文学批評理論


亡霊登場理論

黒沢清、鶴田法男、中田秀夫の映像作品にみる現代亡霊観



黒沢清『廃校奇譚』より


 最初に明確に示しておきたいことがある。それは、幽霊は果たして本当にいるのかどうかということについてである。その議論はナンセンスだが、少なくとも僕は幽霊などいるわけがないと思っている。悪魔や妖怪などもっての他だ。しかし、そんなことを言いつつも闇は怖いし墓地も怖い。「もしかしたら幽霊がいるかもしれない」と心の奥底で思っているからかもしれない。しかし、「もしかしたら」というのはフィクションなのである。だからその中において、幽霊は確実に存在している。と、私は考えている。


1.鶴田法男と小中理論〜『ほんとにあった怖い話』
    (1)『夏の体育館』の赤い服の亡霊に見る人間性の剥奪

    (2)さりげなく、しかし確実に!〜『霊のうごめく家』
    (3)恐怖は感動につながる
    (4)亡霊は理不尽にまとわりつく〜『たたり』
    (5)『リング0/バースデイ』は失敗作か?

2.心霊写真効果〜『リング』以前の中田秀夫

3.黒沢清〜その幽霊哲学
    (1)小中理論の実践〜『DOORIII』
    (2)日常を切り裂く空無〜『降霊』
    (3)世界の終わり〜『廃校奇譚』、『回路』


序.“Jホラー”なるもの〜日本ホラー映画の潮流

 『リング』で日本ホラー界が変わったとよく言われる。それは確かである。だがそれに向けて、着々と準備は進められてきたのだ。

 70年代、日本のホラー映画界は低迷期に入る。『エクソシスト』(73年)、あるいは『オーメン』(76年)といった海外の傑作ホラーが次々に輸入され、洋画が邦画の興行成績を超えるようになるのだ。日本でも、それまでは一部の作品[1]を除いては“ホラー映画といえば怪談映画”といった認識であったが、この頃より洋画の影響を受けた新しい作品が作られるようになる。『犬神の怨霊』(77年)、『 HOUSE/ハウス』(77年/大林宣彦監督)などである。しかし、かつての怪談映画のように、人気、興行成績ともに日本映画の一翼を担っているとは言い難く、80年代に入ってもそれは続く。嶋田久作の怪演で知られる傑作伝奇SF『帝都物語』(88年)、塚本晋也による『死霊の罠』(88年)、『鉄男』(89年)と名作が生まれてはいるが、一般大衆には浸透していない。89年に、伊丹十三製作総指揮による大掛かりな家[2]ホラー『スウィートホーム』を黒沢清が監督。ハリウッドからディック・スミス(特殊メイク・アップ・アーティスト)を招いたり、同名のTVゲームも発売されたりと、何かと話題をさらった。

 そして90年代に入ると、ようやくホラー映画が大衆化の兆しを見せ始める。心霊写真集のブーム、オリジナル・ビデオ『ほんとにあった怖い話』(91年)やTV版『学校の怪談』(94年〜)の影響もさることながら、90年代初頭に“トイレの花子さん”や“テケテケ”といった都市伝説が小学生を中心に大きく広まった。それを受けての映画『学校の怪談』シリーズは大ヒットし、現在までに5本が作られている他、『トイレの花子さん』(96年)なども公開。また、古賀新一の漫画を原作にした『エコエコアザラク/WIZARD OF DARKNESS』(95年)もシリーズ化され、深夜ドラマと共に人気を誇った。96年には鶴田法男による『亡霊学級』も登場。こうして、いわゆる“学園ホラー”が確立する。

そういった比較的対象年齢を下げた作品や、菅野美穂や佐伯日菜子といった人気女優による“美少女ホラー”が流行する一方で、97年、黒沢清によるハードなサイコ・ホラー『CURE/キュア』が登場する。一概にホラーという枠で括るのもどうかとは思うが、その哲学的なテーマ、黒沢映画独特の心地よく知的な意味不明さ、役所広司を始めとする俳優たちの演技も含め、その完成度の高さは、一気に日本ホラー映画の社会的地位を押し上げた。

 そのような背景の中、大衆向けホラーということで最も貢献したのは、角川書店による一連の作品群であろう。真っ黒な装丁が特徴的な角川ホラー文庫が創刊され、公募によるホラー大賞受賞作が映画化された。まずは瀬名英明原作による97年の『パラサイト・イヴ』(落合正幸監督)である。少しも面白くない駄作だが、原作のヒット[3]と大掛かりな宣伝によって話題性は十分に確保していた。これが翌98年の鈴木光司原作のデュアル・ムービー[4]『リング』(中田秀夫監督/高橋洋脚本)、『らせん』(飯田譲治監督)につながる。95年にテレビの2時間ドラマ枠で『リング』(飯田譲治脚本)はすでに映像化されており、鈴木光司の原作小説も文庫化して以来、大人気となっていた。口コミでの評判と、角川の大々的な宣伝により『リング』、『らせん』は日本のホラー映画としては異例の大ヒットを見せることになる。

これらのヒットで、いわゆる“角川ホラー”が確立し、99年には貴志祐介原作の『黒い家』(森田芳光監督)、板東眞砂子原作『死国』、そして『リング2』(中田秀夫監督/高橋洋脚本)、2000年には『 ISOLA/多重人格少女』、『リング0/バースデイ』(鶴田法男監督/高橋洋脚本)が次々と公開されている。また、角川以外でも『催眠』(落合正幸監督)や、続く『千里眼』などは話題をさらったし、伊藤潤二の漫画が原作の『富江』シリーズ、『うずまき』も好調だ。TVドラマでも、ホラーの進出は顕著である。『アナザヘヴン』、『ケイゾク』といったサイコ・サスペンスも大ヒットして映画化されているし、逆に『催眠』、『リング』、『らせん』は後にTVドラマ化されている。『ニンゲン合格』や『カリスマ』で、今やホラー界のみならず日本を代表する世界的な映画監督となった黒沢清の『降霊/ウ・シ・ロ・ヲ・ミ・ル・ナ』(何とチープなタイトルなのかと驚くが、ビデオでは『降霊』と改題されている)も、TVの2時間枠ドラマとは思えない出来の良さである。

