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FMG/M2研究会・研究ノート

m2232  M2総目次


FMG「M2研究会・研究ノート」
第U章 近代現代の文明・社会・経済制度・人間の問題点
Uー(3)「人間」

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U―(3)―A 「古代ユダヤの刻印」
          宇野正美著 日本文芸社刊1997年5月20日


●「プロローグ」よりのノート

1.日本人は聖書といえばキリスト教の教典と思いがちであるが、聖書はキリスト教の教典ではない。
 とくに『旧約聖書』は世界最古のもので、このなかからユダヤ発想、イスラム発想、そして欧米発想が生まれてきた。
 それゆえに聖書的発想が世界に通ずるものなのだ。
 
本書のテーマ「古代ユダヤの刻印」とは、今から約2700年前から数度にわたって日本に古代ユダヤ人たちがやって来ていたということである。
 正倉院といえば奈良時代の御物が納まっている。その中に世界中から集められたそれも西アジアからシルクロードを通ってやって来たものが多くある。そのときもペルシャ人たちとともに古代ユダヤ人たちが日本に来ていた。
 
もしそれが事実ならば聖書的な発想で日本はどのようになるか。聖書の約束の根本、すなわち古代ユダヤ人たちの始祖であるアブラハムへの神の約束は次のごとくである。

2.「その後、主はアブラハムに仰せられた。『あなたは、あなたの生まれた故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすればわたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう…』」 「創世記」12章1節〜3節

 このことは欧米人ならば誰もが知っている有名な言葉である。
 
アブラハムの子孫は必ず祝福される。大いなる試練を通っても必ず復元する。日本の歴史を顧みると、元軍が来襲したこと、幕末維新のあの大混乱期、日露戦争、なにをとってみても日本は完全に復元した。あたかも、この遥か以前の約束が日本の歴史のなかに生きているようである。
 
今から約3500年前のモーセの言葉も『旧約聖書』のなかに書かれている。

3.「たとへ、あなたが天の果てに追いやられていてもあなたの神、主は、そこからあなたを集め、そこからあなたを連れ戻す。あなたの神、主は、あなたの祖先たちが所有していた地にあなたを連れて行き、あなたはそれを所有する。主は、あなたを栄えさせ、あなたの先祖たちよりもその数を多くされる」  「申命記」39章4節、5節
 
たとえ古代ユダヤの子孫が全世界にいたるところに散ったとしても必ず元に戻ってくるという約束である。このことは言葉を返せば古代ユダヤはいついつまでも生きつづけているということになる。

4.かつて日本は多民族国家であった。この日本列島に、様々なところから人々が渡ってきた。そのなかに古代ユダヤの人々が幾たびもやって来たということである。古代ユダヤの血統は今でもほぼ純潔な形である地域に残っている。
 
今から約2600年前のエゼキエルの言葉も『旧約聖書』のなかにある。
 
「彼らに言え。神である主はこう仰せられる。見よ、わたしはイスラエル人を、その行っていた諸国の民の間から連れ出し、彼らを四方から集め、彼らの地に連れて行く」   「エゼキエル書」37章21節

 これを見ればモーセと同じように全世界いたるところに古代ユダヤ人たちが散っていてももとの国、すなわち三大大陸の要であるパレスチナに帰還することが述べられている。
 
今日のイスラエル国家のことを指しているわけではない。将来本当のユダヤ人たちが全世界からパレスチナに帰ってくると言っている。
 
日本に来ている古代ユダヤ人とは、すなわちアブラハムの血統を受け継いだ人々なのだ。

 かくのごとく日本に古代ユダヤ人たちがいる限り日本は復元する。そのことは全世界の多くの人々が聖書的発想によって認めるところなのである。

5.「日本人のうちにユダヤ人の血が流れているとは早くから学者の唱えたところである。かつてある有名なヨーロッパの人類学者が京都の市中を歩きながら行き交う市民のうちに紛れもなき多くのユダヤ人あると見て指さしてこれを案内の日本人に示したとのことである。
 
その地、日本人の習慣の中にユダヤ人のそれに似たるもの多く、また神道とユダヤ教との間に多くの著しき類似点ありという。
 
今日アメリカの日本人排斥に対して、その国一派のキリスト信者が「日本人イスラエル説」を唱えて大いに日本人のために弁じていたことを私たちは知る。日本人の敬神にユダヤ人的の熱誠あるは、人のよく知るところである」  「内村鑑三著作全集」24、教文館

 このことを内村鑑三は「日本の天職」という論文のなかで書いた。日本および日本人には天職があるという。もしそうだとするならそれを経済的に終わらせず、もっと時間と空間を超えた世界的影響力を持つものにすべきであろう。


●「古代ユダヤからの渡来人・秦氏の謎」よりのノート

1.能の完成者・世阿弥は古代ユダヤの直系・秦氏の出身
 
世阿弥は秦氏の出身である。秦氏は古代ユダヤの直系で、シルクロードを東に進み、中国を通って日本にやってきた。
 
世阿弥のもう一つの顔は、情報収集を任務とする忍びの者。
 「観世系図」のなかで、観阿弥(世阿弥の父)のことが次のように記載されている。「…母河内国王櫛庄橘入道正遠女…」すなわち世阿弥の母は河内の国王櫛庄の生まれで、しかも橘入道正遠の娘に当たるという。橘入道正遠とは楠木正遠(後醍醐天皇を助けて奪戦した南朝軍の指導者楠木正成の父)である。
 
観阿弥の父親は伊賀・服部家(服部半蔵で有名)出身である。
 
能楽者たちは能を演ずることによって、いわば全国どこでも動き回ることができた。それは同時に情報活動としては最適であった。
 
観阿弥・世阿弥親子は能楽者として能を演じつつも、忍びの者として情報収集を行っていたのではないか。

 この伊賀を江戸時代になって統治するのが藤堂高虎である。彼もまた秦氏である。そして藤堂高虎のもとに集まった忍びの者もまた秦氏だった。
 
北朝を守護する足利将軍のもとに忍び込んでいた世阿弥たちは、その素性が明らかになり窮地に陥り、そして佐渡島に流されたのではないか。

2.明智光秀に攻略された丹波・八上城主波多野氏も秦氏の直系。
 
丹波・篠山城が築かれる以前、丹波国は波多野氏によって支配されていた。「丹波富士」といわれる美しい山、これが高城山で、この高城山に築かれていたのが八上城であり、その城主は波多野秀治であった。秦氏はもと「波多」といったときがあった。おそらく八上城主波多野氏もまた秦氏の直系であったのであろう。
 
八上城そしてかつての丹波国を支配した波多野一族が崩壊した(織田信長が明智光秀に八上山攻略を命じた。1579年落城)ので家臣たちは散りじりバラバラになり、ある者は身を隠し、その名字を隠した。そして江戸時代長きにわたって息を潜めて生きつづけた。明治時代になり名字を名乗ることが許され、彼らの多くは再び「波多野」を名乗るようになった。

3.家紋が示唆する薩摩藩主島津家と波多野氏の同族関係。
 
波多野家の家紋は丸に十の字である。丸に十の字といえば薩摩藩主島津家の家紋である。なぜ丹波の古くからつづく農家に薩摩藩主島津家と同じ家紋がつけられているのか。波多野家は秦氏の流れである一方、島津家もまた秦氏なのである。秦氏は波多野となり、かたや秦氏を全然イメージしない島津ともなっていたのである。

 *「機織=秦氏」ゆかりの綾部市に本社を置く「グンゼ」の企業精神。

 丹波の北、その北に隣接する丹後との境に綾部市がある。その綾部市に今日では世界企業となったグンゼ株式会社の本社がある。このグンゼの創設者も波多野氏で波多野鶴吉といった。彼は羽室家から養子に来た。しかし両家は親族であった。

 *今日の日本は、このグンゼ株式会社から多くを学ぶことができる。バブル経済が崩壊し、かつて経済大国といわれた日本もいまや世界一の(国民一人当たり)財政赤字国家に落ち込んでしまった。

