(岩波書店・1995円)
歌舞伎の入門書は山ほどある。しかし大抵は初心者向けである。ところがこの本は三津五郎が中級者--もう歌舞伎を何度も見て、さらに先へ進みたいと思う人たち向けの案内書として作った点が珍しい。それにしては年に何回も出るような演目の筋がご丁寧に書かれているのがわずらわしい。中級者向けなら要らぬお世話。ナァニそこは飛ばして読めばいい。
さて一読すれば三津五郎のしゃべっていることは、きわめて常識的で、淡々としているように見える。しかしよく噛(か)み締めて読むとなかなか味わい深い。それだけでなく、芸の秘密から今日歌舞伎の直面している問題を浮き彫りにしている。そこを読み取れば、この本は凡百の芸談を超える値打ちをもっている。
たとえば三津五郎は、六代目歌右衛門と七代目梅幸を比較してこういう。歌右衛門のすさまじい気迫を見れば、はじめて見た人も「あの人はすごい」と思う。しかし梅幸の芸は一度見ただけではわからない。他の役者で同じ役を見た時、はじめて梅幸の芸のすごさがわかる。梅幸はどんな観客にも変わらず、自分の芸のペースを崩さなかったからである。
その通り。そこが芸の深さであるが、三津五郎のこの言葉の含蓄を味わうためには観客にも多少の修行がいる。この話を読んで私は初代嵐雛助という江戸中期の名優の逸話を思い出した。雛助は息子が観客の歓声を受けているのを見て烈火のごとく怒った。お前の芸の受け方を見ろ。あの受け方ならば今日は受けても明日になったら誰も覚えていない。見た人間が一生忘れられない芸をしろ。
三津五郎も役者だから拍手が欲しい。しかしたとえば「勧進帳」の弁慶の花道の引込みでまだ芝居をしているうちに来る拍手は困る。観客も問題なのである。
一方今日の歌舞伎にはそうばかりもいっていられない状況がある。たとえば三津五郎はいまにも世話物の真の味わいが滅びようとしている現状を痛感している。そのなかでどうするのか。そこで三津五郎は歌舞伎について深く思いをいたさざるを得ない。歌舞伎の「型が一つ出来上がるまでに、いったい何人の人が携わってきたか。ここに来るまでに、いったい何人の人のお墓がそこに立っているのか」。それを考えれば苦しくとも歯を喰(く)いしばって古典を守っていかなければならない。その歌舞伎役者の苦悩が読者の胸を打つ。苦しんでいるのは三津五郎一人ではない。ほとんどの歌舞伎役者が直面している問題だろう。
古典を死守することが自分の役割であることを知った三津五郎は、埋もれた古い型を復活する。たとえば「鎌倉三代記」の佐々木高綱の芝翫型(しかんがた)を復活した。新作を上演することも大事だが、一方でこういう地道な古典復活も重要。伝承は同時に新作以上に難しい創造でもある。
芸の道は決してやさしくない。たとえば三津五郎は「絵本太功記」の武智光秀を演じて、母と息子の死を目前にして光秀が動かずにいるのがどんなにつらいかを語る。
私も三津五郎の光秀を見たが、三津五郎は踊りがうまいだけについ体が動く。軽くなる。軽くなれば時代物の大役として舞台に根が生えたような、この役の存在感を失う。私はこの芸談を読んでそのつらさがわかる気がした。それは母と息子の死にたえる男のつらさであると同時に、歌舞伎の時代狂言のもつ格調をつくるためのつらさだからである。
こういう話をもっと突っ込んで聞きたい。中級者向けの入門書としてもその方が読者をさらに奥へ導くのではないか。
毎日新聞 2008年9月14日 東京朝刊