 また、『リング』で大ブレイクを果たした中田秀夫や高橋洋の過去の作品(『女優霊』など)がビデオ発売された。いわゆる“まがいもの作品”も多く出回っている。どう見ても貞子としか思えないビデオ・パッケージをよく見かける。『心霊』、『呪霊』、『呪怨』[5]、『呪死霊』、『邪願霊』と並んでいてもどれがどれだか分からないだろうし、ロゴがそっくりな『ライン』や『rensa/呪いのビデオテープ』なんて誰が見るのだろう、と思うわけである[6]。それから、ビートたけし司会によるTV番組『奇跡体験!アンビリバボー』も忘れてはならない。こういったドキュメンタリー作品も多くビデオが出ている。『ほんとにあった!呪いのビデオ』シリーズや、『恐怖のビデオテープ/世界の怪奇現象』、杉沢村[7]を題材にした『地図から消えた村/杉沢村の呪い』、『杉沢村伝説/完全無削除絶対恐怖版』なども何食わぬ顔して平然とレンタル屋に並べられている。今や、ここまで日本ホラーが市民権を獲得しているのである。

 この90年代以降の一連の日本ホラー作品は、“Jホラー”とか“ホラー・ジャパネスク”と呼ばれる。かつての日本ホラーは、怪談映画に代表されるように“語り継がれてきた物語”であったが、ここで“Jホラー”と呼ぶものは、“これから語り継ぐ新しい物語”なのだ。


鶴田法男と小中理論〜『ほんとにあった怖い話』


 現代幽霊映画を論じるうえで、絶対に避けては通れない作品がある。『ほんとにあった怖い話』[8]である。同名コミックを原作としており、一般公募の体験談を元に作られているオムニバスだ。ビデオで発売されているものとしては『ほんとにあった怖い話』(91年)、『ほんとにあった怖い話/第二夜』(91年)、『新・ほんとにあった怖い話/幽幻界』(92年)、『ほんとにあった怖い話/呪死霊』(92年)の4作品がある。


(1)『夏の体育館』の赤い服の亡霊に見る人間性の剥奪


 『〜第二夜』に、『夏の体育館』というエピソードが収録されている。鶴田法男監督、小中千昭脚本によるものだ。3人の女子高生[9]がきもだめしに体育館を訪れる話である。体育館に忍び込んですぐに、ステージの上に亡霊がいるのが見える。白い服を着た男の亡霊だ。だが画面の遠くの方にゆらゆらと、いるのかいないのか分からないといった程度。それから、小窓の向こうを亡霊がよぎるシーンがある。これも静かに、スッと亡霊が通り過ぎるだけだ。見落とすことはさすがに無いだろうが、これらの亡霊は派手な効果音やグロテスクな顔のアップといった姑息な手段を使わずに登場するのである。それから少女のうちの1人がはぐれてしまうわけだが、彼女はそこで決定的な亡霊を目撃する。それが赤い服の亡霊(写真1)である。この亡霊は少女の前に立っており、なぜか歩いて近付いてくる。だが、ただそれだけである。少女の顔を覗き込むと、次の瞬間には消えているのだ。襲ってくるわけでもないし、突然「ドン!」といった効果音と共に現れるわけでもない。静かに、ただこちらにゆっくりと近付いてくる。それから、その動作は実に奇妙である。腰を落として、足や腕を不自然に動かす。明らかに正常な人間の動きではない。注目すべき点はあと2つある。この亡霊の顔である。この亡霊には顔というべきものが無い。長い黒髪に阻まれて、よく見えないのである。それから最後に、赤という服の色である。服の色を前面に押し出すことによって、それを着るものの個性を失わせている。つまりこれらの事項はすべて、人間らしさを喪失させているのである。

写真1

 亡霊とは、人間の死後の姿である。それと同時に“人間ならざるもの”である。それがこの鶴田・小中による短編ドラマの中で提示されている。考えてみよう。『東海道四谷怪談』のお岩の亡霊を。伊右衛門への怨念がお岩が亡霊たる理由であり、怨念が消えれば亡霊も消える。そして我々は「伊右衛門、お前が悪いんだから仕方ないだろ」[10]と思い、むしろ伊右衛門よりもお岩に同情するわけである。つまりお岩は、“人間の感情を持ったもの”なのだ。それでは『夏の体育館』の赤い服の亡霊はどうだったか。なぜそこにいるのか、そして何者なのか、まったく謎である。近付いてはくるが何をしたいのかも分からないし、結局何もしない。もちろん、少女には何の恨みも無い。存在そのものが意味不明なのだ。だが確実にいる。そして重要なのは、決して成仏などしないということだ。それが、鶴田法男と小中千昭の描いた亡霊だ。

 この赤い服の亡霊の動きは、以降の幽霊映画に大きな影響を与えている。酷似している亡霊は、黒沢清作品によく見られる。96年の『DOORV』は脚本を小中が書いており、非常によく似た亡霊を見ることができる。この作品についてはまた後ほど触れるが、このピンクの服を着た女(礼子)は、『夏の体育館』の赤い服の亡霊とそっくりである(写真2)。2001年公開の同監督による究極的な幽霊映画『回路』にも同様の亡霊が現れる。また、つい最近放送されたTVドラマ『学校の怪談/春の物の怪スペシャル』の中の一篇『花子さん』も黒沢清の作品[11]だが、そこにも全く同じ格好の亡霊が登場する。TVシリーズでの同名作品[12]もあるが、そこでも赤い服を着た亡霊が現れる。『学校の怪談f』の一篇『廃校奇譚』のコートを着た女教師の亡霊もこの系譜であろう。

