「創氏改名」は朝鮮人が望んだ。日本はハングル普及に貢献。

麻生太郎(自民党政調会長)は発言を撤回し、
         謝罪、辞職せよ!!

過去を克服できない日本。重大発言を問題にもできぬ日本。翼賛体制で新たな戦争準備へ!

 戦時体制法=有事法が、90%の議員が賛成した翼賛国会(衆院)で通過した直後、暴言が飛
び出した。

『当時、朝鮮の人たちが日本のパスポートをもらうと、名前のところにキンとかアンとか書い
てあり“朝鮮人だな”と言われた。仕事がしにくかった。だから名字をくれといったのが、そ
もそもの始まりだ』

『日本はカナ文字を開発した。おたくらにもそういうのはないか、と言ったらハングルができ
た。日本の植民地統治は教育制度を整え、ハングル普及に貢献した。』『あちらはあちらで勝
手だ。我々はわれわれできちんとやればいい。歴史認識は一緒になるわけがない』
(5・31東大学園祭での麻生発言)
 ひと昔なら、大問題の末、間違いなくクビになった。ところが、どうだろう。本人は、翌日、ケロリとした
顔で「言葉がたりなかったため、真意が伝わらず残念だ」と。発言撤回など考えも及ばない。これをまと
もに追求する野党すら存在しない日本…。自浄能力を壊失した日本…。
 来日したノ・ムヒョン韓国大統領の次の言葉は、私たちにズシリと重い。
『歴史問題は日本人が解決すればよい。アジアから信頼されるには、そうすればよい…』
 以下、知られている基礎的な事実をもってして、麻生発言のインチキを暴露・糾弾する。

T.朝鮮人を、日本の侵略戦争の尖兵に使う政策=皇民政策

  

【「皇国臣民ノ誓詞」は1937年制定。学校はもちろん、会社、工場、役所などでくりかえし唱和させら
 れました。】

1、 私たちは大日本帝国の臣民であります。
2、 私たちは互いに心を合わせて天皇陛下に忠義を尽くします。
3、 私たちは忍苦鍛錬して立派な強い国民になります。

 日本が「満州事変」・日中戦争と本格的に中国への侵略戦争へ突入していく中、植民地下の
朝鮮人に、毎日、唱えさせたのがこの「皇国臣民の誓詞」である。
日本の戦争に積極的に協
力・推進できる朝鮮人を作り上げるためであった。
この皇民化政策は、日中戦争(1937)
と共に強化され、「国旗・日の丸への敬礼」、「国歌・君が代斉唱」、「東方(日本の皇居)遥
拝」、そして、「キリスト教会の閉鎖=神社参拝」が、学校・職場・地域で、矢継ぎ早に強制
された。

 このような、朝鮮人のこころ・精神(民族性)を奪う徹底した政策は、「朝鮮語(ハングル)
の抹殺=日本語の強制」と「日本名の強制=創氏改名」によって完
成したのである。(その結果
が、日本兵としての徴
兵・徴用につながっていった)

U.ハングルを禁止し、日本語が強制された

    

   【小学校での習字の練習】           【拷問される朝鮮語学会の学者】

 日本政府は言語政策の基本方針として「帝国臣民としての資質と品性をそなえるため、
国語(日本語)を普及させる」とした。

 第三次朝鮮教育令(1938)で、「国語(日本語)の時間数を、全教科の2分の一とし、他
の教科すべてを日本語で行う」とした。日本語の普及をはかるため、学校だけでなく公務
員・警察・憲兵などに講習会への受講が義務づけられ、朝鮮語の新聞『東亜日報』『朝鮮
日報』も廃刊となった(1940)。また、朝鮮語研究団体・「朝鮮語学会」は“民族独立
運動団体であり治安維持法違反にあたる”として、会員は逮捕・拷問投獄され、解散させ
られた(1942)。学校では、朝鮮語を使った子供には、罰として首に「私はうすのろで
す」という札をかけられ迫害されたのである。

 麻生よ!“日本の教育制度がハングルを普及させた”だと! 『口でしゃべった(墨で書いた)
歴史は、血で書かれた歴史をかき消すことはできない』(魯迅)ことを知るべきである。


