ニュース: 生活 RSS feed
【さらば革命的世代】(9)日本のレーニンが知った労働 (2/4ページ)
このニュースのトピックス:さらば革命的世代
その理論的支柱だった塩見さんは「彼らも、全共闘の世代の連中も、みんな僕がオルグした。僕らは、若い力で暴力革命を起こそうと本気で思っていた」と振り返りながらも、当時の手法については、「未熟だった。軍事至上主義だった」と率直に認める。
一方で「不況だろうと、バブルだろうと、時代は変わっても、資本主義には矛盾があり、労働者階級が解放されるべきだという基本路線は当時と一緒だ」「これからは無血革命という大理念を大事にしたい」とも述べるなど、その思想は根本的には変わっていない。
■よど号事件も間違い
文学青年だった塩見さんは2浪の末、昭和37年に京都大に入学。アルバイト先の生協の先輩の影響で学生運動に入った。3回生のとき東京に出向いて、中央大など首都圏の学生のオルグを担当。「学費値上げ反対闘争を勝ち抜き、全共闘の原型をつくった」という。
赤軍派が公然と登場したのは44年9月。東大安田講堂の落城から8カ月が過ぎており、「全共闘はすでに行き詰まっていた。最後はドンパチをやらないと世の中は変わらないと思っていた連中が僕のところに集まってきた」。
塩見さんの逮捕後に起きた45年のよど号事件は、北朝鮮のテロ支援国家指定解除にからみ、メンバーの「引き渡し」が議論に上るなど、いまなお注目される事件でもある。塩見さんは、この事件についても「人民を盾にしたという点で誤った方針だった」と総括する一方、「彼らは帰ってこないほうがよい。仮に帰ってきたなら、そのときは不屈に最後まで闘うと意地を見せてほしい」とも話す。