4.これから日本はどうすればよいのか。とくに日本の各企業はどのように生きればよいのか…それらの知恵をグンゼ鰍ヘ提供してくれるように思える。
 世界的企業になっていながら、いわば京都府の片田舎に、なぜグンゼは本社を置きつづけるのか。グンゼはアパレル部門、繊維素材、商社、物流、機能資材、メカトロニクス、そして環境、健康メディカルの分野にも広がっている。それゆえに海外にも多くの支店、提携企業を持っている。
 なぜ今も京都の片田舎に本社を置くことにこだわるのか。そのことを解く鍵のひとつが「グンゼ」という社名のなかに秘められている。

 *グンゼはもとは「郡是」といった。
 創業者波多野鶴吉はどのようにして事業を興そうかと考えていた。綾部は裏日本に属する。したがって明治後期、ほとんどの農家は春から夏にかけてコメを植え、秋から冬にかけて養蚕を行っていた。しかも各農家は自分たちがつくった生糸をバラバラに販売していた。買い付け業者は買いたたき、それゆえ農家は粗悪な物しかつくろうとはしなかった。

 波多野鶴吉はそれに思いをはせ、全ての農家が幸せになることはできないだろうかと思案した。そのようなとき、農務省次官であった前田正名が地方産業振興のためとして全国遊説を行ない、綾部にやってきた。そして次のように述べた。

 「国家の急務は国是、県是、郡是、村是を定めることである」。

 国、県、郡、村が繁栄するためには急ぎ方針を決めて実行しなければならない事業があり、郡にあっては今なすべき重要なこと、それが「郡是」であると述べた前田の所信は、そのまま、波多野が温めてきた願望でもあった。
 何鹿郡(今の綾部市)の発展のために製糸業を興し、これを中心に据えてすべての農家に養蚕を奨励する、それこそ何鹿郡(今の綾部市)の急務とする事業「郡是」であると考えた。
 波多野はこれをそのまま社名とした。こうしてグンゼ株式会社が興され発展していくなか、何鹿郡以外の会社とその地元から蚕業振興のため工場進出を引き受けてほしいという要請があった。
 何鹿郡の「郡是」を標榜する波多野は「何を目的として引き受けたらよいのか目的がなければ引き受けることは難しい」と悩んだ。
 しかし彼は数日考えたのち「広く蚕業を愛する」と決心し何鹿郡以外の養蚕家からもよい繭をつくって利益を得、ともに喜ぶようにしたいと考えた。この決心をしてから直ちに工場増設へと向かっていった。
 しかし波多野はいかなることが起きようと初めの志、すなわち「郡是」を離れることはなかった。
 それから約90年の間、グンゼ鰍ヘその原則を守りつづけている。

5.至誠の精神で事業を経営する――創業者の経営原則。
 
マスコミはバブルで人々を煽り、企業を煽りつづけた。そしてそれに集った人々がいま悲しい運命、苦しい仕打ちを受けている。
 原則を忘れた結果は恐ろしいしっぺ返しを受けることになる。
 
波多野鶴吉の原則は正しかった。それゆえに今日ではグンゼ鰍ヘそれを受け継いでいる。
 
今日の私たちにとってこのことは非常に大切な教訓ではないか。
 
時代というものは波のようにあるときは上がり、あるときは下がる。しかし今も(?)ではバブルがそうであったように人為的に波の上がり下がりがつくられていくのである。
 それゆえに自らの原則から離れては危険な罠にはめられる。

6. 波多野鶴吉の言より。

 「製糸家は如何なる精神をもって事業を経営すべきかといえば、先に述べたるごとく、これを至誠をもって精神とするよりほかないのである。また製糸家はもとより事業の主であって奴隷ではないということをよく承知しておかねばならぬ。しかして至誠の精神をもって事業を経営するならば、自ずから事理が明白となって経営が意の如く運ぶのであるが、もう少しでも至誠の精神が欠けるようなことになると、常に事業の主たるべきものが自然に奴隷となるため、事理が暗くなって経営が意の如く運ばず、遂に思わざるの失敗を免れぬのである。

 今日吾が国の多数の製糸家がしきりに経営難を訴えるに至り、けだし事業に熱心の余り知らず知らず精神が事業の奴隷になりて至誠の光明を失うたからであると思う。しかれば如何にすれば奴隷の境遇を離れて事業の主になることができるかといえば、精神を製糸以上に超脱することが肝要である。もちろん製糸家としては製糸の利益を重んずべきは当然であるが、それと同時に職工の幸福、養蚕家の利益、資本家の安全、機業家の利便等を尊重しなければならぬ。それらの各自の幸福、利益等を尊重するが故にまた製糸家自身の利益をも尊重せらるることができるのである。

 しかして精神を製糸以外に超脱せしめんとするには、小なる製糸の我を捨てて大なる蚕糸業の我に一致し、さらに進んで小なる自我を離れて大なる至誠我に入らんことを目的として怠らず修養を励むのである」

7.波多野鶴吉が掲げた「百年不変不動の原則」。
 
さらに波多野鶴吉は大正3年に「百年不変不動の原則」を従業員たちに掲げている。

 (1)生産の組織方法を改善し、生産費を節減し、売価を低価ならしめ、販売の拡張をはかること。
 (2)智識の開発と技術の進歩とをうながし、品質の改良をはかること。
 (3)生産並びに販売上の弊害を調査し、これが矯正をはかること。
 (4)当事者の一致協同をうながし、共同の利益獲得をはかること。
 (5)当事者の精神を喚起し、自省の感念と進取の元気とを養わしむること。

心の持ち方についても述べている。

 「人に、何となく善い人と、何となく悪い人があるように、糸にも、何となく善い糸と、何となく悪い糸とあるが、どこが善いか悪いかととり立てて言うところはなくとも、何となく善い、何となく悪いというのは、全くその糸をつくる人々の心の持ち方の関係である。ここが教育の大切なところ、修養の大切なところである。

 心が清ければ、光沢の多い糸ができる。心が直ければ繊度の揃うた糸ができる。自ら省みて恥ずるところがなければ、力の強い糸ができる。善い人が良い糸をつくり、信用される人が信用される糸をつくる。世間の製糸家がこの消息をよくわかるようになってほしいと思う」

 彼はそのことで『新約聖書』の言葉を引用している。

 「善い木は善い実を結び、悪しき木は悪しき実を結ぶ。善い木は悪しき実を結ばず、悪しき木は善い実を結ぶことはできない」  (「マタイ伝」7章17節、18節)

 すなわち善い人は善い糸をつくり悪しき人は悪しき糸をつくる。善い人は悪しき糸、悪しき繭をつくらず。悪しき人は善き糸、善き繭をつくることはできないという意味である

8.秦氏の発祥は中近東、イエスを信じたユダヤ人=景教徒。
 
そして創業時から今日まで変わらない「三つのしつけ」を実行している。

 (1)あいさつすること
 (2)はきものをそろえること
 (3)そうじをすること

誰でもできること、非常に簡単なことである。

グンゼ鰍ヘこれを実行しつづけてきた。

 時代がどう変わろうと、経済がどう変わろうと、創業者の原則を守りつづけてきたのだ。
 かくのごとく秦氏の系譜は日本の政治、経済、軍事、歴史のなかを、とうとうと流れている。

9.彼らは日本が危機に瀕したときに必ずといっていいほど再登場する。一般にはこの秦氏のことは中国、朝鮮半島からの渡来人といわれている。しかし彼らの出発点は中近東である。彼らは中近東を出発し、シルクロードを通って中国、朝鮮半島を経由し、日本に到達した。しかも単なる古代ユダヤ人の流れではない。彼らはイエスを信じたユダヤ人、すなわち景教徒の流れなのである。(2005.06.24)