V.「創氏改名」の実態

(1)朝鮮人にとっての「氏名」
 朝鮮人にとって「氏名」は特別の意味がある。
 始祖から始まって、代々の家系を記録した「族譜」は火事の時でも一番に持ち出さなければ
ならないほど大切なものとされている。「氏名」は単な「名前」ではなく、その一族の歴史
であり、自身の存在基盤(アイデンティティー)でもある。日本政府はそれに手をつけた。朝
鮮語と同様、朝鮮固有の文化・伝統は、皇民化政策のジャマになったのである。

 1937年から、姓名問題に取り組んだ日本政府は、40年に「朝鮮民事令」を改正施行。
「朝鮮人は半年以内に、日本式氏名を届けること」とした。『創氏改名』である。町郡村警
察には、日本名に改名する人たちで列ができた。

「ぼくたちは名前を失ってしまった。ぼくの名前はなくなった。この人たちも警察へ入った
とたん名前を失くしてしまう。あの半分ガランとした大部屋に入って、ダークブルーのイン
キ壷にひたしたペンで、“新しい”日本名をあの大きな台帳に書き込まれたとたんに…」
(リチャード・キム『名を奪われて』)


(2)「強制された」のであり「望んだ」のではない
 麻生に限らず、従前から日本政府は「創氏改名」は、“朝鮮人の希望をくんで行われた善政
である”“強制ではなく、任意届け出制であった”と言ってきた。

 しかし、創氏改名をしない人に対して、次のような迫害・弾圧が加えられたことを見れば、
「強制」以外の何ものでもないことが分かる。

1.子供の入学・進学を拒否する
2.公務員に一切採用せず、現職者は漸次罷免する
3.行政機関での事務取り扱いを拒否する
4.徴用の対象となったり、物資の配給から除外する
5.鉄道局や運送店で、荷物の取り扱いをしない
…などなど

(3)創氏改名への抵抗
 朝鮮人はこの制度に強く抵抗した。創氏改名を拒否して自殺した人(薛鎮永、柳健永ら)、
裁判闘争にまで持ち込んだ人(文昌珠)などもあったが、たとえ応じた人でも「南太郎」(朝
鮮総督の名前をもじった)や、「犬糞倉衛(いぬくそくらえ)」、「田農丙下(てんのうへい
か)」、「江原野原千代田」(エハラノハラチヨッタ・朝鮮語で“世の中終わり。もうどうで
もいい。”の意味)、「鉄甚平」(朝鮮名の金を失っても甚だ平気だ)など、まともな名前を
つけないことで抵抗の姿勢を表した例も少なくなかった。

 しかし、多くの抵抗にもかかわらず、期限までには約80パーセントの人が「新しい名前」
を届けざるを得なかった。この数字こそ、「創氏改名」が望まれたものではなく強制であっ
たことを物語っている。

W.祖父は朝鮮人強制連行によって大もうけした
 麻生炭鉱の創始者・反省なき日本人の典型!


  

  【北海道安平市内のタコ部屋で虐待された土木労働者】

 麻生太郎には、朝鮮人への差別意識がその根底にある。
 祖父は九州で有数の麻生炭坑の創始者である。すでに、1930年代初めから朝鮮人を使い、
32年には過酷な労働のため耐え切れなかった朝鮮人労働者によるストライキ闘争が起きて
いる。

 強制連行が本格化した1940年代には、約8000人の朝鮮人がこの炭坑で酷使された。
 九州最大の強制連行炭坑であった。まさに朝鮮人の血によって麻生家は肥え太ったのである。

 こうした過去を克服できない太郎は、公然と過去に開き直り、歴史まで改ざんしたのである。
 この低劣な人物が、あの「北朝鮮武力制裁論者」安部晋三とともに、今や、わがニッポンの
次期首相、ともてはやされている。このような人物を、今、日本の政治・社会が求めていると
すれば、その行く先は、ノ・ムヒョン氏のいう“アジアから信頼”とは対極にある“アジアか
らの不信・アジアへの対立、蔑視・そして戦争”へと向かう自滅の道のみである。
(了)