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とあるSNSの管理人 と名乗る人に思うこと 投稿者:幽霊食口 投稿日:03/08(土) 16:16
とあるSNSの管理人・・・・・と名乗った方は、どうやらヴェルダンディーさんじゃなかったようです。 じょじょまるさんが色々書いて下さったおかげで、とあるSNSの管理さん=ヴェルダンディーさん という可能性はかなり小さくなったと思います。 ということは・・・・・・・・ヴェルダンディーさんに負けず劣らずのあほがまだまだ居るということですねぇ・・・・・・・・・・・・・・・・ はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ しかも、かなり大規模なSNSの管理人・・・・・だそうです。 ここを読まれている食口の方、お知り合いの食口に忠告してください そのSNSから早く逃げるように。 システムも危ないですが、運用も危ない。システムは人によって管理されます。よって運用する人物の資質が元来的に重要なのです。 その人物が、じょじょまるさんが書いていたような資質であり、また、姉御さんのブログに現れた”とあるSNSの管理人”さんと同じなら、必ずや、大問題と被害を出します。 とにかく逃げろ・・・・と。 とあるSNSの管理人 と名乗る人に思うこと 幽霊食口 - 03/10(月) 08:33 じょじょまるさんのところで、このSNSのシステムを読みました。 なるほどこのシステムなら、ヴェルンダンディーさんの証言と”とあるSNSの参加者”の証言がほぼ一致し致します。 で、”とあるSNSの管理人”さんの証言は嘘とまでは言わないまでも、かなり事実ゆがめた証言であったわけですね。 さて、問題はある人は実名を公表された状態で、ある人は別名で居る状態と言うのは、実名登録と言うだけでも犯罪を誘発するシステムなのに、更に、犯罪を助長するシステムです。 こんなシステムを考えた管理人さんの顔を拝んでみたいものです。 これで運用がまともなら救いようがあるんでしょうけどねぇ・・・・・ こんな犯罪誘発システムを作り上げれば、その管理人は犯罪を犯す人と同罪です。 まったく・・・・何を考えているんでしょうねぇ・・・ 加えて、そんな管理人が膨大なデータを得ている。 危険です。 とあるSNSの管理人 と名乗る人に思うこと じょじょまる - 03/10(月) 19:46 [削除] こんにちは。じょじょまるです。 ご理解いただき、ありがとうございます。 某SNSは、まじで、やばいです。 某SNSを本部に報告しなくっちゃと思って、整理しながらブログを書きましたが、ブログを自分で読み返してみても、怖いです、あのSNS。 誹謗中傷の放置は、管理人も、会員も、同罪です。 とあるSNSの管理人 と名乗る人に思うこと 幽霊食口 - 03/10(月) 21:29 >じょじょまるさん ようこそおいでくださいました。 まったく何を考えておられるんでしょうかねぇ? 食口達は、世間知らずでお人よしがほとんどですから、”全員食口””全員実名”と思い込んだら、個人情報だろうがなんだろうが無防備で出してしまうでしょう。 ところが、実際はそうじゃないわけです。ヴェルダンディーさんみたいな悪意の固まりみたいな人にとってみれば、どれほどおいしい状況でしょうか? じょじょまるさんが書かれている事から判るように、個人情報を得、悪用しています。この状況に対して、この管理人さんはどう責任を取るのでしょう? 確実に悪用している人が居るのです。 自らシステムを悪用し、犯罪を犯しておき、その管理人さんを危機に陥らせながら、彼女はあわよくばその管理人さんを味方に引き入れようと画策し始めました(その実、実名で呼びかけて復讐しており、悪意と打算に汚れた記事をアップしてますね。詳細に批判してもよいのですが・・・風邪でTT)。 普通なら、ヴェルダンディーさんに引き入れられる心配はしませんが・・・・。 とにかく、そのSNSに入っておられる方は逃げてください。 じょじょまるさんの記事からもう一つ読み取れるのは、個人情報が漏洩している可能性が高いということです。 実名だけで、詳細な経歴や住所などが判りますでしょうか? 通常、登録するようになっていたとしても、そのような内容は登録管理者しか判らないはずです。 つまり、不法に奪取した可能性が高いわけです(もっともそこまで、ごく普通に表示するシステムならば別ですが) ですから、個人情報を完全に表示するシステムでもなければ情報漏洩は確実です。 出来れば、個人情報の完全破棄と確認を求める行動を取ってください(裁判所に)。 また、個人情報の漏洩は重大過失の一つです。個人情報の漏洩はほぼ間違いなければ、それに対して刑事告発を行う準備をしてください。 また、現在、情報を入手した人物がネット上では確定されていますので、そちらも刑事告発の対象となります。 速やかな、対応をすることが先決だと思われます。 じょじょまるさんは、ここまで・・・と思われるかもしれませんが、個人情報漏洩は、新聞でもつどつど取り上げられるように、重大な犯罪です。 私は速やかに対応するべきだと思います。 じょじょまるさん、せっかく来られたのに、こんな話しか出来ないのが残念ですね。 皆さんによろしくお伝え下さいm(__)m。 Re: とあるSNSの管理人 と名乗る人に思うこと じょじょまる - 03/11(火) 19:26 >食口達は、世間知らずでお人よしがほとんどですから それが問題の根幹を見えなくしていると思います。 管理人さんはいい人!SNSの交流はすばらしい! ・・・ということと、あたしが騒いでいる問題は、別問題。 別問題というか、 あたしが騒いでいる重要な部分をなおざりに、ちょっと、SNSが大きくなりすぎましたね。 