●「景教徒の技術集団・秦氏の真実」よりのノート

1.「秦氏は景教徒」を証明する太秦の神社の三柱鳥居。
 秦氏が政治的色彩を帯びているのは、何と言っても秦河勝が登場したとき。秦河勝は聖徳太子と非常にじっこんであった。秦氏の活躍の場は京都盆地の西側・太秦の地である。今日でも太秦には広隆寺がある。元々の広隆寺は北野天満宮の近くにあり、二度も火災にあって今日の地に移されたといわれている。毎年この広隆寺で京都三大奇祭のひとつとされる「牛祭り」がある。牛祭りで唱えられる祝詞はまったく日本語ではないように思える。いくら神経を集中させても意味がわからない。同じ太秦に木島坐天照御魂(このしまにいますあまてるみたま)神社があり、その一角に蚕の社がある。さらに三柱鳥居がある。これは日本では希なもの。いったい何を物語るのか。<写真参照> この三柱鳥居こそ秦氏がキリスト教徒ユダヤ人たちすなわち景教徒であることを証明している。普通鳥居といえば二本の柱である。しかし三柱鳥居は真上から見ると正三角形である。この三柱鳥居は何を意味するのか。正三角形であるがゆえにどこから礼拝しても同じ方向すなわち中心に向かう。ユダヤ人にしてキリスト教徒であった景教の人々はかねてから三位一体を信じない異端であるとされてきた。

2.景教徒が三位一体を信じていたことを実証する三柱鳥居
 イエスの弟子たちはイエスの磔刑と復活ののち、ローマ帝国地域へ広がっていった。中東から西へ、すなわちヨーロッパへと広がっていった。その本体とは別にイエスの弟子にして東へ移動していった者もあった。彼らはシリアに至り、さらにイランからシルクロードを通って中国に向かった。そのなかから西に行った弟子すなわち今日ヨーロッパ・キリスト教文明の基礎を築いた人たちから、東へ行った人々、景教徒たちは「異端」とされた。景教の人々は三位一体を信じていないといわれた。三位一体とは父なる神、子なる神、聖霊、を指す。天地創造主である神、救世主なる神、そして救世主の復活ののちその代わりとして世界を治める聖霊、これが一体であるというのである。父なる神、子なる神、聖霊、これが一つであるという信仰である。このことは「新約聖書」のなかで繰り返し述べられている。景教徒はシルクロードを経由して中国に至った。

3.やがて彼らの景教は中国の唐の時代にいたって認められるようになった。今日彼らが唐の時代にその信仰を彫り刻んだ石碑が中国・陜西省の土中から掘り起こされている。「大秦景教流行中国碑」がそれである。日本の太秦にある三柱鳥居は三方のどこから祈ろうともすべては一点につながる。すなわち三位一体の信仰を形によって表わしている。このことは聖書的発想によらなければ解くことができない。日本が世界に誇ることのできるすばらしい遺跡なのである。

  

4.太秦の蚕の社にある池はバプテスマ(浸礼)のための池
 三柱鳥居の周りには池がある。この池は「元糺の池」と呼ばれ、三段にわかれ上段・中段・下段の神池となっている。今日でも三柱鳥居の下から泉がわいている。かつてはもっと清らかな水があふれていたという。したがってその周りは広い人工的な池であった。この池をよく見ると、どこかで見たことのある池を思い出させる。イスラエルのそれもエルサレムのシロアムの池に似ている。イエスが盲人の目を開けたというあの奇跡のあった人工池のシロアムである。
 再び何のためにこの三柱鳥居と池は使われたのか。その答は「新約聖書」の「マタイ伝」28章に見い出すことができる。
 「わたしは天においても地においてもいっさいの権威が与えられている。それゆえあなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子とせよ。そして父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように教えよ。見よ。わたしは世の終わりまでいつもあなたがたとともにいる」
 ここに出てくる「バプテスマ」とは「浸礼」である。私たちはよく映画などで生まれて数日たった赤ん坊の頭に水がかけられるのを見る。あれは洗礼であって浸礼ではない。バプテスマ(浸礼)とは身体全体を水の中に浸してそれから引き上げる。そのためには身体全体が浸るような池、しかも清らかな池が必要なのである。
 イエスの言葉「父、子、聖霊の御名によって」とある。これが三位一体である。すなわち三位一体とバプテスマが非常に関係があることがわかる。三柱鳥居は三位一体を表わし、そしてそのところで「父、子、聖霊の名によってバプテスマを施す」と唱えて、すぐその下、清らかな泉の池で人々にバプテスマを授けたのだ。

5.鴨川の流れを変え、保津川治水に成功した秦氏の優秀な土木技術
 太秦はかつて元糺すの森のなかにあるといわれたほど森そのものであった。太秦を聖書的発想で見るとすべてが解ける。しかし日本の多くの学者、それも秦氏を研究する学者のなかでそれを認めない人々がいる。彼らはすべて日本的発想で秦氏のことを解こうとしているからだ。
 秦氏たちは京都・太秦の地に根拠地を置いて何をしようとしていたのか。
 京都の町の東側を流れている川は鴨川である。この鴨川も今のような形で流れていたのではない。
 鴨川の北で二つの川が合流する。一方は高野川、もう一方は賀茂川である。そして二つが合わさって鴨川となる。
 本来ならば二つの川は合流してそのまま今日の京都盆地の真んなかを横切って南に流れていた。(図参照) ということは京都盆地全体が湿地帯であり、あるところは自然の池をつくっていたことが想像できる。とても都をつくれる状態ではなかった。
 この京都盆地の大改造すなわち鴨川を今日のように東のほうに付け替えた人々が秦氏である。
 さらに秦氏は大堰川(おおいがわ)の大改修を行なった。京都・太秦に流れている保津川(桂川)のことである。彼らは5世紀代にこの大堰を築き保津川治水に成功した。それまで保津川は台風や梅雨のシーズンごとに洪水を起こし流路定まらない暴れ川だった。秦一族はこの暴れ川を治めて葛野を京都盆地有数の肥沃な地にした。このように秦氏たちは優秀な土木技術を持っていた。

       ■図の出典 井上満郎著「研究史・平安京」」 吉川弘文館刊 昭和53年8月1日
                上:塚本常雄「京都市地質図」  下:吉田敬市「京都市地質図」




6.秦氏一族は平安京に故郷の聖地エルサレムをつくった
 京都はかつてから平安京と呼ばれている。桓武天皇がここに都を移す前から秦氏たちはこれを「平安京」と呼んでいた。
 平安京とは古代ユダヤ語すなわちヘブライ語によれば「エル・シャライム」すなわち「エルサレム」という意味である。
 秦氏たちは自分たちの故郷イスラエルのエルサレムと同じものを京都盆地につくっていた。
 又、京都の八坂神社、日本人は今「八坂」と書くが、これも古代ユダヤ語(ヘブライ語)によれば「ヤ(YA)−サカ」であって神のことを意味している。
 京都盆地の一角、今日の八坂神社の所が大いなる礼拝所として定められていたのではないか。
 あるとき四国の山中で「磐境」を見たことがあった。周りは石で囲まれ祭司だけはそのなかで祈った。日本広しといえども四国山中でしか見い出すことのできない古代の礼拝所なのだ。しかも中近東の礼拝所と似ている。いつつくられたか今日でも明らかにはされていない。
 ちなみにそれが一か所だけでなく、四国山中に数多く発見されている。この「磐境」も「イヤサカ」であり「ヤーサカ」なのである。