写真2  写真3  写真4

 そして、今や知らぬ者はない『リング』の貞子にさえ、きちんとこの方法論は用いられているのである。写真3は『リング』で、貞子がテレビ画面から這い出てきて真田広之に迫るという驚愕のシーン。監督は中田秀夫。彼もまた鶴田法男、小中千昭に影響された1人なのである。写真4は『リング0/バースデイ』の貞子。本家・鶴田法男による作品だが、こちらはボキボキと骨の折れるような奇妙な音を立てながら近付いてきて、ますます人間離れしたイメージを放つ。


(2)さりげなく、しかし確実に!〜『霊のうごめく家』


 『ほんとにあった怖い話/第二夜』にはもう1つ極めて重要な作品がある。『霊のうごめく家』である。『夏の体育館』同様、鶴田法男、小中千昭のコンビによるものだ。あらすじは単純である。父の転勤により借家に越してきた家族が、そこで亡霊を見る。霊能力者に見てもらったところ「早く出たほうが良い」と言われ引っ越すことにする。…それだけである。時間にして20分にも満たない短いドラマだ。また、この作品はドキュメンタリー・タッチで描かれている。画面左下に日時が表示され、要所要所で字幕が入る。

 劇中、ほの暗い画面と静けさが終始一貫されており、いつどこに亡霊が現れてもおかしくない雰囲気が常に漂っている。それは、ロバート・ワイズによる家系ホラーの古典『たたり』と比べても引けを取らない。冒頭で家が映し出され、家族が車でやってくる。空はどんよりと灰色に曇っていて、家はどこか気味の悪いオーラを放っている。よく考えてみれば、その辺にいくらでもありそうなただの一軒家が映っているだけなのだが、なぜかこれだけでもう怖いのだ。屋内も、妙に殺風景な感があり、“霊のうごめく家”としての雰囲気を十分醸し出している。また、娘が1人で部屋にいる時に、廊下で何か物音が聞こえる。娘は部屋の扉を開けて廊下に出る。実際に亡霊は現れないのだが、演出が優れているとしか言いようの無い圧倒的な怖さだ。また、母親が寝ている時に何者かに触れられたと言って、布団から飛び出て夫を起こす。見ると、妻が寝ていた誰もいないはずの布団にふくらみがある。結局これもただのふくらみで中には何も無いことがすぐに分かるのだが、夫が恐る恐る中身を確かめる瞬間の恐怖演出も素晴らしい。

 亡霊は、全部で4回だけ姿を見せる。最初に登場するのは母親がたたみを拭いている時で、その姿を亡霊は扉の隙間からじっと見つめている(写真5)。もちろんこの亡霊は何もしない。ただそこにいるだけなのである。それから、新学期になり小学生の娘が学校での自己紹介を練習しながら歩いていると、靴の紐がほどけたので立ち止まる。すると、背後から人が歩いてくる(写真6)。娘は道を譲るが、よく見るとそこには誰もいない。娘が呆然としていると、風がザワザワと木々を揺らす。また、母親が食器の片付けをしている時、娘がいつまでもテレビを見ているので注意すると、娘はパタパタと部屋に向かう。だが母親が振り向くと、すぐ背後に娘が立っている。それを1カットで見せるという離れ業もさることながら、この日常に織り込まれたさりげない描写に恐怖を感じる。最後に登場するのは、霊能力者が御祓いか何かをしている場面である。両親は霊能力者と一緒に祈っているが、娘は扉から外を眺めている。すると、向かいの電柱の脇にひっそりと亡霊が立っており、少女を見つめているのだ。そしてその亡霊は静かに首を横に振る。それで、亡霊の出番は終わる。

写真5  写真6

 亡霊には足が無いというのは誰が言い出したことかは分からないが、一般的に広く知られていることである。だが、この作品の中の亡霊には足がある。それどころか、少女の背後に近付く亡霊は足しか映らないのだ(写真6)。後に、少女が部屋でその亡霊の足を絵に描いている場面さえある。亡霊の足がここまで印象的に描写されるのは、確実にそこに亡霊がいるということを表しているからである。さりげない。だが確実に、亡霊は現れるのだ。それが『霊のうごめく家』の亡霊である。
 カルト的人気を誇る傑作亡霊映画『回転』(61年/ジャック・クレイトン監督/ヘンリー・ジェイムズ原作[13])の亡霊を思い出す。『回転』の亡霊も、何をするでもなく画面の片隅に、さりげなく、しかし確実に現れた。鶴田法男は、女優の野波麻帆に新作『案山子(かかし)』(2001年夏公開予定)の撮影に入る前に宿題を出したという。それが、『たたり』と『回転』だった。

『霊のうごめく家』は、まるで欠点が無いわけでもない。霊能力者の「ちょっとすごいですよ」という科白はパッとしないし、どうも彼女は胡散臭い。だが、そうした部分があるにせよ、それでもこの作品の完成度は極めて高い。それこそ『たたり』、『回転』レベルなのである。