とあるSNSの管理人 と名乗る人に思うこと 幽霊食口 - 03/11(火) 20:20 >じょじょまるさん >それが問題の根幹を見えなくしていると思います。 >管理人さんはいい人!SNSの交流はすばらしい! ・・・ということ >と、あたしが騒いでいる問題は、別問題。 そうだと思います。 カエサルが言っています。 ”どんなに悪い結果に終わったとしても、その始めは善意によってはじめられたものだ” どんな物事でも、その結果を予想しないで行動すると悪い結果になる可能性が大きいものです。 私としては、SNSの管理人さんが責任を回避せずに、真正面から取り組むことを願っています。 間違いを犯すことよりも、間違いを修正できないことのほうが罪深いと私は考えていますから。 罪を犯すことにおびえて、現状のままで居るよりも、罪である可能性は視野に入れながらも前進すべきである。 そして、間違いであることが判ったら、速やかに修正し、悔い改めればいい。 私はそう思います。 さて、なんか反響が来ていると思いましたが、姉御さんが取り上げられたんですね。 ありがとうございますm(__)m。 せっかく反応がございましたので、もう少し説明しておきます。 情報漏洩に関して調べた方も居られるでしょうけど、故意でなければ、管理人さんに刑事責任はありません。 但し、現在は故意かどうかはわかりませんから、刑事告発の対象になります(情報漏洩が本当であればですが)。 業務に不必要な情報の伝達以外に、伝達した場合に漏洩の対象となります。 つまり、ヴェルダンディーさん以外の人に伝達してた場合でも、その人経由で伝わっていても情報漏洩にあたる可能性が大きいわけです。 ここらあたりの経緯が判らない限り、刑事告発の対象となるわけです。 それと、情報を漏らされた方は確実に民事責任を問えます(その人がSNSでその内容を公表していた場合は微妙ですが。但しヴェルダンディーさんには確実に慰謝料の請求は認められるはずです。管理人さんに管理責任を問えるのかが微妙ということです)。 ちなみに、ヴェルダンディーさんは天法上の犯罪者であると同時に、地法のうち民法上の加害者であること、刑法上の犯罪者である疑いが濃厚になって来ています。 とあるSNSの管理人さんは速やかに情報の開示を会員に行うべきでしょう。 情報漏洩された方が、SNSでその情報を公表されておられれば、管理人さんの刑事責任はありません。管理責任は問われる可能性はありますが、それは民事責任のうち過失に対する責任です。 一方、ヴェルダンディーさんは、情報が公表されていないもので、不法に取得されていれば、確実に刑事責任が問われます。 情報が開示されていなくて、情報入手先が他の人物で、なおかつSNSの登録情報であるとは知らされないで情報を取得して他の人物に開示したけれど、民事上の損害を発生させていない場合ならば、刑事上民法上の責任は問われないものと思われます。 逆に言えば、ヴェルダンディーさんがその情報をSNS登録情報であると知っており、その情報を取得する為に第3者などに依頼した場合、その第3者と共に何らかの刑事・民事の責任が発生すると思われます。 なお、SNSの公開情報であっても、SNSの規約が他の箇所での情報の開示を禁止しており、なおかつ、個人情報(←これが重要です。経歴・住所・氏名等。発言などは保護対象であるとはみなされない可能性が大です)を他の人物などに開示した場合、民法上の損害賠償及び慰謝料請求の対象となります。 さて皆さん、私はSNSのシステムを知りませんし、漏洩された方の情報も知りません。状況も完全に把握し切れていませんが、非常に深刻な状況下にある可能性が高いとして、警告を発しています。 速やかに対応をなされたほうがよろしいと思われます。 (ヴェルダンディーさんが極めて悪質な反対者に情報を流している可能性も高いのです。情報を売っているのは、この掲示板を読まれればお分かりのように私は太鼓判を押せる状態であると言ってもよいでしょう。) とあるSNSの管理人 と名乗る人に思うこと ちんぐ2003 - 03/12(水) 12:52 お久しぶりです。 横レス失礼します。 ずっと経緯を見ていたのですが、 話題に上がらなかった事項で、気になったのがSNSのネーミングです。 SNSのあのネーミングのおかげで、食口専用としては巨大なSNSに育ったように思います。 「天一」という名称が教会公認という雰囲気を作り出しますが、 これまで幽霊食口さんやじょじょまるさんが議論されてきた内容を読んでみると、 個人的に始まったSNSのように思えました。管理もしっかりとされていないようだし。 教会公認でない以上はあのネーミングは自粛すべきであるということ、 このあたりも議論されて然るべきではないか、と思います。 第三者の意見としてあげておきます。
信仰と救いとアイデンティティー1 投稿者:幽霊食口 投稿日:08/14(火) 02:03 同時性について書こうと思っていますが、資料・文献を揃える暇がなかなかありません。 記憶だけに頼って書くのも(固有名詞類は大幅に忘れているし(笑)・・・年ですねぇ)危険ですし((何せ・・・・新説(珍説・奇設?)ですから(笑))、準備がすむまで、このまま、つらつらと思うことを書いていこうかと思っています。 最近思うことは、統一食口に限らず、信仰と救いというものの本質をほとんどの人が間違って解釈して居るのではないかと言うことです。 信仰とは何かというと、素朴に考えれば、ある一定の教えを学ぶことによりその指し示すものを信じるとか、信仰の対象の人物なら人物の業績・行い・奇跡的な事柄を信じるとか、まぁそういう事な訳です。そうすることによって、ある一定の救い的内容の恩恵を受け(様々なレベルの恩恵なんでしょうが)幸福を増進させると言うことに他ならないわけだと思います。 