デジタルメディアだからこそ | 17 Sep 2008 (Wed) |
私がゲームと言うメディアに関わり、もう6年になります。 この仕事について、周囲の人に幾度となく話してはまいりましたが、 家族にも友人知人にも、ゲームと言うメディアがどう言ったものか、知る人はほとんどいません。 それどころか、小さな頃に遊んだ以来、全く興味を持ったことも無いと言う人が大半です。
なぜ、ゲームと言うメディアは一般の人々から敬遠されてしまうのか。 その原因の一つとして、どうも「デジタルだから」「コンピューターと言う手触りの薄いものだから」 と言う点が大きいようです。
私も実際、モニターの前でコントローラーを持って何かをすること、 携帯電話の画面を覗き込んでボタンをポチポチ押すことには、 なんと言いますか、対象との相容れなさ、違和感を覚え、頑なに毛嫌いしていたきらいがあります。 ところが、おかしなことに、私は映画をDVDで味わいますし、音楽をCDで楽しみます。 考えてみればゲームに限らず、映像も音楽も、今ではあらゆるものがデジタル化(メディア化)されて 私達の手元に届くのです。
では、なぜ私達は映像や音楽にアナログ的な皮膚感覚を感じ、 ゲームにのみコンピューター特有の冷たい感覚を覚えるのでしょう。
それは、恐らく映像や音楽の、それらがデジタル化(メディア化)される前の 手で描かれた絵であったり、フィルムにおさめる前の生きた人間の動きであったり、 また、アコースティックな楽器から奏でられるハーモニー、人々の歌声、躍動… そうしたものを私達が良く知っているからに他ならないのではないでしょうか。 また、そうしたものの大切さを知っている創り手が多いために、 映像や音楽はデジタル化されても匂いを失わないのでしょう。
そう考えますと、ゲームが敬遠されている理由もはっきりしてきます。 ゲームがデジタルメディアであること自体が問題なのではなく、大半のゲームソフトにおける、 デジタル化される以前の「アナログの手触りを感じさせない表現」そのものに 問題があることに気がつきます。 また、ゲームは「触れられるメディア」と言う利点を活用できず、追求しても決して超えることのない、 技術を駆使した「バーチャル」「シミュレーション」の方向へと進んでしまっています。 (バーチャルが生身の体験に勝ると感じる人は恐らくいないでしょう。) そしてやはり最大の問題は、ゲームが「勝負」の枠、数字と言うデジタルそのものをいじくりまわす 遊びの枠を超えられないことです。 こうした事柄が、一般の人々に「ゲーム=デジタル」と言う印象を与えているのではないでしょうか。
私達の目指す作品づくりは、プランナーの木邨の言葉を借りれば、「真夏のかくれんぼ」。 子供の頃、あのうだるような暑い夏。鬼に見つからないよう、必死に隠れる場所を選んで 落ちる汗の音にも心臓をドキドキさせながら、じっと息を潜めていたあの感じ…。 そんな生身の人間でしか味わえない感動を、 作品を介して創り手とユーザーが共有し、体験し、ぶつけ合うのです。 ユーザーは単なる受け手ではなく、作品に触り、作品世界に入っていくことができる、 これこそが、新しいメディアとして私達の実感している大きな可能性なのです。
「デジタルは、その目的において、大変便利であった。」ただそれだけのことなのでしょう。 そもそも創られた作品とは、アナログでもデジタルでも、すべからく 創る側と受け取る側の間に横たわる、仲介者でしかないのかもしれません。
そのためにも、私達自身が感動すること、驚くこと、皮膚感覚を持つことを 常に心がけ、決して忘れないようにしたいと思います。
 ↑作品をダウンロードするための「アクセスカード」制作風景。 こんな風に、紙を切って貼って動かしてみて、それをデジタル上に取り込みます。 デジタルメディアだからこそ、アナログを最大限に活用する。どんなデザインになるかしら?
hane編集・浦山佳子
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