 『夏の体育館』、『霊のうごめく家』等で見られた、鶴田法男・小中千昭によるこれらの亡霊観を、脚本家の高橋洋は“小中理論”と呼んだ。


(3)恐怖は感動につながる


 フィルムと比べ、どうしても質感の出ないビデオ撮りながら、『ほんとにあった怖い話』はいくつかの良質な作品、素晴らしい場面と演出を生み出している。

 例えば、『踊り場のともだち』(『新・ほんとにあった怖い話』の一篇)である。これは、階段の踊り場で亡霊が現れる場面が実に秀逸である。主人公の女子高生が、学校を遅刻しそうになった為に普段は使われていない古い階段をかけあがる。踊り場にさしかかり、少女がカメラの前を通過する。すると、そこに下を向いた少年の亡霊が一瞬見える(写真7)。すぐにカットは変わり、少女は振り向くがそこには誰もいない。

写真7

 もともと『ほんとにあった怖い話』は、心霊実話体験を原作にしているため、ドラマ性は薄いのだが、この作品はそこもきちんと押さえている。主人公の少女は、この亡霊を何とかして救おうとするのだが、亡霊を目の当たりにするとやはり恐怖で怯えてしまう。そうして自分には何もできなかったのだと知る。だが、ラスト・シーンが印象的で、最初に亡霊が現れたのと似たカットで主人公が階段を上がる。そして振り向くと、そこには亡霊ではなく、追いかけてきた友達がいるのである。

 考えてみれば、こうした感動は『夏の体育館』でも見られたし、『霊のうごめく家』にも確かに存在した。前者は、ラストで体育館から出てきた時に少女たちは1つ成長していた。亡霊をみたことを「後輩に自慢できる」とあえて軽く言ってみせたりする。後者は、亡霊の側に引き寄せられていた少女が、家を去る前にじっと屋内を見つめる場面がある。そして何かを決意したようにそこを立ち去るのだ。これは、ある種の確かな感動であった。

 また、おそらくは鶴田法男の最新作となるだろうが『学校の怪談/春の物の怪スペシャル』中の一篇『何かが憑いている』もまた恐怖と感動が同居した佳作である。

 優れたホラー作品のラストには、感動が存在する。


(4)亡霊は理不尽にまとわりつく〜『たたり』


 鶴田法男は『学校の怪談/たたりスペシャル』の中で『たたり』(99年/高橋洋脚本)という佳作を撮っている。物語は、編集部に実話体験談が寄せられ、それを読むというところから始まる。主人公(つまり語り手)は女子高生[14]で、ある時学校から帰って2階の自分の部屋に入ると、外がどうも騒がしいのに気付く。窓を開けて外を見ると、近所の人々が隣家のベランダを差してざわめいている。少女は隣家に面した側の窓を開ける。ベランダには洗濯物が干してあって、何が起こっているかは見えない。男がベランダにやってきて、洗濯物を掻き分けて進むのだが、その時に大きなシーツがハラリと落ちる。するとそこに、何と首吊り死体がぶらさがっている。そして男が死体を引き上げる時、死体の首がごろりと少女の方を向いて目が合う。恐ろしい場面である。

 『たたり』なんてつまらないタイトルがついているが、何と恐ろしい作品だろうか。なぜなら、その窓はもう呪われた窓と化す。自分の部屋というのは、自分の基地でありアイデンティティの一部である。その窓の1つから、首吊り死体を目撃しただけではなく目まで合ってしまうのだから。

 その自殺した隣人は、少女の通う学校の卒業生だとかで、学校に亡霊が出るという噂が広まる。ある時、主人公の友人がその亡霊を目撃する。昇降口の廊下の角を曲がると、隅に亡霊が立っているのだ(写真8)。『踊り場のともだち』とも似たカットで少女がカメラの前を通過しようという時に、少女で隠れて見えなかった部分に亡霊が立っているのが分かる。見事な亡霊登場法である。

写真8

そして、学校はお祓いをする。その時に、死んだ男の写真が飾られるが、その顔はぼやけていてよく見えない。黒沢清の『 CURE/キュア』に登場した伝道師の写真とも似ている。

ある夜、少女は夜中に目を覚ます。すると、例の窓が少しだけ空いており、カーテンが風に揺れている。そしてカーテンの隙間から、首吊り死体が見え隠れしている。この時に少女は心の中で「なんで私なの」と連呼する。そうなのだ。亡霊は理不尽に現れる。主人公の少女はその男と何ら関係があったわけでもないだろうし、ましてや恨まれる理由なんて何もないわけだ。だが亡霊は現れ、まとわりついて離れない。徹底的に理不尽である。だから怖い。

体験談はそこでプツリと途切れる。それから、編集者が少女を訪れて直接話を聞くという後日談がある。すでに空き家となった、例の家で少女は語りだす(写真9)。赤い服というのがまた鶴田らしいし、奇妙な位置に立っているのもいかにもといった感じだが、そういうわけなのである。

写真9


(5)『リング0/バースデイ』は失敗作か?


 この章の最後に、『リング0/バースデイ』について少し触れておく。

 映画『リング』は、原作者の手を離れていった。貞子を始め、何人かの登場人物はまるで違うキャラクターとなったし、『らせん』につながらない『リング2』というオリジナル・ストーリーも作られた。同じスタッフで製作され、興行的には成功しているものの『2』ははっきり言って失敗作である。やはり鈴木光司の原作の力が偉大であるということなのか。そうした中で、「まだやるか」という印象さえあった『0』だが、果たしてこれは蛇足だったのか。