しかしながら、様々な人の意見を聞いていると、多くは“信仰=宗教団体に所属する”であり“宗教団体に所属する=究極的救いの恩寵の受益の権利の確保”となっているのではないかと言うことです。まぁ、現在の日本の状況を見ると既成の仏教や神道などは、そういうところは薄まってきている、もしくは無いと言っても良い信仰もありますが、逆にそういうところは求心力がほとんど衰えてきているように思えます。 素朴に考えれば、信仰を持つことと宗教団体に所属することは別物であり、因果関係はあっても、イコールではないわけです。また、信仰と救いも因果関係はあるもののイコールではないわけです。また、”信仰を持つから宗教団体に所属する”は因果関係にあり、”信仰を持つから救われる”は因果関係にあるのですが、宗教団体に所属することと救いは本質的な意味合いで、無関係であるわけです(前話した一つにまとまる事が義なる時代に入ったと書きましたが、この考えにはいささかも変更はありません。これは少し別のお話ですので誤解されませんようにm(__)m)。 何故、こういう混同が起きているのかというと、私は救いというものの観点が大きくずれている事と信仰を持つ人のアイデンティティーの確立が未熟であるためではないかと考えています。 救いとは何か、かなり定義が曖昧です。 というのも人が求める救いが様々だからだろうと思います。例えば稲荷信仰に見られる商材繁盛や太宰府の学問成就などの現世利益の信仰も現世的救いだし(尤も、こういう例ではあまり教団などはありませんので、これらの信仰は先ほどの混同現象は殆ど見られませんが)、悟りを開いて心の迷いを開き彼岸に赴くといったものは、精神的救い・霊的な救いな訳です。 問題となるのは、強固な教団などをもつ宗教となるわけですが、教団をもつ宗教の特性としては、現世利益的側面も持つものも多く見受けられますが、多かれ少なかれ精神的・霊性的側面も持つところが多いわけです。 物質的・現世的な救いと言うのは少々レベルが違う話になりますので議論からはずします。 それでは、精神的・霊性的救いの本質とは何か? それは、人によって多少の変動はあるとしても、要約すると自らの内の執着や争う心などが無くなることによって、精神的・霊性的な安寧等を確立させることによって、現世的幸福感の増進、もしくは、来世的な世界において不幸がない世界に行く、もしくはその権利を持つ・・・とでもなりましょうか。 食口的に言ったら堕落性を脱ぎ人格を完成させ天国に行く・・・といったところでしょうか。 -閑話- 統一原理からすると堕落性を脱ぎ・人格を完成させ・家庭を完成させ・心情圏を完成して霊界に行くとなります。霊界トークでよく言われる功労・・・とかは本質的には論理的に無関係です。天国とは霊界のある一定の固有場所のことをいうのではなく、天国を作ることができる人物達が社会を形成する場所の事を言うわけで、人格・心情圏のみが天国を作る(入れるではありません)条件であるわけです。 尤も、霊界通信とかでは・・色々では階層に分かれているとか、天国の門とか・・・天国とは何か霊界の具体的な場所を指しているような表現が多々あるのですが、理論的には人間が堕落して、堕落した人間が霊界に行き、自分にあった基準の者達が集まって地獄が現出したわけで、境界が設けられているなら、地獄というものを囲った形であるわけなはずです。従って、地獄というのは霊界のある特定に地域を指している可能性はあるわけですが、天国というのは地獄以外の場所の不特定地域な訳で、天国が霊界の特定地域をさすと理解するのは間違いだと思われます。 で、霊界話をややこしくしているのは功労話なわけです。功労があれば天国に行ける・・・・的な発想ですね。これは統一原理からすれば、理論的に明確に間違っています。人格・心情圏を完成していない人間が天国に行っても・・・そこが地獄に変化するだけの話です。 功労とは、要は 人格形成や心情圏完成を邪魔している要因を神様が特別な権限でもって、蕩減してくださるとか取り除いてくださるとかの条件と言うだけであって功労があろうがなかろうが、天国に入るためには、天国を作ることが出来る人間でなければどう逆立ちしても無理と言うことになります。、 私としては、多くの人が救いに対する観点が大きく外れている現状では、功労話を強調することは危険だと思うのですが・・・。 -閑話休題- 救いに対する観点がずれていると書きましたが、それではどこがどうずれているか? それは、閑話で書いた功労話や”救われる”と表現煮に見られる、救いと言うものが・・・・自らの外側からもたらされてくるという発想なわけです。 救いというものの本質に、きわめて肉薄しているのは、実はキリスト教ではないと考えています。イエス様は教えられていますが、キリスト教に救いの本質を突く教義は残念ながら無いように思います。 私が思うに、この救いの本質に肉薄しているのは浄土真宗・・・・というか親鸞上人であり、救いの観点と言う一点だけ捕らえれば、親鸞上人はキリスト教を凌駕していると思います。 こう書くと、多くの食口から、親鸞上人こそ他力本願、念仏仏教の始祖、念仏さえ唱えれば誰かが救ってくれるという思想の提唱者、しかも厳しい求道の道に負けて妻帯を・・・しかも2回行ったと破戒者・・・・馬鹿にしたような声が聞こえてきそうですが・・・そういう人達は、表面上の言葉尻や行動で批評をする愚か者だと思います。 親鸞上人は救いというものを一生涯をとおして求道した先覚者です。この一転に集中し求道した結果、キリスト教よりもイエス様の教えに肉薄することになった稀有の人物です。難解な仏教教理を捨て、救いというものの本質を追い求め、その結果、法然上人にたどり着き、更に追い越していきました。 