私たちは大自然のなかにいて非常に気持ちが清々しくなったとき、遥かに見える山に向かって「ヤッホー」と叫ぶ。これもおそらく「イヤー・ホー」であり、神への祈りの言葉である。
 「旧約聖書『詩篇』」には次の有名な祈りの言葉がある。
 「私は山に向かって目を上げる。我が助けはどこから来るのだろうか。我が助けは天と地とを創造された神から来る」(『詩篇』121篇)
 飛鳥時代、奈良時代を通じて景教徒秦氏たちのほかにも、多くの外国人が日本に渡来してきていた。彼らはほとんどの場合、シルクロードを利用した。正倉院自体がシルクロードの東の終点であった。それゆえに正倉院御物のあるものは中近東から、また、インドからもたらされた。その当時のシルクロードはユダヤ人たちによって運営されていた。彼らは各駅で為替業務などを行い、商業と物流に携わっていた。
 紀元70年、ローマ帝国が彼らの祖国を破壊したとき、多くのユダヤ人たちは西に向かったが、東に向かったユダヤ人もいた。彼らはその商業的才能を生かしてシルクロードでその利権を獲得していった。そのようななかを景教徒ユダヤ人たちが東へ向かっていったと考えても不思議ではない。

7.環状列石は十部族を日本に導いて来た騎馬民族スキタイの遺跡
 日本にやって来たとされるユダヤ人たちは100パーセント本当のユダヤ人すなわちアブラハム、イサク、ヤコブの血を受けた人々である。
 イスラエルという国は今も昔もアジアに存在する国である。
 縄文時代の日本は多民族国家であった。ある者は北から、ある者は中国大陸、ある者は東南アジアやポリネシアからやって来た。そのなかの一部に古代ユダヤ人も渡来し、日本に定着した。
 かの有名なダビデがイスラエルに統一王国をつくったのが今から約3000年前、BC1000年頃、ダビデの子がソロモン、ソロモンの子がレハブアムである。レハブアムのときにイスラエル統一王国は分裂した。イスラエル民族は12部族、北王朝が「イスラエル」という国名を名乗り10部族、南王朝が「ユダ」という国名を名乗り2部族となった。さらに紀元前722年、アッシリアが北王朝10部族を滅ぼした。このアッシリア帝国も騎馬民族スキタイによって滅ぼされる。スキタイはユーラシア大陸を東から西にわたって支配していた。彼らの文明として残っているのは多くの墓であり、その環状列石であり黄金文明である。
 スキタイはこの十部族を日本の東北地方に導いて来た。なぜならば私たちはその地域でスキタイの遺物のひとつである環状列石を多く見つけることができるし、東北地方の人々は馬とともに長きにわたって生活してきた。源義経があのような連戦連勝を遂げたのか。源義経の戦法の根本は速攻であった。源義経は教徒から脱出して東北で育てられ、東北の騎馬軍団兵法を学んでいた。

8.御輿は四国・剣山に埋蔵された「契約の箱」の模型?
 アッシリア帝国が北王朝十部族を滅ぼした時(紀元前720年頃)、南王朝もただならぬ騒ぎに揺れていた。南王朝ユダの首都はエルサレムで、エルサレムには神殿があった。その神殿の中心に据えられていたのが「契約の箱」である。
 南王朝ユダの王はヒゼキヤ、それを補佐していたのがイザヤであった。イザヤは旧約聖書を崇め、自らも神からの啓示を受け、非常に信仰深い人物であった。そこでイザヤおよびその信奉者たちが「契約の箱」をアッシリア帝国に奪われることを恐れて、「契約の箱」を守るためにこれとともにエルサレムを脱出した。
 実際に南王朝を滅ぼしたのはアッシリア帝国ではなくバビロン帝国であった。バビロン王ネブカデネザルの手によって神殿も破壊された。「旧約聖書」のなかにはこのネブカデネザルがどのようなものを南王朝ユダからバビロンに運んだのか、そのリストが載せられている。
 そのリストのトップは当然ユダヤの至宝「契約の箱」であるべきだが、そのリストには「契約の箱」のことが載っていない。ということはアッシリア帝国とバビロン帝国の侵略の間で誰かがどこかに移したということになる。一般にはエチオピアにいったのではないかという噂がある。それは単なる言い伝えである。
 日本各地の「御輿」、世界広しといえども「契約の箱」とほぼ同じ大きさで「契約の箱」のように担ぐご神体とされるのは「御輿」以外にはない。さらに日本で「御輿」を担ぐときにかける言葉はすべて古代ユダヤの言葉であるという。
 イザヤおよび信奉者の一行はかつてのシュメール人たちが開いた海路を使い、まず東南アジアに行き、のち黒潮にのって日本に到達し、四国の剣山に「契約の箱」を埋蔵したのではないか。このとき多くの古代ユダヤ人たちが渡来した。イザヤおよしその妻、さらにヒゼキヤ王の王子のひとり、そしてイザヤの信奉者たち、その他の人たち、そして景教徒ユダヤ人たち、すなわち秦氏の先祖たち、彼らの先陣は紀元400年頃日本に到着した。
 そして彼らの血統は不思議な方法で今日に至るまで守られている。

9.「日本に古代ユダヤの子孫がいる」という発想で歴史を見直そう
 「旧約聖書」では多くの預言者が必ず古代ユダヤ人の子孫たちが復活する時があると記録している。世界的大戦争、世界的大試練の果てに…と。
 日本の歴史は不思議に満ちていた。しかもこの視点に立てば今までの日本の歴史の不思議を解くことができる。
 たとえば蒙古軍が日本にやってきた。しかし蒙古軍は日本で勝利をつかむことができなかった。彼らはヨーロッパ全域まで攻め上ることができても、日本を征服することはできなかった。かれらは二度にわたる台風によって海の藻屑と化せられた。このようにして日本のなかの血は守られた。
 さらに幕末の頃、すべてのアジア諸国は欧米の植民地になったが、日本だけが免れることができた。
 次の大試練が日露戦争であった。しかし日本は勝利した。もしこのとき日本が敗北していれば日本歴史そのものが大きく変わり、ロシアばかりか他の民族の血が日本に流れ込んだかもしれない。
 第二次世界大戦後、アメリカを中心とした連合国が日本を占領した。しかしこの占領は大規模に日本民族の血を変えることはなかった。
 これから日本に何が起きるか。大激動の世界情勢は日本にどのような影響を与えるか。
 しかしそれも「日本に古代ユダヤの子孫がいる」という発想に立てば、興味津々たるものになる。

10.受難に耐え抜いた秦氏の末流・長宗我部氏の遺臣と「一領具足」
 桓武天皇を中心とした権力者が平安の地を取り上げた。秦氏の一部はそのまま権力にくみする者もいたが、多くの者たちは全国に散らされていった。
 ある者は秦氏という名字をそのまま使い、ある者はその名字を隠すようになった。
 ただ不思議なことは、日本が危機に陥ったとき秦氏の地を受け継ぐ者が歴史の局面に現れ、そして時代を変えてゆくのである。
 1例 戦国時代、四国全域を支配した長宗我部一族、この長宗我部氏は秦氏であった。多くの家臣団がいたが、同時に「一領具足」(屯田兵のようなもの)としてすべての農民たちをもその支配下に入れていた。しかし、関ケ原の戦いで西側について敗北、長宗我部氏亡きあと土佐国に入ったのが山内一豊であった。山内氏は長宗我部の遺臣たち、さらに一領具足たちを徹底的に弾圧、残酷な方法で殺戮していった。江戸時代を通じて250年間、山内氏は強圧的に土佐国を治め、長宗我部氏の残滓を恐れた。また、山内氏と一緒にやって来た、家臣団は上士、長宗我部氏の遺臣たちは下士に落とされた。
 一領具足の生き残りの子孫たちもとり立てられることがあったが、それには条件がついていた。新田開発に従事させるということだった。
 長宗我部氏の遺臣たち、そして一領具足たちは、250年間その血の叫びをかかえつつ生き続けた。それが爆発するときがきた。その始まりが天保庄屋同盟である。