『0』の監督は、鶴田法男である。脚本はシリーズを手がける高橋洋。原作は鈴木光司の短篇『レモンハート』。これで蛇足になるはずが無い。誰もがそう思ったはずだが、公開後の評価は低い。これは物語の中心が貞子の恋愛だったという最大の過ちのためだろう。貞子に人格を与え人間としたことによって怖さはなくなったし、貞子を演じる仲間由紀恵はよしよしといったかわいさなのである。まるでアイドル映画である。“貞子は2人いた”[15]というアイデアもさることながら、高橋の脚本にも限界を感じる。超能力者を頻繁に登場させる彼の癖というか好みに我々はいつかついていけなくなるだろうし、こうしたシリーズものの脚本を上手く書けないのもよくない。映画『リング』は、高橋によって構築されてきた。現場でもかなりの権限を持っていたに違いないし、中田秀夫も彼によって撮らされていたという印象があるのも確かだ。そうした中で、初のメジャー作品、しかも劇場版ということで現場慣れしていない鶴田には少々酷な仕事となったのではなかろうか。しかし、鶴田の築いてきた小中理論に基づく亡霊演出はいささかも衰えてはいない。

この作品の中での貞子は、薄幸の超能力者である。高山竜司や高野舞もサイコメトリー[16]能力を持つが故に不幸であったが、貞子の場合は『シックス・センス』さながらにそこら中で亡霊を見る。さすが鶴田であると思わせたのは、死んだ劇団の女優・葉月愛子の亡霊が現れる場面。貞子が音響担当の遠山と話している背景で、開いていた扉が閉まる。すると、扉の影になっていた部分に亡霊が立っているのだ(写真10)。他にも、病院内をうろうろする亡霊を目撃したりする。『リング0』の価値はそこにある、としか言いようがない。

写真10

鶴田法男と『リング』に関することとして、『呪われた美女たち/悪霊怪談』(96年/小中千昭脚本)を挙げておく。いかにもB級なタイトルだが、もとは『Giri Giri GIRLS in 超・恐怖体験』という更にとんでもないものだった。Giri Giri GIRLSの解散にともなって、タイトルも変更されたとか。この中にビデオに関するエピソードがある。今なら『リング』のパクリと言われてしまいそうだが、こちらがオリジナル。高橋洋も参考にしたとの発言がある。

ちなみに、シリーズ3作品通して貞子の一応の父・伊熊博士を演じた伴大介は、『霊のうごめく家』でも一家の父親を演じている。高橋が、鶴田作品へのオマージュでキャスティングしたという話だ。



2.心霊写真効果〜『リング』以前の中田秀


 『リング』の監督に抜擢され、一躍脚光を浴びた中田秀夫だが、それ以前の彼はまったく無名だった。デビューはオムニバス『ほんとにあった怖い話/呪死霊』で、92年にTV放映されたシリーズだ。この中で中田は『呪われた人形』(高橋洋脚本)、『死霊の滝』(塩田明彦脚本!)、『幽霊の棲む旅館』(高橋洋脚本)を監督している。特別優れた作品というわけでもないが、『幽霊の棲む旅館』には、“ビデオ”、“白い服・黒髪の亡霊”という『リング』同様の要素がある。以降、中田はいくつかのビデオ作品を経て、『女優霊』(96年/高橋洋脚本)で劇場作品デビューを果たす。

 『女優霊』は中篇というべき短い作品。脚本家・高橋洋の力によるところが大きいと思われるが、作品そのものはよくできている。ホラー映画ならば、やはり怖くなければいけない。それを確実に実践している。この作品は、怖い。日本ホラー映画で怖い作品は? と、問われたならばとりあえずこの作品を挙げておく。撮影所で新作映画を撮っていると、次々と奇怪な現象に襲われるという物語だが、特筆すべきは亡霊の現れ方である。あるロケ地で、休憩中に女優の女の子が監督に向かって手を振るシーンがある(写真11)。何気ない場面であるが、よく見よう。バスの中に亡霊が映っているのだ。これはまさしく心霊写真の怖さそのものである。

写真11 拡大→

 『女優霊』には、こうした心霊写真効果がいくつか見られる。撮影したフィルムを見ていると、映ってはいけないものが映っていたりする。また、ラストでいよいよ主人公に亡霊が迫る場面があるが、“白い服に長い黒髪”という貞子の原型とでも言うべき亡霊[17]が現れるのも興味深い。

 『女優霊』の後、ホラーでは『学校の怪談f』の一篇『霊ビデオ』(小中千昭脚本)を撮っている。このオムニバスでは『保健室』も撮っているが、特にどうこういう作品ではないだろう[18]。ちなみに、黒沢清による『廃校奇譚』もこの中の一編である。

 『霊ビデオ』は、もしかしたら中田秀夫作品の中では傑作かも知れない。やはり3人の女子高生が主人公で、肝試しに廃屋に侵入する。そして、その様子をビデオで撮影するのだ。すると、撮影したビデオの中に、亡霊の姿が映っているのである(写真12、13)。これも心霊写真効果を利用した秀逸な亡霊表現である。

写真12  写真13

 また、この作品は廃屋の中を歩き回るシーンはとても怖いし、ラストに登場する大口を開けた亡霊は印象的。大口を開けた死体というのは、中田秀夫のお気に入りの表現であろう。『リング2』の深田恭子もかわいそうなことをした。

 中田秀夫はもともとメロドラマが好きなようで、ホラーでヒットを飛ばしたものの、ジャンル映画[19]にはこだわっていないようだ。日活ロマン・ポルノに憧れ、そこで下積みを重ねたという過去もあるし、自ら『女教師日記/禁じられた性』なども撮っている。最近では中田の師匠・小沼勝監督のドキュメンタリー『サディスティック&マゾヒスティック』がある。手塚治虫原作の『ガラスの脳』(2000年/小中千昭脚本)も、「本当はラブ・ストーリーがやりたい」という中田には良いテーマだったかも知れない。



3.黒沢清〜その幽霊哲学


 黒沢清は日本を代表する映画監督の1人で、ホラー作品以外にも多くのフィルモグラフィを持つ。説明の少ない独特の語り口で、難解ながら奥の深いドラマを構築することに長け、多方面から非常に高い評価を受けている。99年には、『ニンゲン合格』、『大いなる幻影』、『カリスマ』(いずれも監督・脚本)を同時に別の国際映画祭に出品するなどして、世界からの注目も集めている。