その教えの根幹が、”善人なほもて往生す、いわんや悪人をや”という悪人正機説と絶対他力という思想なわけです。 実際は、法然上人も悪人正機説を説いていますが、法然上人の場合自力信仰の影を色濃く引きずっているわけです。弥陀の本願は悪人を救うことにあるから、悪人だといってあきらめることはない。正しい行いを行いなさい。これが法然の思想であるわけです。 これは、この上もなく正しいことのようで居て、実は落とし罠があるわけです。正しいことと判断するのは誰か?それは自分・・・平易な言い方をすれば、我の部分なわけです。統一食口向けにいうならば、堕落性がくっついて、知的に混沌としている自分が判断しているわけです。正しいと事をしているつもりが悪しきことをしている可能性が強いわけです。 これはいかにもまずいわけで、親鸞上人はこれに気付いてこれを修正しようとした結果、絶対他力という境地に入るわけです。 救おうとするしておられる阿弥陀如来によって救われるのですが、救われたいと志向する心の動きも阿弥陀如来からの働きかけであるから、結局は全て阿弥陀如来に任せて、己という存在を捨てて、一心に阿弥陀如来を唱え、阿弥陀如来からくる心の働きに従って生き、救われましょう。 これを、統一食口向けに書き換えると、良心とは自らの中の神であり、自らのうちの救いを求めて善を志向する心も神によって与えられたものでああるから、神の御名を一心に唱えることにより良心を喚起させ、堕落性がくっついた自分の判断を捨て、ただひたすら良心の声にしたがって生活しよう・・・・ということな訳です。 つまり、親鸞上人の絶対他力とは、純化した自力信仰であるわけです。特別な修行もいらない、ただひたすら良心に従って生きる。そしてその救いを、他の人にも生活を通して広げていく。また、良心に従って生きるとき救いは確定し、救われる・・・・これが親鸞上人の思想なわけです。 そして、この思想を具体化すためにあえて、妻帯していくわけです。 親鸞上人は、日本が世界に誇れる宗教家です。救いの本質について、ここまで迫った宗教家は、イエス様とお父様以外は絶無じゃないかという気がします。 次は、親鸞上人が越えれなかった壁と、救いの本質(とアイデンティティーの問題・・・・まで進めるかな・・・・)など書いていきます。 信仰と救いとアイデンティティー2 幽霊食口 - 08/14(火) 22:25 先に進む前に、修正です。大チョンボをしていましたm(__)m。 >これを、統一食口向けに書き換えると、良心とは自らの中の神であり、自ら >のうちの救いを求めて善を志向する心も神によって与えられたものであある >から、神の御名を一心に唱えることにより良心を喚起させ、堕落性がくっつ >いた自分の判断を捨て、ただひたすら良心の声にしたがって生活しよ >う・・・・ということな訳です。 と書きましたが、少し違います・・・・お詫びし、修正いたします。 親鸞上人の思想では、阿弥陀如来から来る心に従って、それに身を任せ生活すこと自体で、来世での救いが確定し、来世の救いが確定する事によって現世でもある意味救われた状態になっている・・・・という事であり、阿弥陀如来の称名は感謝の意味での称名となります。 したがって、”神の御名を一心に唱えることにより良心を喚起させ” という表現は誤りです。 したがって、上記の文章は これを、統一食口向けに書き換えると、良心とは自らの中の神であり、自ら のうちの救いを求めて善を志向する心も神によって与えられたものであり、堕落性がくっついた自分の判断を捨て、ただひたすら良心の声にしたがって生活をする事によって救われるから、喜びと感謝で、ただ一心に神の御名を唱え喜びの中で生きていこう。 に謹んで訂正いたします(主題の根幹に関わる・・・・・ところなのに・・・大チョンボです。救いの本質がここに現れており・・・かつ親鸞上人が越えれなかった壁が良くわかるところなんですが・・・)。 信仰と救いとアイデンティティー3 幽霊食口 - 08/15(水) 18:55 救いの本質・・・・という言葉を連発させています。 しかし、食口の方にはその一方で祝福のことに触れていない事を奇異に思われているかもしれません。 クリスチャンが十字架の贖罪について触れてないようなものです。 しかし、祝福とは救いのためのとてつもない恩恵ではありますが、救いそのものではないのです。 (・・・という表現は語弊があるかもしれませんが・・・・祝福の意義を貶めるつもりは毛頭ありませんが・・・・祝福=天国の切符・・・祝福の子女=全自動的型完成人間 する子女・・・・的な発想があまりにも多いので多少ショッキングな書き方にしています。二世の情況を嘆いている方・・・一世の情況を憂いてください。一世の信仰の曲がりが二世に影響しているのです。) 救いとは何か・・・・本来ありうべきものが失われた情況が、回復し、失われなかった情況になること・・・・なわけです。 それでは堕落によって失われたのは何でしょうか? 良心に従って生きる(神の声に従って生きる)ということが失われた・・・わけです。 堕落によって、人は二つのものを得ました。原罪と堕落性本性です。 原罪は自分外部から、良心の声(神の声)に従わないで生きるように働きかけることが出来る条件です。 堕落性本性とは、自らの内部に良心の声(神の声)とは逆の声を発生せしめる性質です。 この二つが内外で授受することにより、良心に従って生きることが出来なくなっているわけです。 逆に言えば、良心に従って生きることが出来る事こそが救いである訳です。 祝福とは、堕落人間が消して単独では超えることが出来ない、原罪の蕩減であり、とてつもない恩恵ですが、祝福単独では・・・・救いは完成できないのです。 お父様は救い主です。救いにおいて主体者です。これは堕落人間が消して超えることが出来ない、救いの一つの契機をもたらして下さる方であり、完成人間としての範を示してくださっているいう意味でも、この表現は真です。 