ。魂が沸点に達し、本気度がピークに達したからだ。広い河原を駆け抜ける僕の感覚は、ほんの一瞬だけサバンナを駆け抜ける太目のチータになった。























気にしてはいないが、このアイロニング練習を見ながら声高に笑う人がいた。笑いたければジャンジャン笑えばいいが、聞くと、アイロン掛けはやった事がないと言う。そうなのだ。アイロン掛けの経験がなければ、この行為を行う事によって得られる意外な効果や、これの奥に潜むハードなXスポーツ性など一切見えるはずもないのだ。エクストリームアイロニングはまだまだ新しいスポーツである。それプラス、アクロバティックにアイロンを掛ける行為は、どうしても見た目が滑稽に映る。真剣になればなるほど人は笑う。これもエクストリームアイロニングが持つユーモア性といえばそれまでだが、それにしても相変わらず真髄が伝わりづらいスポーツだなあと、この日も、僕は河川敷にて頭を抱えたのであった。

僕はアウトドアにおいてエクストリームアイロニングだけをやっている訳ではないが、このスポーツにも常に本気で情熱を注いできた。そんな僕でさえ、今も時々たまらなくアイロニングが馬鹿馬鹿しく感じることがある。でも、それがエクストリームアイロニングだと僕は思うし、それもこのスポーツの魅力の一部だとも思っている。アイロニストとしての僕の歴史はまだ5年にも満たないが、その間、僕にはこのアイロニングを第一線で身体を張ってやってきたという自負がある。だからこそ悔しい思いも多々あるが、もちろんこれからも、今まで以上に本気でエクストリームアイロニングに励んでいくつもりである。そこにしわがあるかぎり。

この日、僕の肉体は目覚めた。そして僕は心底その感覚を楽しんだ。本気度が高ければ高いほど、その後の充足感も大きくなる。そして常に真剣に、愛と全力を持って真摯に取り組む。これがスポーツに取り組む上での基本理念だと僕は思うし、だからエクストリームアイロニングはスポーツなんだと僕は信じている。これからの季節、波乗り、カヌー、トレイルランニングと、僕は泣きたいほど忙しい日々を送る。そんな時こそ、僕はアイロンを手にフィールドに繰り出し、アイロン掛けによって冷静な自分を取り戻すのだ。時に高いレベルの達成感を得て、時に高いレベルの癒しも得る。そして次は、アイロン掛けによって本物の鉄の平常心を得ようと僕は思っている。

僕は先人エクストリームアイロニストである。時代よ、そろそろ追いついてきてくれ。





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