(1)小中理論の実践〜『DOORIII』


 黒沢が世に送り出した初のホラーは『スウィートホーム』(88年/監督・脚本)である。製作者・伊丹十三の力が大きすぎたためか、思うような作品が撮れなかったようだ[20]。しかし、いくつかの演出は優れているし、この映画はとても怖い。その点においては成功している。黒沢が信奉するトビー・フーパーが、スピルバーグ製作のもと『ポルターガイスト』[21](82年)を監督したのと図らずも似ているのは皮肉と言えよう。91年に『地獄の警備員』(監督・脚本)を撮るが、これはまさにフーパーの『悪魔のいけにえ』[22](74年)。それから、TVの『学校の怪談』を経て、96年に『DOORIII』を撮る。

 この作品は脚本を小中千昭が担当しており、全編に小中理論が溢れている。物語は大して面白くもないし、別にどうこういう作品ではないのだが、“小中理論を黒沢清が実践した”という非常に興味深い一面を持っているのは確かである。

 映画が始まり、つまらないストーリーに呆れながらしばらく見ていると、ある時突然亡霊(らしきもの)が現れる(写真14)。見えるだろうか。壁の奥に赤い服を着た女性が立っているのだ。これぞまさに小中理論である。

写真14 拡大→

 また、主人公が夜道を歩いている時に何かものを落として拾う場面がある。主人公がかがみ込んだ時に、主人公の背後にやはり赤い服を着た亡霊が立っている。他にもいくつかの亡霊登場場面があるが、やはりどれも秀逸である。例えば、車の行き交う路上で亡霊を見るシーンは、亡霊が一瞬だけ車の合間に見える、といった具合である(写真15)。

写真15

 これらの見事な演出は、黒沢清が小中理論を自分のものとしたということを意味する。

 一応書いておくが、この作品で亡霊と思われていたものは、実は違う。物語終盤でそれが明らかになる。


(2)日常を切り裂く空無〜『降霊』


 フィルモグラフィの順序で言えば、『廃校奇譚』が先に来るが、それについては後で触れる。

 1999年、極めて重要な幽霊作品が登場する。TVドラマ『降霊/ウ・シ・ロ・ヲ・ミ・ル・ナ』である。主演に役所広司と風吹ジュン、その周りを哀川翔や大杉漣といった黒沢作品の常連が固める。マーク・マクシェーンのミステリ『雨の午後の降霊術』を原作にしているが、中身は大きく変えられている。原作は夫婦がおかした犯罪をめぐるミステリであるのに対し、このドラマは夫婦が亡霊に悩まされる物語である。疲れた感じの中年夫婦が主人公というのは、なんとも黒沢らしい。しかも、妻は降霊術を扱い亡霊を見るある種異常な人間だ。『CURE/キュア』や『蜘蛛の瞳』の主人公夫婦[23]も、妻の方が何かしら普通でないという点で似ている。

 妻・風吹ジュンは何か新しいことをしようと、ファミリー・レストランのパートを始める。客に風吹はコーヒーを出す。だがその時、客の隣に亡霊が座っているのを見てしまう(写真16)。例のごとく、赤い服の亡霊である。結局、彼女はパートを辞める。そんな時、夫・役所広司が女の子を連れ帰ってくる。誘拐されて逃げ回っていた少女は、役所の機材ケースの中に隠れ、彼はそれを知らずに家まで持って帰ってきたのだ。そこで風吹は功名心を出して、その女の子を自分の降霊術で発見したということにしたいと言う。だが、そうこうするうちに事故で女の子を死なせてしまい、それ以来亡霊が現れるようになる。

写真16

 最初に少女の亡霊が登場するのは、風吹が家にいる時で、風吹の背後にある扉がスーッと静かに開く。そしてそこに緑の服を着た少女の亡霊が立っているのである。それから部屋の角に立つ亡霊を見る。始めは妻にだけ見えて、夫には見えない。だが、いよいよ夫にも見えてしまう瞬間がやってくる。それが問題の場面だが、2人が外で食事をとっている時のことだ。役所がふと見ると、妻の肩に手が乗っている(写真17)。最も衝撃的な場面である。もちろん、黒沢はここで派手な効果音など決して鳴らさない。静かに、ただ肩に手が乗っているのだけなのである。何度見ても怖い場面だ。ドラマは夫の視点で展開しているため、ここで“見えてしまった”という衝撃は役所同様に我々視聴者にも襲い掛かるのである。なんと見事な亡霊登場法であろうか。

写真17

 以降、役所広司の前にも亡霊はバンバン登場する。物語は後半に突入し、恐怖がひたすら加速する。役所が洗濯物を取り込む場面がある。そこでシーツを物干し台からとると、画面奥、家の窓の中に心霊写真のごとく亡霊が立っている(写真18)。また、夫婦が家とは離れた外のベンチに腰をかけていると、遠くの木の下から亡霊がこちらを見ている(写真19)。ただ、見ているだけである。それ以上のことは何もしない。

写真18  写真19

 この亡霊もまた理不尽である。役所の機材ケースに入ったのは少女の方で、いわば夫婦の方が被害者とも言えるのだ。それなのに、容赦なく亡霊は現れる。

 結局最後は警察に犯行がばれてしまい、そこで物語は終わる。亡霊に関しては何も解決しない。

 そもそも、この少女は生きていた時もほとんど喋らないし、妙におとなしい。なぜ死んでしまったのかも分からない。少女の入っていたケースも不自然すぎる。妻は降霊が本当にできたのかどうかも分からないし、亡霊だって、もしかしたら夫婦の妄想かもしれない。日常と非日常は常に隣り合わせにあり、不安定な形で存在している。この作品はそういった非常にセンスの良い曖昧さと不可解さを抱えているのだ。