しかし、私はここで別の真を提示します。 私の救いの主体者は私です。 良心の声に従って生きる事を決めるのは誰でしょうか? 他の誰でもない、自分しか居ません。 良心の声に従うか、従わないか・・・・これは自分で決定するしかないわけです。 ですから、個人の救いという観点で個人の立場に立てば、本当の救い主とは自分自身であるわけです。 ”神は自らを救うものを救う” 今まで話した内容を総合的に考えれば、救いとは実は外からもたらされるものではなく、自らの内から来るものであり、それを外側に敷衍する事によって、外的情況が善化され真の救いに至っていくわけです。 従って、善を志向する良心に従って生きようとすること自体が、ある一定の救いであるわけです。 まさしく、親鸞上人の救済観は救いの本質を射抜いているわけです。しかも、親鸞上人の思想の凄いところは、絶対他力・・・・まで至っていることです。 絶対他力という・・・思想については前のコメントで説明いたしましたとおり、実は他力ではなく純化された自力信仰です。食口向けに、もっと判りやすくいえば、原罪による霊的外部からの働きかけによる悪想念や堕落性本性による心の働きの完全否定です。 ”何の教えもいらない。何の修行もいらない。ただひたすら、阿弥陀如来からくる良心によって生きよ”これが親鸞上人の絶対他力思想の本当の主張です。 血を吐くような主張です。 よくまぁ、神を知らず、イエス様も知らずお父様も知らず、原罪も知らず、この結論に至るとは・・・・親鸞上人の生涯は、内的・霊的にどれほどの地獄を通過したのかと・・・・頭をたれざるを得ません。親鸞聖人・・・称されるのも肯けます。 その親鸞上人も、越えれなかった壁があります。 親鸞上人も気づいてはいただろうと思います。一生涯通して、親鸞上人は悪人意識を持ち続け、また、自らの事を”愚僧”と呼び続けました。 親鸞上人がいう悪人という言葉は、どういうことかというと、自分が悪人であるという自覚を持つ人の事を指します。親鸞上人の悪人正機説の悪人も同じ意味です。法然上人の悪人は文字通り一般的な意味合いでの悪人なわけですが、親鸞上人の場合は、悪人とは悪想念が次から次に湧き、自分自身がどうにも救われがたき存在であるということを自覚している人の事を指すわけです。 阿弥陀如来に一心に心傾け、良心に従って生きようとしているのに、悪しき思いが湧いて出る・・・・ああ、本当に私は悪人である・・・・と自らを悪人と言い続けたわけです。 また、愚僧とは自らでは本当に良いことをしているか悪いことをしているのか判断できない、そういった意味で自らを呼び続けられたと思うのです。 しかしながら、親鸞上人は仏教徒です。神を知りませんでした。原罪を知りませんでした。救済者の必要は知っても、メシアの必要性はわかりませんでした。原罪と堕落性本性については、漠然と判っていても、それが思想として発露するまでには至りませんでした。 我々は、本当に幸福な時代を生きているのです。 先に生きた先覚者たちが、一生涯を掛けて追い求めたものが目の前にあるのですから。 御言葉が何を言っているのか・・・・食口はちゃんと、きちんと理解しないと・・・・そう思います。 補足説明 幽霊食口 - 08/15(水) 22:48 自分の書いたもの読み返し・・・・何とまぁ誤字やら何やら・・・多いことか(笑)。 少し校正したほうが良いのですが・・・・。 読みにくいことをお詫びしておきます。 救いとは、自らの内から来る・・・・・ということを話しました。これは一つの真ですが、他にも真があります。 救いは神から来る。 救いはメシアから来る。 救いは人間関係から来る(アベルから来る、カインから来る、相対者から来る、子供から来るetc)。 これらは全部真です。 しかし、こと救済の摂理の完成を目指すに当たって、何よりも自覚する必要があるのは、救いとは自らの内から来るものであると言う自覚であると思います。 外から来るものでなく、内から来るのであるという意識がなければ、功労話に踊らされたりなどして、実際は人格・心情圏の完成はなおざりにして、矢鱈堕落性のくっついた自分自身で善を判断し、独善と偽善で突っ走る危険性が高いのです。 霊石の販売等の最大の問題点はそこです。霊石の販売(販売というと普通の商取引みたいで、事の本質を見失った表現でいやなのですが、他に良い表現法がないので・・・・)は良いか悪いかと言うと、良いことです。また、やめるべきではありませんでした。 ただ、携わった人間が間違ったのです。何故なら、良心によって行動していないからです。 お父様の摂理を支える・・・・という観点で・・・とにかく金を出させることが善であるはずだと・・・・・堕落性のくっついた自分で判断し、”人間的になるな。天的になれと。”と良心を欺き、トーク・トーク・プッシュ・プッシュ・・・・・・、そして、お金を出させることだけで、神様が喜び、お父様が喜び、その人も救いの何がしかにありつけて、自らも実績によって救われるはずだ・・・・・・馬鹿げています。 神様も、お父様も、せっかく出していただいた条件だから黙って受け取られるでしょう。ゲストも条件がたっていますから、何らかの蕩減がなされるでしょう・・・・・しかし・・・・トーカーは?堕落性のくっついた自分が頭で考えて、善であるはずだと、他のことは何も考えずに話した人間は???良心を裏切ってトークした場合は???? 罪を犯していることになりませんでしょうか? 万物復帰は、象徴伝道です。ゲストを愛し、救いたいと言う動機がいの一番でなければなりません。霊石とお金の授受は、私とゲストの愛の授受の象徴でなければならないわけです。 金金金・・・・ギブミーマネー・・・・・・これが本当に天の願う道でしょうか? 良心の声をもっと謙虚に聞くべきです。 