11.秦氏の血の力が幕末、坂本龍馬・中岡慎太郎たちを沸騰させた
 1841年に庄屋たちが秘密同盟を結んだ。
 「総主はかしこくも天皇尊、御代官は将軍、御与頭は諸大名是を烹鮮(ほうせん)の職と言い、小頭は庄屋にて土地人物之総宰を預り申候、これを物に譬えていわば大名は庄屋の丸薬なり。庄屋は大名の散薬なり」
 庄屋は大名に属するのではなく天皇に属する職であると宣言したのだ。明確に藩主山内氏に対する反抗の密約であった。
 「秦朝臣御在国の節は村柄之甲乙を以って…」
 彼らは明確に長宗我部が秦氏であることを知っていた。そしてその同じ条のなかには「庄屋とは…幡多(ハタ)郡の方言には御屋形と相唱申事」とある。彼らは自分たち、そして長宗我部たちが何であるかを知っていた。
 この庄屋同盟をバネにして1861年、土佐勤王党が結成された。指導者は武市半平太。

12.幕末日本の危機を救った秦氏=薩摩・島津氏とその家臣
 鹿児島の島津氏もまた秦氏である。長宗我部氏が西軍についたように島津氏も西軍に付いた。戦いにおいて西軍が破れたとわかったとき、島津勢は上りになる西へは逃げず逆方向下りになる東へ逃げた。彼らは伊勢路から西へ鈴鹿山脈を越えて間道を抜け、大阪で人質になっていた夫人を救出し、堺から船で帰国した。このとき島津氏の軍勢は80人余りに減っていた。島津氏は血を吐くような苦しみのなか秦氏の血を残した。
 それから400年、島津氏は日本の危機の時に立ち上がった。
 幕末維新の時である。もし、この時島津藩主を中心とする薩摩藩が立ち上がっていなかったならば、その配下の西郷隆盛、大久保利通…などが日本歴史に名を残していなかったならば、間違いなく日本は欧米列強の植民地に組み込まれていた。彼ら秦氏の流れが日本危機のために登場したのだ。
 つづいて日清・日露の戦いが起きる。この戦いを指揮したのも元薩摩藩士であった者だった。
 日本が敗北していたならばロシアの植民地にされていたことは間違いない。さらに加えて次に述べるユダヤ最高法院・サンヘドリンの意向を受けたヤコブ・シフから、日本はこの戦争のために大量の借金をしていた。過去多くの国は戦いに勝利しても、さらなる出費のために外債を払えなくてサンヘドリンの奴隷となっていた。しかし日本は「借りたものは返さなければならない」という先祖からの教えに従って膨大なユダヤからの借金を返済し続けて完済をし、一人立ちすることができた。そればかりか、日露戦争の勝利によりアジア・アフリカの多くの指導者に、のちの独立の目覚めを与えることができたのである。日本は不思議の国である。


●「地下政府サンヘドリンの野望と陰謀」よりのノート

1.世界を動かすユダヤ最高法院の秘密

 @「世界政府」実現を目指して激論が闘わされたダボス会議
  今日、世界政府のひな型ともいえるダボス会議、その創設者はクラウス・シュバーブ…彼はスイスのジュネーブ大学教授である。そしてユダヤ人。第1回は1971年2月初旬に開かれた。なぜこのとき、ダボス会議創設が行なわれたのか。この第1回会議が開かれてのち、数ヵ月経って世界は大変革の時を迎える。1971年8月15日、「ニクソン・ショック」が全世界を覆った。アメリカ政府はドルと金の兌換を停止すると発表。ドルは全世界を覆い、戦争が繰り返されればされるほど、全世界に水浸し状態で流れていった。

 Aデリバティブ取引が破綻すれば世界は大恐慌に突入する
  ブレトンウッズ体制といえば、第2次世界大戦終結の直前、戦後の世界の経済的基準を定めたもので、多くの経済人は数年先の事業計画を安心して立てることができた。しかし、ニクソン・ショック後は完全にその基準がなくなってしまった。円、ドル、マルク、フラン、ポンド…は毎日のように乱高下した。今日、金融取引の最先端は「デリバティブ取引」といわれている。それは先物、スワップ、オプションをミックスし、それぞれをコンピュータで処理するものである。デリバティブ取引は、もうすでに1,000種類を突破している。あまりにも高度なコンピュータ処理ゆえに、誰も自分の頭で理解することができなくなっている。すでに金融システムは、コントロール不能な状態になっているといっても過言ではない。

 Bロスチャイルド家がつながる世界最高権力=クラブ・オブ・アイルズ
  ロスチャイルド家といえば、ロイター通信をその掌中に収めている。このロイター通信から、AP、UPIがアメリカに渡り、さらにフランスのパリへAFPが渡っていった。すべての通信の母体はロイター通信といっても過言ではない。そして今日、ロイター通信は世界政治、経済のゆくえを握っている。先に述べたデリバティブ取引のすべては情報によって運営されている。ロイター通信からの情報によって支えられている。ユダヤ財閥・ロスチャイルド家は、2つの世界最高権力につながっている。1つはクラブ・オブ・アイルズ(CLUB OF THE ISLES)、もう1つはユダヤ最高法院サンヘドリンである。前者はヨーロッパの王家グループである。王家の最高権威は貴族制度の「公侯伯子男」のうちの「公」であり、「公」はさらに「君主、大公、公」に分かれ、彼らは他の階級と結婚することなく、常に自らの範囲で結婚を繰り返してきた。西はイギリス(エリザベス)王家、東は旧ロシア(ロマノフ)王家…彼らは今日でも「いとこ同士」と呼び合っている。

 C金融泥棒たちが支援するユダヤ最高法院サンヘドリン
  ユダヤ最高法院サンヘドリンとは、ユダヤ人にしてユダヤ社会の真実を暴露しつづけた弁護士のヘンリー・H・クラインによると、『サンヘドリンとはすべてのユダヤ人の行動を指揮し統制していると自称し、自らを聖別するユダヤ人の団体である…。サンヘドリンとはシオンの長老グループともいわれている。一般のユダヤ人たちは彼らそのものを目にすることもできないし、彼らの戦略のすべてを教えられることもない。サンヘドリンの計画は、世界の金融泥棒たちによって支援されている。ロスチャイルド家は当初からその背後にいた。彼らはデオドール・ヘルツェル(シオニズムの創始者)をも支援した。ロックフェラー家とすべての国々のその他の大金持ちたちがその後ろについていった。サンヘドリンは自らの目的を達成するためにユダヤ人と非ユダヤ人を利用する。公的及び政治的生活における、いわゆる指導的なユダヤ人のほとんどは彼らの代理人である。また、指導的キリスト教徒の多くも、彼らの道具である。多くの裁判官と法律家たちも彼らに仕えている。サンヘドリンはアメリカにおけるすべての情報源をコントロールしている。彼らは、新聞、雑誌、映画、ラジオをコントロールしている。さらに銀行、出版社、政治家、公務員、裁判官たち…をコントロールしている。』

 Dペルー人質事件の本質は南アメリカの歴史のなかにある
  ペルー人質事件は1996年12月17日に起きた。MRTA(トゥパク・アマル革命運動)が犯人であることは間違いない。彼らとても、ただ将棋の駒に過ぎない。彼らを使うものがいた。その事件の演出者はいったい誰だったのか。そこで、南米を理解するためには、アメリカ大陸の発見者とされるコロンブスの時代まで遡らなければならない。「1492年、アメリカ大陸発見」といわれるが、よく考えてみれば不思議である。コロンブスがアメリカ大陸を発見する以前、遥か前よりすでに先住民が生活していた。となればアメリカ大陸の本当の発見者は先住民の先祖ということになる。それなのに、なぜ「コロンブス、1492年、アメリカ大陸発見」というのか。これは、すべてヨーロッパを中心にした歴史観に基づいているということである。