(3)世界の終わり〜『廃校奇譚』、そして『回路』へ


 『学校の怪談/春の物の怪スペシャル』の一篇『花子さん』は、分かりにくい作品だった。過去に何かしらの事件があり、それを前提に現在の物語が進むのだが、登場人物たちは一切の説明的科白を口にしない。だからあれこれ想像したり、物語が進むのを待つだけだ。加藤晴彦が主演ということもあり、『回路』と重なって見える部分がある。亡霊は絶対に消えない。だが、人間は消える。映画の中では文字通り消えてしまうが、そうでなくても人間はいつか死ぬ。するとつまり、世界は亡霊でいつか埋め尽くされてしまうのだ。『花子さん』において、登場人物たちは廃墟のような学校で次々と消え、最後は赤い服を着た亡霊(花子さん)が、夜の町を歩いているシーンで終わる。それは、世界の終わりを暗示しているのだ。

 『学校の怪談G』の一篇『木霊』(98年/高橋洋脚本)でも、次々と登場人物たちが消えていく。あとに残る黒い染も『回路』と同じである。

 『学校の怪談f』に、『廃校奇譚』[24]97年/大久保智康との共同脚本)という重要な作品が収められている。廃校が決まり、あと2週間ですべて終わる中学校が舞台だ。生徒のほとんどはもう登校してこない。今さら勉強しても仕方がないといった雰囲気で、授業を受ける生徒たちにはまるでやる気が無い。最後の思い出に何かしようという学級委員の提案にも、「何もやらないっていうのはダメなんですか?」という反応。

 そんな学校の中で、主人公の少年は亡霊を見かけるようになる。亡霊はあちこちにいる。友人だと思っていた少年さえ、実は亡霊であることが分かる。屋上から亡霊に手招きされたり、学校の怪談として語られていた亡霊たちが姿を現したりと、亡霊は次々に現れる。そして物語は突然終わる。

 この廃校の決まった中学は、世界の縮図である。確実に終わりへと近付いていく。そして、終末の訪れた世界には人間の死後の姿、つまり亡霊がいる。これが黒沢作品の世界だ。

 無論、この作品は演出面でも非常に優れている。恐怖のツボをきちんと押さえている。例えば、ロッカーから現れるコートを着た亡霊。主人公がベッドに下に入り込んだボールを取るために、ベッド下にもぐり込む。すると、亡霊がやってくる。少年は亡霊の足を見る。だんだん近付いてくる。そしていよいよベッドまで辿り着くと、今度はしゃがみこんで少年を覗くのだ。怖い。

写真20  写真21

 だがそれ以上に、亡霊たちが次々と現れ、主人公は逃げようとするのにその場面は描かれないで終わるところが怖いのだ。象徴的な氷の場面が最初と最後にあるが、これは主人公の少年が亡霊側に引き寄せられて取り込まれてしまったことを示す。

 『回路』(2001年/監督・脚本)には、黒沢清の幽霊哲学が詰め込められている。「幽霊とは何か?」と突き詰めていくと、“人間ではないもの”となる。そして裏を返せば「では人間とは何か?」という問いにつながる。『回路』とはそんな映画だ。

 “あちら側の世界”と“こちら側の世界”をつなぐ回路とでも言うべきものが開かれ、亡霊が次々と現れる。それは人間の死後の姿だ。「人間は死んだらどうなるのか?」という問いに対し、「こうなるのだ」というのがこの作品における亡霊たちである。圧倒的に孤独な存在である。死んで孤独から救われようとしても、無駄なのである。死んでもこうなるだけ、という実例があちこちに現れる。これはもはやどこにも救いは無い。思い出してみよう。予告編でのナレーションを。「死は、永遠の孤独…、だった」。すべての答えがそこに、考えうる限り最も絶望的な状況としてある。

 亡霊は確かに存在する。極めて重要な場面がある。主人公が亡霊と対峙し、幻だと自分に言い聞かせるべく、亡霊の肩をつかみにかかる。すると、なんとつかめてしまうのだ。そこに確実に亡霊は存在し、「幻であれば」という希望を打ち砕く。

 パソコンの画面に、無機質で孤独な人間たちが映し出される。ヒロインは「この人たちは人間なの?」と問う。ある時点までは人間だった。彼らは確かに息をして、ものを食べて血液を循環させている。だが、彼らはすぐに永遠に孤独な亡霊となる。それではもはや人間とは言えないのだ。ニンゲン失格である。

 『回路』に登場する亡霊は、やはり小中理論に基づいている。そして、とても怖い。これほど怖い映画はそうはない。『DOORIII』で、亡霊(礼子)が部屋の奥から近付いてきて、ソファの向こうに隠れた主人公を覗き込む場面があるが、何としたことか、『回路』でまったく同じ場面がある。“開かずの間”に黒い服を着た女性の亡霊が現れる。亡霊が次から次へとバンバン現れるためか、象徴的な赤色のドレスは消え去り、今にも闇と一体化しそうな黒服がこの映画の亡霊を包んでいる。暗闇をよく見てみると、そこに亡霊がいる。開かずの間に現れた亡霊[25]は、『DOORV』、『夏の体育館』のごとく奇妙な動きで主人公に迫る。そしてソファを覗き込む。ソファにスッと亡霊の手がかかり、じわじわと顔が現れる。これまでの幽霊映画を遥かに凌駕する、屈指の恐怖シーンである。