お父様の摂理を支えるためであっても、良心の声を無視し、心情を無視し、道を歩いてはいけないのです。”緊急事態”・・・・良心の声を封じ込めるために使われることもしばしばです。”緊急事態”という言葉によって、良心に背くことを行えば、更に酷い緊急事態になります。そしてあなたは、救われません。自らの内からの救いに背を向けるからです。 食口の方はよくよく考えて欲しいと思います。 自らの内から来る救いと言うこと強調しすぎたように思えて、人間関係から来る救いと言うことを補足説明しよう・・・・と思っていたものが脇道に行ってしました。 尤も、結局は同じ話しなんですが(笑)。 人間は人間関係の中で存在すると言う存在であり、堕落はこの正常な人間関係が失われたことを意味しますから、人間関係の観点からすれば、人間関係の正常化と言うことが救いであるわけです。 この正常化という道のりが、伝道であり、アベルカインであり・夫婦生活であり、家庭生活であるわけです。 従って、救いと言うものは人間関係によってもたらされるものであるわけです。 従って、”良心に従って生活する”は”人間関係の正常化”するに繋がっており・・・・というより同義であり、”救いとは自らの内から来るもの”と”救いとは人間関係から来るもの”は共に真であるわけです。 信仰と救いとアイデンティティー4 幽霊食口 - 08/17(金) 09:53 さて、良心によって生きることこそ救いであり、救いは自らの内から来るということを話しました。 しかしながら、一方で堕落によって自分自身では本当の良心の声がわからない状態である事もお話ししました。こういう状態であるため、良心によって生きるための補助システムとして、宗教と言うものが与えられたわけです。 宗教を信仰し、その教えを守れば良心の声に従っていることとなるように・・・。 しかしながら、宗教も数多くの間違いをくっつけています。更に悪いことは、教えを受け取る側が間違って受け止め、間違いをなすことも多いわけです。 この情況を憂いた親鸞上人は、極論すれば、宗教すら否定してしまったわけです。阿弥陀如来から来る良心のみを信じろと(ですので、いい意味でありますが、浄土真宗は宗教を否定した宗教であり、強烈な自力信仰です)。 ですが、善悪の基準が自分では判らなくなっている為、その補助システムとして宗教があるわけなのに、これを否定してしまっては、目安がなくなるわけで、親鸞上人の生涯を見ると、この思想に行き着いて逆に行き惑ったように見受けられます。 阿弥陀如来から来る心・・・・・・・これを定義できていないわけです。 統一食口は幸いです。ちゃんと見分けられる規準を与えられています。 良心の声の見分け方は・・・・・”為に生きる” これに合っている心なのか、これにあっている行動なのか・・・・。 もう少し、突っ込んで言うと、愛において正しい事か?と言うことです。 霊石の販売の問題が一番端的ですの、霊石の販売の問題を取り上げましょう。 とにもかくにも、神様を愛し、お父様を愛し、もうお父様の摂理を支えたくて支えたくて仕方がないトーカーが居たとしましょう。また、霊石を買っていただければ、それがお父様の摂理を支える功績となり、ゲストの救いに繋がると真実信じてはいます。しかし、お父様を愛するあまりにゲストのことを思わず、ひたすらお父様を支えるためにゲストにプッシュして霊石を買っていただいたとしましょう。 さてこの場合、法に触れるでしょうか?良心の声に従った心と行動でしょうか? 答えは、法に触れます。地法には触れなくても天法に触れます。天法において明確な詐欺罪であり、良心にもとる行動です。 万物復帰は象徴伝道である前に書きました。 霊石とお金の授受は、愛の授受の象徴であると書きました。買っていただくということは、主体側が愛してその返しとしての愛をいただくと言うことであり、このケースは真実愛しても居ないのに、愛したふりをして、返しの愛を掠め取っているわけです。 その他の要素がずべて真であったとしても、天法において問題となるのは、心情だけなのです。 良心は、愛しても居ないのに多額の献金をプッシュしてまで勧めることに抵抗したはずです。 ”人間的になるな。天的にになれ。” かくして、堕落性いっぱいで、善悪が判っていない自分によって、良心の声はサタンの声と烙印を押され葬り去られます。 なんという愚かしさ。なんという信仰の曲がり。なんという傲慢さ。 見てください。天法に違反しているため、その象徴として地法によって裁かれているのです。 天で繋がれたものが地に現れているのです。 また真実、神様を愛しお父様を愛するなら、神様のゲストに対する心情を相続しなければならないはずです。ですから、例を挙げたケースの場合神を愛していない表象であり、御言葉信じていない表象です。 よくよく考えるべきです。 少し長くなりましたが、愛において正しい という意味は今例示したような意味合いです。 (但し、これは一歩間違った解釈をすると、教団・教理の完全否定となってしまいます。”教団や教理はこう言っているけれど、私の良心はそれを良しとしていませんので、それを行いません。”となってしまうからです。これはこれで、教団や教理を認めている良心の声に反する行動であるわけですから、そこらは総合的に判断していくべきであるとは思っています。) さて、救いの本質とは何か、救われるという事とはどういうことかをかなり、微に入り細に入り述べてきました。アイデンティティーの確立の問題について話していきます
この掲示板に最初に書いた、ある方へのメッセージです。
