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訳注:伝統武芸道場 正気館の 報道資料 から 大邱が発源地…新羅三郎源義光が始祖… (毎日新聞) の新聞記事取りこみ画像に日本語訳を付けました。


大邱が発源地…新羅三郎源義光が始祖 (毎日新聞1991年9月3日)

韓国合気道 起源を探す<上>

学者・元老中心「研究」作業活発

「大韓合気道柔拳術」道場が始まり

郷土の崔龍述氏が脈を繋いで「創始道主」に

日本に伝わって発展…”日本武芸” は誤った認識

 

世界各国で広まり、まさに国内よりも最近米国などの外国でもっと人気を集めている伝統武芸「合気道」についての起源探し運動が徐々に広がっている。

合気道を伝授された外国の合気道家たちが最近、大邱(テグ)を頻繁に訪問するだけでなく、国内の学者や合気道元老などを 中心に韓国合気道の脈を探すための作業が活発になされているとのこと。

合気道家自らが徐々に「雑気道」化されていっていると憂慮している伝統武芸合気道の正しい脈を蘇らそうという努力は、様々な武術スポーツが濫立、乱麻のように絡まっている現時点で、それだけ意義があると指摘されている。

合気道界では、近代韓国合気道の発祥を51年2月12日当時、大邱市場北路(現.大邱達成公園社道)の大邱釀造場2階に大韓合気道柔拳術道場を開いたことを始まりと見ている。

当時解放後、日本で合気道を伝授をされて帰国した崔龍述(チェ・ヨンスル)氏(当時46才)が道主(6段)、ソ・ボクソプ氏(27才)を師範(4段)、ソ・ビョンドン氏(2段)、チャン・スンホ氏(2段)などを中心に20名あまりの修練生が修練をしていた。

崔龍述道主が韓国で合気道を初めて開くようになったのは偶然の機会で成された。

48年2月、解放政局時代、食糧難などで多くの人々が釀造場から出る酒粕を購入しようと長蛇の列を作っている時であった。

この時、酒粕を購入しに来た崔龍述氏が順番関係で隣の人と口論となり、変わった動作を取ったのを釀造場の社長であるソ・ボクソプ氏がじっと見守ることになった。

自由党時代、野党国会議員を経たソ・ドンジン氏の息子である徐氏は、柔道初段で様々な運動をしてきたため勝負を申し込み、釀造場の一部屋で試合を開くことになった。

その後の51年、韓国では初めて合気道の看板を出すことになった。

崔龍述氏(1905年生まれ)は8才の時、隣で飴工場を経営していた日本人を追って日本に渡った。

崔少年は日本人の斡旋で15才の時、大東流合気術総裁である武田惣角の門下に入る。

崔少年は武田の門下から、解放になった45年まで、合気道を修練した後、46年に復帰したとされている。

ところで、日本の早稲田大学のトミキ(富木謙沼)教授は 「合気道は、新羅のサムラン ウォンウイグァン(三郎源義光)をその始祖にして、幕府のミナモト家(源家)に伝えた後、続いてタケダ家(武田家)に残り、7代を過ぎたタケダ・ソウガク(武田惣角)に伝わった」と記録している。

(訳注: 富木教授は合気道韓国起源説を主張しているわけではない。この記者が「新羅三郎源義光」という日本人名の「新羅」と「三郎」の間に勝手に「の」を挿入して「新羅のサムラン(サムランは役職名らしい)」とし、源義光を韓国人名のごとく「ウォンウイグァン」と訳しただけである。また、源義光は新羅明神の前で元服したため「新羅三郎」を名乗っただけで、源義光自身は新羅とは何の関係もない。)

武田惣角の高弟であるウエシバ・モリハサ(植芝盛平)は、独特の日本合気道である合気会合気道の創始者として有名だが、現在の日本合気道の2大道主のウエシバ(植芝吉丸)は彼の息子であり、日本合気道の脈を繋いでいる。

植芝盛平と共に武田惣角に習った崔龍述は韓国合気道の創始道主になり、韓国から伝承された伝統合気道の新しい脈を下ろしたわけだ。

<シン・ドファン記者>