 それから、図書館に子供の亡霊が現れる。本棚と本棚の間をよぎるのである。本棚の陰からこちらを覗いていたり、主人公の背後で壁際にスッと立っていたり。心霊写真効果とも等しい演出である。


終わりに


 主に、鶴田法男、中田秀夫、黒沢清の作品を取り上げて、亡霊の登場について書いてきた。『回路』については、いずれまた考えてきたいと思っている。ホラー映画、ことに幽霊映画なんていうと、どうしても文学的価値が無いように聞こえる。これまで、ホラーが文学として認められない時代が長く続いた。だがこれからは違う。いつか幽霊映画も文学として認められる日が来るだろう。


参考文献


● 黒沢清『映画はおそろしい』 2001年、青土社

● 原田智生・村田秀樹監修『日本恐怖映画への招待』 「別冊太陽」、2000年、平凡社

● 「リング2」研究会編『リング2/恐怖増幅マガジン』 1999年、角川書店

● ビデオ&DVDでーた編『リング0恐怖増幅マガジン/The貞子』 2000年、角川書店

 文を書く上で、データとして使用したものを挙げた。実際にはかなり多くの数の本を読んだし、多くのホームページを閲覧した。映画雑誌に関しては、一般に売られているものには一応目を通しているが、特に『映画秘宝』、『キネマ旬報』、『プレミア日本語版』で得た知識は多い。


注釈

[1] 一部では日本最高の映画と評される『マタンゴ』(63年/本多猪四郎監督)、『吸血鬼ゴケミドロ』(64年/佐藤肇)など。

[2] いわゆる“お化け屋敷もの”、“幽霊屋敷もの”のこと。

[3] 瀬名英明が優れた作家であるかは別にして、映画より原作の方が俄然面白い。映画を見た瀬名は激怒したのではないか?

[4] 簡単に言うと同時上映のことではあるが、デュアル(決闘)という言葉から、2作品が競い合って製作されたことが分かる。当然ながら、結果は周知の通りである。

[5] 『呪怨』という作品はよく出来ているし、とても怖い。オムニバスの形式をとりつつも、すべてが重なった物語であるというパズルのような構造が面白い。『学校の怪談G』の中の『片隅』、『4444444444』もその一部で、それらを知っているとより物語が見えてくるというのも、気の利いた仕掛けである。

[6] 僕が見るのである。

[7] 実際に惨殺事件が起きて廃墟となった村。地図からも抹消されている。ちなみにこれらのドキュメンタリーは『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』(あるいは『食人族』か)のパクリにしか見えないのもまた事実。

[8] 誤解が多いのだが、『ほんとうに〜』でも『本当に〜』でもなくて、『ほんとに〜』である。鶴田自身、ホームページで強くそれを主張している。

[9] 鶴田作品の多くは、主人公が少女である。いわゆる美少女ホラーの原点もここにあると思われる。

[10] 三隅研次による『四谷怪談』(59年)の場合、伊右衛門は悪人ではない。

[11] 黒沢清の作品は、よく難解であると言われる。それは一切の説明を省いて物語が展開するからである。それが余計に亡霊の理不尽さを増幅させるが、『学校の怪談』において『花子さん』はやはり不親切である。だが、TVだろうと子供向けだろうとお構いなしに哲学的方向へひた走る黒沢の毅然とした作家としての姿勢は素晴らしい。『回路』は暴走しすぎとの説もあるが…。

[12] 度胸試しに花子さんを呼び出す少年たちの物語で、ホラー色は薄いが黒沢の亡霊演出は興味深い。

[13] 18431916年。アメリカ文学史上、最も重要な人物の1人で、独特の亡霊観は興味深い。『ねじの回転』始め、映画化された作品も多数ある。一般的には『ホーンティング』のパクリだと思われている『ホーンティング・オブ・ヘルハウス』も彼の原作による。画面の奥をスッと亡霊が横切るなど、その亡霊観はやはりヘンリーのもの。

[14] “学校の”ということもあろうが、鶴田作品の主人公はみなかわいらしい女の子である。黒沢清なんてまったく逆で、中年男性ばかり主人公になる。どうしたものか。

[15] “もう1人の貞子”は、まるで『ジョジョの奇妙な冒険』のスタンド(幽波紋)である。

[16] 触れることによって、そこにある記憶などを読み取ることが出来る。デヴィッド・クローネンバーグの傑作『デッド・ゾーン』ではクリトファー・ウォーケンが孤独なサイコメトラーを演じている。個人的にはクリス・カーター製作によるドラマ『ミレニアム』で、ランス・ヘンリクセンが演じたフランクがお気に入りだ。

[17]
とにかく私はその亡霊の顔が怖くてたまらない。貞子とは全然違った方向で人間離れしている。ラストに関しては、いわゆる小中理論とも違って顔は鮮明に映り、大口を開けてゲラゲラ笑う。極めて理不尽な笑いだ。思い出すだけでも怖い。

[18] 仮病で体育をサボッて保健室にきた小学生の女の子が妙なお化けを見る話。女の子が可愛らしい。

[19] ホラーやSFなどの類。

[20] 伊丹十三との間には、報酬の問題で裁判まで起こっている。

[21] スタッフやキャストの怪死でいわくつきのシリーズ。テレビがこちらの世界とあちらの世界を隔てているイメージなどは、『リング』につながるものだ。

[22] ホラー映画史上屈指の名作とされる。殺人鬼の理不尽ぶりが非常に怖い。

[23] CURE/キュア』の妻は精神病院にいて、たえず不可解で不気味な言動をとる。『蜘蛛の瞳』の場合は、妻は殺された娘の亡霊を見る。

[24] 実は高橋洋が校長先生役で出演している。

[25] この亡霊は、髪が短い。『回路』ではこれまでの小中理論とは違うアプローチを見せている。

古内旭

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