消えてしまったので、再掲します。 御旨ご苦労様です。毎日、精誠込められ頑張って居られるのでしょうね。そのようなあなたに、私は言える立場ではないことは重々承知してます。そして言う内容たるや、きっと幽霊食口とはいえ食口の立場で、私もあなたも主と仰ぐ方攻撃する悪魔のような言を擁護するのかと・・・・・信仰においてこの悪魔め絶対許さないと思われるでしょう。 でも、あなたの書いたもの読んで、私はあまりにも心が痛かった。 あなたが何時から歩み出されたかは判りませんが、もし私より遅く歩み出されたのなら、間違った信仰を気付かず野放しにしていまった、自分の不信仰さを呪いたい気持ちです。これらの言があなたに届くよう。 私が別掲示板に書いた、良心について読まれたでしょうか?そして、最期にこれを持って口をつぐむと言った言葉をお読みでしょうか?これは、原理的に間違っているとお思いでしょうか?お父様のお考えに反していると思いでしょうか?いや、もっと言えば神様のお考えに反していると思いでしょうか? この考えを発展させ、内省して出てきた結論に、私はあまりのことに私は泣きました。まさしく、我こそは御父母様に背いていたのだと。我こそはまさしく、自分たちの義に従ってイエス様を十字架に付けたパリサイ人だと。 まず、統一原理はどういうものかから話しましょう。統一原理は絶対的な真理ではありません。真理を指し示すあくまで過程の真理です。この事は御言葉から明らかです。誤謬が入り込んでいます。ただ、今はこのままにしておかなければならないと・・・というだけのものです。ただ、御言葉とその語られたときの背景、更には現在の状況を見るにつれて、原理講論の過ちの内、もはやこれは言わなければならないと思います。 すなわち、原理講論の本心と良心についての記載は誤りである。 時代的要請によって入り込んだ誤謬である(食口よ時代背景を思え)。 これに気付いたときの思いは語りますまい。ただ、時代的要請で入ったものにしろ、これからもたらされた状況は悲惨なものです。 則ち、御旨から離そうとするものを全て悪と、全てを分立しなければならないという発想と信仰をもたらして居ます。「良心や良心的な人の背後にいるサタンを分立しなければならない」と言われている内容を、ただ表面的にとらえて、その全てを切り捨てなければならないとという信仰をもたらしているように感じ受けます。 良心的な考えや良心的な人の言をサタンから来るものと、ばっさり分立したときに心は痛みませんでしか?また、そのような事を言い、そのような事を実行する人を見て、天的な人と賛美しうらやむとき何かしらの違和感を持ちませんでしたか?「あの人は良心的な人だ。私たちは本心的でなければならない。」と言うとき全てを表面的に考えていませんでしたか? 私は恐れます。私の意図が誤解されるのを。それでも書き続けなければなりません。願わくは正しく理解されますように。 だが、そうではないのです。だが、そうであってならなかったのです。 良心は一つです。神から来る一つのものです。良心とか本心とか分けて考えてはいけないのです。ただ、良心が外部から色々のものに色々な方向に引っ張られるから、幾つもあるように見えるのであり、その引っ張るものの内にある不義なるものだけが悪であり、分立するべきはその不義の部分のみを分別するべきなのです。ただ、外部の状況があまりにも厳しかった。だから、食口の信仰を確立させ、励ますために、統一原理で引っ張る良心を本心として、他を良心と表現し、本心を良心の上位にあると表現せざるを得なかった・・・・・。 だが、過てる理解は過てる信仰となり、その過てる信仰は不義となりサタンの侵入を許します。我々は気付き、正さなければならかったのです。 それは何時でしょうか?実はもう、とっくに正していなければならなかった。 「良心は第二の神様」という御言葉はお読みになって居られと思います。あのとき、私たちは悟らなければならなかったのです。内容もですが、なんでこのような御言葉を語られたのかを。 あれは、環故郷の摂理を行うに当たっての御言葉です。それは、私たちの間違った信仰を正すための御言葉だったのです。間違った思いこみを正す御言葉だったのです。原理講論はそのままにしておかなければならないにしても、環故郷を行うほど信仰を立てたものは、間違った信仰を正し、サタン分立して行き、神と出会って義とはどのようなものであるかを悟り、正しく信仰を立てなさい、との御言葉だったのです。 私たちは悟らなかった。未だに間違った信仰が紊乱している。どれほど悔いて悔いても悔い足りない。なんと情けなきか。 ヤコブ路程で、ヤコブがエサウと出会ってヤコブがエサウになんと言ったか良く知って居られると思います。「あなたの顔を見て、神の顔を見るように思います」これは、殆どの食口にはエサウを屈服させるための方便と理解されているようですが、それは違います。方便ではないのです。我々は、環故郷するとき、いや外部の人との接するとき、更に言えば反対するものであっても、私たちは神と出会わなければなかったのです。摂理的な要請により、また、不義を憎むあまりに、分別という言葉で虐げ打った良心の部分から現れる神と出会わなければならなかったのです。そして、摂理内容がこれから益々厳しくなる中、信徒がこの御言葉を受け、悟り、不信仰を正し、その方向性を正さなければならなかったのです。そうしなければサタン分立が何で出来よう、なんで今からの時代を乗り越えることができようと・・・と御言葉下されたのだと。 未だに、教会は不信仰が紊乱しています。良心を痛める行為を行っても、それが摂理的に合致すれば天的と言って褒め称えます。絶対信仰を立てたと言われます。それは違う。それは違うのだ。褒め称える前に何をしなければならない。なんでボタンを掛け違える。あなた方は神を打った行為を褒め称えているのだ。これは悪魔の所行だ。例え摂理的要請でそうせざるをないとしても、なんで、傷ついた良心を慰めない。なんでそうせざる得なかった状況を悔い改めない。