 E南アメリカの歴史は原住民殺害の血塗られた歴史
  しかし、なぜ日本人たちまでもが同じ言葉を使う必要があるのか。この論理でいけば、ヨーロッパ人たちの範疇に日本が入ったのは、1543年(天文12年)日本発見となるのである。(日本では「種子島に鉄砲が伝来した年」としている)しかし、こうなれば、多くの日本人は異議を唱えるであろう。ねぜ、戦国のこの時代に日本発見なのか。日本歴史はそれ以前から続いてきたし、豊かな文化・文明があった…と。すべてが同じことなのである。ヨーロッパ人は世界支配に向って出発していった。そして南北アメリカをその掌中に収めていった。ヨーロッパ人にとって南北アメリカとは、ほかならぬ自らの出張所ということになるのである。その結果、1492年以来どれほど多くのヨーロッパ人が、南北アメリカの原住民たちを殺害していったか、その歴史は原住民の血で塗られていったのである。

 Fペルー人質事件の背後にはサンヘドリンがいる
  それから500年、メキシコを含めた南アメリカは各国の政治家、経済人…などは、ほぼすべてといっていいほど白人、ヨーロッパ人の子孫が占めている。完全に南アメリカは、ヨーロッパ人の出張所なのである。このペルーに日本人が移住したのは、わずか80年前に過ぎない。すなわち白人たちが完全に基礎を築いているところに、日本人がやってきた。日本人たちが3Kの仕事をしている時は、不快感を覚えることはなかった。しかし1990年に日系のフジモリ氏が大統領に就任した。そのフジモリ氏を支えたのは貧しい人々、ペルーの原住民たちの子孫が彼を支えて大統領に当選させた。ペルーの白人たちは、このときからフジモリ大統領の政治に不快感を持った。フジモリ大統領は外国人である。したがって、その国には自らの歴史があり、当然エスタブリッシュメントが存在しているのである。

 G極秘指令「改宗せよ、ただし心はユダヤ教を守れ!」
  1492年という年代、このとき、スペインで何が起きていたか。それまで、スペインの大半はイスラム教徒たちによって支配されていた。このときカトリック教徒のイサベル女王とフェルナンド国王が主権を回復した。王はスペイン人によるスペイン人のための政治を掲げ、国家全体がカトリックであることを望んだ。そこで窮地に立たされたのが、ヨーロッパ最大のユダヤ・コミュニティーをつくっていたユダヤ人だった。

 H改宗ユダヤ人「マラノ」は300年間きびしい監視を受けた
  カトリックに改宗したユダヤ人は「マラノ」と呼ばれた。以後300年間、その改宗が真実であるかどうかの監視を受けつづけた。このようなことから、マラノ(改宗ユダヤ人・スペイン語で豚の意)たちはスペインで生活することが非常に苦しくなり、スペインを後にして南アメリカに流れていった。ほとんどのユダヤ人は北アフリカすなわちアラブ諸国へと移動して共存していた。実は、このスファラディ・ユダヤ人たちとアラブ人たちは共通の祖先を持っている。それが今から約4,000年前のアブラハムである。彼らは血を分けあった兄弟なのである。それゆえに、スペインから北アフリカに渡ったスファラディ・ユダヤ人はイスラエルが建国される1948年までの約450年間、兄弟のようなアラブ人たちのなかで平和に生活することができた。

 I南アメリカはユダヤ人にとって「逃れの町」だった
  ペルーのエスタブリッシュメントたちは、ヨーロッパから渡った白人たちである。彼らは500年間の歴史を持っている。加えて、マラノが政治的、経済的、社会的、宗教的勢力を持っている。したがって、ペルーの背後は、ユダヤ地下政府・サンヘドリンのコントロール下にあるということである。「旧約聖書」には「逃れの町」を設置するようにと勧められている。何か事があった場合、その安全のために、「駆け込み寺」のようにして「逃れの町」をつくることが奨励されている。サンヘドリンにとって、スファラディ・ユダヤ人にとって、そしてマラノたちにとって南アメリカ各国は「逃れの町」だった。私たち日本人はそれを知らなかった。とくに知らなかったのは、日本政府であり、日本の各企業だったのではないか。高度成長の勢いに乗って、日本の各企業は韓国、台湾、中国、東南アジア…そして地球の裏側の南アメリカ諸国にまで進出していった。南アメリカ諸国は東南アジアとはまったく事情が異なっているのである。

 J暴力によって世界を征服し世界権力を目指す狂気のグループ
  かつての第二次世界大戦中の大分岐点がガダルカナル島攻防戦であったように、今回のペルー人質事件は日本および日本企業群にとっても大分岐点になるかもしれない。なぜならば、サンヘドリンはただ立ちはだかっただけではない。彼らの目標を阻止するものを破壊する力を持っているからである。サンヘドリンの目標とは何か。そして、それはいかに恐ろしいものであるか。先ほどのヘンリー・H・クラインはその事実を明らかにし、次のように述べた。「サンヘドリンは暴力を信奉している。彼らの綱領は次のように述べる。『暴力は世界を征服する』と。そして原子爆弾は暴力の頂点である。原子爆弾はサンヘドリンの権力の象徴なのか…。サンヘドリンの計画は成功するだろうか」「ひと握りの連中によるユダヤ世界権力を目指す狂気によって、世界は征服へと誘導されることになるのだろうか。それともただひたすら破壊へと崩落していくばかりなのだろうか。これまでの歴史を振り返るとき、ただ破壊のみであった。」

 Kクリントン政権の閣僚の半分はアシュケナジー・ユダヤ人
  「ユダヤ人」というとき、2種類のユダヤ人がいる。1つは、1492年にスペインを追放されたユダヤ人=スファラディ・ユダヤ人、彼らは本当のユダヤ人である。本当のユダヤ人とは、旧約聖書でいっているユダヤ人の子孫である。すなわちアブラハム、イサク、ヤコブの血を受け継いでいるユダヤ人である。彼らのある者は南アメリカに渡り、またある者はヨーロッパ各地に離散。しかし、北アフリカに渡りアラブ世界で生活した人々も多くいた。彼らはイスラエル建国とともにイスラエルへ帰っていった。そして、そこで彼らは驚くべき体験をした。すなわち、まったく自分たちと異なるユダヤ人=アシュケナジー・ユダヤ人たちを見たのである。アシュケナジー・ユダヤ人とは白人である。イスラエル建国を果たしたのはこのアシュケナジー・ユダヤ人たちであって、今日のイスラエルの支配者である。一方、アラブ世界からイスラエルに帰ったスファラディ・ユダヤ人たちは、今日でもイスラエルで下積み状態にある。住宅事情も悪く、結婚も就職もままならず、軍隊においても下層に追いやられている。このアシュケナジー・ユダヤ人は、アブラハム、イサク、ヤコブの血を受け継いでいる人々ではなく、本当のユダヤ人ではない。

 Lナチス・ドイツの指導者も南アメリカに渡っていた
  イスラエル建国のそもそもの発端は、第一次世界大戦中のバルフォア宣言とされている。イギリス外相バルフォアは、ロスチャイルド家に手紙を送り、第一次世界大戦においてイギリスが勝利を?むことができたら、「ユダヤのホームランド」をパレスチナにつくることを約束した。それはホームランドであり、決してユダヤ人国家ということではなかった。サンヘドリンおよびロスチャイルド家はアシュケナジー・ユダヤ人たちをフルに使った。なぜなら、イスラエル建国を1948年5月14日に果たしたのは、アシュケナジー・ユダヤ人たちだったからである。当時、本当のユダヤ人の指導者たちがアシュケナジー・ユダヤ人たちを手先のごとく使ったことがわかる。さらに、もっと奇妙なことは、ヒトラー率いるナチス・ドイツは占領地の各国に強制収容所をつくり、そこでナチス・ドイツによって、ユダヤ人虐殺が行なわれたとされている。そこで犠牲となったのは100%アシュケナジー・ユダヤ人だった。その理由は何か。第二次世界大戦に敗北したナチス・ドイツの指導者はつくられたルートにしたがって、続々と南アメリカに渡っていった。そしてそこにナチス・ドイツ幹部によって、ドイツ人の町が続々とつくられていった。