わけがわかっていない幼い子供から飴を取り上げれば、その子は始めはきょとんとし、そして泣きなじるであろう。そんな子供を見て心は痛まないのか?なじる言葉を悪魔の言葉と退けるのか?そしてそのような行為をやった人間を褒め称えるのか?それこそ悪魔の所行ではないのか?私たちは一体何に仕えているのか?神ではないのか?御父母様ではないのか?われわれは、一体何を分立してきたというのだ。 我々は、注意深く善と悪とを分立させなければなりません。不義を憎むあまりそのとなりある義をも打ってはいけないのです。義は一つです。引っ張る方向が幾種もあるのです。引っ張る力に悪があるとして、義まで打ってはいけないのです。そんな事すれば、義なる心を持ってやったとしても悪なのです。もしそんな事すれば、どうして全ての義を一つにできましょうか?そんなことをすれば、それは全ての義をその義で蹂躙することに繋がるのです。我々は統一原理で全ての義を蹂躙することになるのです。それで本当に統一ができますか?それが統一原理の教えですか?我々の統一原理は逆にそうじゃないことを教えていませんか?統一原理からもたらせられることを、よくよく理解すれば、統一原理は統一原理で指し示す真理で全てを統一すると言っていると理解されるべきなのです。私は私たちの義で全ての義を蹂躙し、一つにまとめよという統一原理なんか知らない。私は愛と真理で義を一つをまとめよと言う統一原理しか知らない。 あなたは、これらのことをあなたが考える絶対信仰で不義と思い、そして乗り越えるのが義だと思われるかも知れません。 だが、この絶対信仰という言葉は食口からも反対する人からも、誤解されている悲しい言葉であるように思います。 絶対信仰とは何か?お父様が言われている内容をよくよく考えてみたことがありますか?全ての根元は何でしょう。絶対無謬と言われているのは何でしょう?それは神の愛ではないですか?文先生は言われます。「神様の愛の前には神様ご自身すら頭を下げられるのです。」それは拝礼するという意味ではないのです。神ご自身すら、神の愛の前には自らを改められるという意味です。ソドムとゴモラの時のロトとの会話を思いだしてください。神ご自身すら、ロトの訴えによって、ご自身の愛により不義の内に義があればそれを打たないと改められています。イエス様も、文先生でもその訴えによるところで行いを改めされなかったか?イエス様はサマリアの女の訴えを退けられたでしょうか?文先生は醜い老婆の訴えを退けられたでしょうか? 絶対信仰とは、神の愛に対する絶対信仰を立てろと言うことではないでしょうか?何をも疑っても神の愛は疑う事無く、真実を見極める信仰を立てろと。そうして信仰を超えた信仰に進めと、神様と共に暮らせるようになれと。 何がサタンの勢力なのか判らず、分立出来ていない我々に勿体ない御言葉です。だから、表面的に理解してはいけない御言葉です。どうか、この御言葉の意味をはき違えないでください。 だから、妨害してはいけません。無視してもいけません。彼らの声は、我々の過ちを激しく正す声です。我々に我々が忘れたサタン分立を激しく求める声です。我々は、彼らの中に神を見なければなりません。過てる信仰を傷つけられた良心が激しく糾弾する声なのです。そして、それは我々に、我々の信仰の何処が間違っているのかを悟らせる神の摂理です。むしろ、我々は声を傾けるべきなのです。教会で指導する立場の人間ほどそうでしょう。お父様が攻撃を受けていることは真に辛い状況です。だから目を背けたくなるのは私とて同じです。だが、お父様が十字架につけられているのが辛いと言って、そのことから目を背ければ原因がわからなくなるのです、その原因がわからなければお父様は永遠に十字架に付けられるのです。そして、私たちが十字架に付けていることも判らないのです。 我々は、良く信仰が足りない、精誠が足りないと言って悔い改めます。だが、その正体がわかっていなかった。間違った信仰をしているから、その部分が不義とされ、信仰が足りないとなるのです。真実を見極める気持ちが足りないから精誠が足りないのです。 彼らの言を遮っても、無視しても何の意味もありません。 彼らの声を力で殺して、何の統一にも繋がりません。 我々が、本当にこの問題を解決しない限りは、永遠にお父様を十字架に付けてしまいます。 これらのことを、どうかご自分で祈りその真偽を見極めてください。 -------------------------------------------------------------------------------- 幽霊食口 - 10/12(水) 15:48 [削除] あなたの返答読みながら、大変悲しくなりました。 その内容ではなく、ただ背後にあるものを見て。 裁きの心情が溢れています。気持ちはよく判るんです。私とて・・・と思います。 でも、全き不義を打つときでも憎しみや裁きの心情で打って良いものかどうかお考え下さい。 お父様を打つなんて許せないという気持ちは、私も痛いほど判ります。 でも、それを打つときに裁きの心情で行うことはお父様の道ではないと思います。 裁きの心情でそれを行えば、必ずそこにサタンが侵入するのではないんでしょうか。そういうところで、サタンに兄弟姉妹を奪われ、結局はお父様が十字架に付けられる要因があるのはないでしょうか? 剣によって生きるものは剣によって滅ぶ。裁きに生きるものは裁きに滅ぶと思います。 兄弟の目の塵を取ろうとするものは、まず自分の目の前の梁を取りなさい。 供え物するものは、まず諍いをしている兄弟のところに行って和解してから、備えなさい。 どうか、お願いです。お父様をこれ以上十字架に付けられるような道を行かないでください。それこそが、指摘したかった点なのです。 |
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