 M「自分たちは人間、他民族は獣」――ゆがんだタルムード的発想
  今から約2600年前の紀元前586年、南王朝ではバビロン帝国の攻撃を受けていた。神殿は破壊され、多くのユダヤ人たちが殺された。そして、生き残ったものはバビロンの王ネブカデネザルによって、バビロンに連行された。そのときに、とくにユダヤの指導者たちがバビロン宗教の影響を受けた。わかりやすくいえば、バビロン宗教という眼鏡で「旧約聖書」を読むようになった。これがタルムード的発想である。自分たちは人間、その他の民族はゴイム、すなわち獣であるという発想が根本となっている。以後、ペルシャの時代に、彼らはもとの国に返された。しかし、指導者(後のサンヘドリン)たちは、バビロン宗教による「旧約聖書」の解釈をやめなかった。そしてイエスが登場する。イエスは純粋に旧約聖書発想においてのみ「旧約聖書」を伝えた。イエスは容赦なくサンヘドリンの誤りを指摘した。そして両者の激突が繰り返されたのである。イエスの十字架刑は紀元後30年。なお、その後40年経った紀元70年、ローマ帝国はこのユダヤ国家を破壊した。その攻防戦の最中、ユダヤの指導者(サンヘドリン)は地下に潜ったのである。以後、彼らは地下政府として君臨することになる。

2.イエスとサンヘドリンの激突

 @神の名をつかったサンヘドリンの強盗行為に激怒したイエス
  なぜ、サンヘドリンとイエスは衝突したのか。それには2つの理由がある。1つはサンヘドリンはパリサイ人、律法学者といわれたユダヤ人の指導者であった。その権威ある者とされていた彼らが、ナザレの大工であるイエスから非難されたからである。イエスは純粋に、「旧約聖書」そのものを伝えたのである。それに対してサンヘドリンは、バビロン捕囚以来、バビロン宗教という色眼鏡をもって「旧約聖書」を解釈し、かつ一般のユダヤ人たちをそれによって指導していた。イエスは、そのようなことはモーセ、さらには多くの預言者たちに対する背信であり、ひいては神への冒?であると非難したのである。もう1つは、イエスは誰か、という問題である。まず第一に、サンヘドリンとイエスの衝突について述べる。その最たるものはエルサレムにある神殿で起きた。「神殿清め」といわれるのがそれである。かつてエルサレムには、創造主なる神を崇めるための神殿があった。しかし、イエス在世当時、神殿を守るはずの祭司たちの組織が腐敗していた。その神殿の中庭で、サンヘドリンは多くの両替商や神に捧げる犠牲の動物を売る商人たちに商売をさせていた。サンヘドリンたちは聖なる貨幣、すなわち神に捧げる貨幣と称して木製の貨幣をつくっていた。そして一般の人々が持ってきた貨幣、俗なる貨幣と交換させていたのだ。一般の人々は、金貨や銀貨を木製の貨幣に交換してもらい、それを献金箱に入れていた。夕方になると、サンヘドリンのメンバーは献金箱に入れられていた膨大な木製の貨幣を両替人に渡し、両替人から俗なる貨幣、すなわち金貨、銀貨を取り上げていた。これが毎日繰り返されていた。

 A元手なしで大儲けのバビロン商法に励むアメリカのFRB
  実は、そのシステムをそのまま生かしたのがアメリカのFRB(連邦準備制度理事会)なのである。バビロン商法とでもいうべきものである。FRBが発行するドルは完全に金の裏打ちを持っていない単なる紙切れである。彼らは1枚のドル札を(それが1ドル札であろうと、百ドル札であろうと)、人件費、運搬費、そして紙代を含めても、わずか3セントぐらいの元手で印刷できる。アメリカ大統領は行政を行なうとき、大量のドル札を必要とする。大統領はそれを得るために、国債とそれにともなう利子をFRBに申し入れる。それに対してFRBは単なる紙切れであるドルを渡す。その結果、大統領は国債と利子の支払いを約束する。やがて数年経って大統領がその国債を取り戻すとき、大統領は国民から集めた税金を、FRBに支払うことになる。それは紙切れではなく、国民の血と汗の結晶なのである。アメリカはよく三権分立の整った国といわれる。しかし、アメリカの実態は三権ではなく四権である。なぜならば、アメリカ大統領でアあっても、FRBという権力組織をコントロールすることができないからである。

 B「旧約聖書」の抹殺を密かに企むサンヘドリンの陰謀
  いったい、イエスとは誰なのか。イエスは真っ向から、自らは「旧約聖書」に予言された通りの救世主であると主張した。それを言えば、死を意味したけれども、イエスは肯定した。それゆえに、サンヘドリンのメンバーはいっそう怒り狂ったのである。今もそれがつづいている。彼らはいつの日にか、イエスを完全に閉じ込めてしまおう、そのためにはイエスのことが詳しく書かれている「新約聖書」を世の中からなくしてしまおうと思っている。しかし、今はそれをすることはできない。堕落したりとはいえども、ヨーロッパ、アメリカ、ロシア…などでは、今日やはり「新約聖書」は重んじられている。しかし、サンヘドリンは虎視眈々とそれを狙っている。

 Cイエスは「愛の宗教」ではなく指導者の誤りを糾弾した
  イエスとサンヘドリンの衝突は、イエスが世に出たとき、すなわち30歳頃から始まっていた。私たちは「新約聖書」中の「福音書」、すなわちイエスの言語録とイエスの行動を記録したものを読めば、そのことにすぐ気が付く。サンヘドリンとイエスの激突に、それは満ちているといっても過言ではない。今日キリスト教界はそのようにとらえない。「新約聖書」をそのまま読もうとはしない。そしてイエスは「愛の宗教」を伝えたと言い広めている。これはまったく正しいことではない。今日のキリスト教界はサンヘドリン、ユダヤの勢力を非常に恐れている。攻撃されることが怖いのである。もうひとつは、キリスト教界のなかに、すなわち神学校や神学部のなかにサンヘドリンの意向を汲んだエージェントが送り込まれているからである。

 D神の名を語りながら神を利用して偽善を行なうパリサイ派
  ユダヤの指導者サンヘドリンたちは徒党を組んで、イエスをなきものにしようと企んだ。しかし、イエスは妥協することはなかったのである。「マタイ伝」23章には、イエスのサンヘドリンへの糾弾の言葉がまとめられている。そのすべては「偽善の律法学者、パリサイ人たち…」という言葉で始まっている。まさに、サンヘドリンは権威主義だった。自分たちこそ指導者、自分たちこそ聖書の研究者…という自負心だけがその支えだったのである。しかし彼らは言葉では言うが、それを実行していなかった。イエスはそこを突いたのである。神の名を語りながら、神を利用して自らは何もしていないことを糾弾したのである。

 E非難され糾弾されて「イエス憎し」の憎悪を強める偽善者たち
  さらに、イエスはやがてカザール人が改宗し、アシュケナジー・ユダヤ人となることを予兆して述べている。とくに、改宗者であるカザール人はユダヤ人でなかったがゆえに、「旧約聖書」を徹底的に研究するということはなかった。では、彼らは何を研究したのか。それは「タルムード」そのものだった。「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。改宗者をひとりつくるのに、海と陸とを飛び回り、改宗者ができると、その人を自分よりも倍も悪いゲヘナ(地獄)の子にするからである」「旧約聖書」にはモーセの律法というものがある。十戒がその代表的なものであろう。しかしサンヘドリンのメンバーはその大筋をとらえることなく、まさに「重箱の隅をほじくる」ような解釈に意を注ぎ、それを群集に教えていたのである。イエスはそんなことは何の役にも立たないと、彼らを糾弾した。「目に見えぬ手引きども。あなたがたは、ぶよは、こして除くが、らくだはのみこんでいるようなものだ」。これが真実であるがゆえに、サンヘドリンは怒り狂ったのである。イエスは彼らに対して決定的なことを言い渡した。「旧約聖書」では「蛇」「まむし」といえば、悪魔のことを指している。悪魔とは、神に敵対する存在である。それでもサンヘドリンは神の名によって人々を教化し、神の名によって行動しているつもりであった。しかし、イエスは彼らのすべての化けの皮を剥いだのである。「おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができようか」このように、イエスの言葉の一部を引用しただけでも、いかにイエスとサンヘドリンの闘いは激烈なものであったのかがわかる。

 Fイエス復活を唱えて迫害者に対抗した弟子たちの反撃
  イエスが十字架で死んでのち、イエスは3日目に予告通り復活したと、イエスの弟子たちがメッセージをし始めた。慌て惑ったサンヘドリンなど、ユダヤの指導者たちはその話を止めさせようとした。彼らはイエスの弟子たちに鞭を加え、イエスの弟子たちを排斥し、イエスの弟子たちを死にいたらしめた。しかし、彼らが何をしようと、イエスの弟子たちの態度は変わらなかった。彼らは、いつも次のようにイエスを誉めたたえたのである。「あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエスは救世主である」なんと、サンヘドリンにとって侮辱にとれる言葉ではないか。十字架につけたのはあなたがたである。そのイエスを神が3日目によみがえらせた…ということは、それが事実であるならば、サンヘドリンは神への敵対者になっている、ということである。やがて、もとはサンヘドリンのメンバーでありながら、サンヘドリンから離れ、イエスの弟子に加わった人物が登場する。彼は学者であり、「旧約聖書」を知り尽くしているとともに、タルムード発想をも知り尽くしていた。この人物がサンヘドリンを内部告発していくのである。パウロである。

 G「ユダヤ人も神の前に罪人である」――パウロのきびしい指摘
   パウロは次のように述べた。ユダヤ人が自分たちは特別なものであると思っているが、そうではなく、ユダヤ人も神の前に罪人である。自分の心ですら、コントロールすることができないでいる…と。「ユダヤ人も、ギリシャ人(異邦人)もまた同じなのである」と述べたのであった。「では、どうなのであろうか。わたしたち(ユダヤ人)は他の者にまさっているのであろうか。決してそうではない。ユダヤ人もギリシャ人(異邦人の代表)も、すべての人が罪の下にある」と責めたのである。それは、「新約聖書」にも次のように書かれている。「『義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない』」(「ローマ人への手紙」3章10節、12節)これが真実なるがゆえに、サンヘドリンは返す言葉がなかった。しかし、同時にサンヘドリンはパウロを憎むようになっていくのである。

 Hパウロの主張-――「イエスは全人類の罪の身代わりに裁かれた」
   さらに、パウロはサンヘドリンが最も自慢にしていること、すなわち「旧約聖書」中の、神からモーセを通して与えられたといわれる戒めについてである。サンヘドリンはその戒めのことを「律法」と呼んでいた。しかし、パウロはその「律法」について次のように述べた。「律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められない。律法によっては、かえって罪の意識が生じるだけである」その意味するところは、人間は自分の力で神の前に悟りを開こうとすればするほど、かえって自分の内に悪なる思いがあると気が付かされるだけである、と言っているのである。さらに、パウロはそれに対する答えを言う。人は自分の力で義とされない。ただただ、神に対する信頼によってのみ義とされる…と。神はサンヘドリンが十字架に追いやったはずのイエスを、かえって全人類の罪の身代わりとして裁いた、そして、ただイエスを信頼することのみが神への救いであると述べたのであった。

 I「ウススの手紙」が指示する恐るべき長期復讐計画
  これに対してサンヘドリンは、かえってイエスに対する憎しみを増し、イエスの弟子たちに対する憎しみをも増幅させていった。彼らは自分たちの怒りを最高点にまでもっていった。しかし、紀元70年、サンヘドリンがいくらイエスの弟子たちに怒りを向けようとしても、ローマ軍によってユダヤ国家は崩壊させられ、エルサレムは陥落、サンヘドリンは地下に潜らざるを得なかった。以来、約2000年間、サンヘドリンはイエスおよびイエスの弟子たちを、憎しみつづけ、その憎しみをエネルギーとして今日にまで至ったのである。「生命も危険にさらされているというが、それなら子どもたちを医者や薬剤師に育て、そのうち彼らの生命を奪うがよい。神殿の破壊に対しては、子どもらをキリスト教の神父にし、やがてキリスト教会を破壊に導くがよい。その他、さまざまな圧迫が知らされているが、子供たちを弁護士や公証人にして、あらゆる問題に介入させねばならない。」

 Jすべての人間に小型の電波発信器が埋め込まれる管理社会がくる!
  「新約聖書」の最後は「ヨハネの黙示録」である。そこには21世紀を迎えようとしている私たちの、なお先のことが書かれている。世界は非常に狭くなっている。急速にすべての伝達をすることが可能になった。一度に多くの人々に伝達することのできるマスコミも世界的規模に発達した。この世界はサンヘドリンによって征服されるであろう。しかしながら、「ヨハネの黙示録」によれば、その征服はわずか3年半にすぎないという。サンヘドリンは何によって人々を支配するのか。数字によってである。「ヨハネの黙示録」はイエスの弟子たちの時代、すなわち、今から約1900年前に書かれたものであることを知って、次を読んでほしい。「また、小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧しい者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々にその右の手かその額に、刻印を受けさせた。また、その刻印、すなわち、その獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも買うことも、売ることもできないようにした。ここに知恵がある。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。その数字は人間をさしているからである。その数字は666である。」(「ヨハネの黙示録」13章16節〜18節)約1900年間、この言葉の意味はわからなかった。しかし、今日、どのような人であっても、この言葉の意味を理解することができる。コンピュータによる支配であり、人間管理である。人々へ数字が配られる。それによって、売ることや買うことがなされる。その世界的独裁者に背くならば数字が与えられず、売ること、買うことが許されなくなるというのである。

 KインターネットのWWWは「ヨハネの黙示録」の数字666
  今日、数字による世界支配の典型的なものとは間違いなくインターネットである。インターネットの最大のハイパー・テキスト・システムとは「World Wide Web(ワールド・ワイド・ウェブ)」である。略して「WWW」といわれている。このWWWがくせものである。「ヨハネの黙示録」は人類を支配するものが発行する数字、それは666と関係がある。実は、サンヘドリンが使う言葉、ヘブライ語はすべて、アルファベットが数字に換算される。WWWとは666なのである。インターネットはさらに大きくなる。WWWから始まる数字、すなわち666を先頭にして、各個人にバーコードの数字が打ち込まれる。しかし、サンヘドリンがいくら騒いでも、結局、「新約聖書」から抜け出すことはできない。孫悟空がいくら自らの力を発揮しようとも、釈迦の手の中から脱出することはできなかったのと同じである。その「ヨハネの黙示録」が、サンヘドリンによる世界支配はわずか3年半で崩壊すると断言する。そして、全世界は大戦争に入っていく。しかし、日本に古代ユダヤの子孫がいる限り、日本は不思議な保護のなかを通っていくはずである。なぜならば、古代ユダヤの子孫たちが次の新しい時代を担うことになるからである。このようなことは、私たち日本人には理解しがたい。しかし、世界のほとんどの人々にとって、それは理解しうることなのである。なぜならば、「旧約聖書」の断言だからである。サンヘドリンといえども、その言葉の前に異議を唱えることはできない。

3.エピローグより

 今後の難しい時代、人の心がどのようになるか、「新約聖書」には次のように述べられている。「やがて困難な時代がやって来る。そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者、情け知らずの者、和解しない者、そしる者になり…(中略)…見えるところは敬虔であっても、その実を否定するものになる」(「第二テモテ」3章1節〜5節)

 私たち人類は進歩していると教えられた。しかし、人に関する限り、人の精神に関する限り、まさに退化が起きているようである。そのようななかを、日本および日本人は突き進んでいく。(2005.08.01)


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