朝鮮初期に開発された「ミサイル」とは(下)
むしろ、太宗の代に崔海山らが確立した火薬の技術によって、世宗の代に移動式の火器が実現したということに注目すべきだ。太宗が世を去り、世宗の親政が始まった1422年(世宗4年)12月、北方の女真族から国を守るために派遣された兵士たちのうち、特に強い兵士たちを選抜し、火器で武装しなければならない、という発言が始めて記録されている。
それから15年後の世宗19年(1437年)、軍器監が開発した「細銃筒」150丁が実戦配備された。「細銃筒」は持ち運びや射撃が容易で、「女性や子どもでも使える」とされていた。今日の小銃よりも少し短い火器だったものと考えられる。世宗27年には「銃筒衛」が新設され、一般の兵士よりも優れた兵士たちが抜擢された。当時は皇太子(後の第5代国王・文宗)が摂政を務めていた時期だったため、世宗よりも文宗の方が、「銃筒衛」の新設など、強力な軍隊の育成に積極的だったのかも知れない。
当時、「銃筒(火器)はわが軍の重大事」という発言がたびたび登場しているところから考えれば、朝鮮軍において「銃筒衛」がいかに重要視されていたかが分かる。「銃筒衛」の兵士の数は、設置から2年後には2400人に増えている。最先端の兵器が開発されたこの時期は、世宗が訓民正音(ハングル)を制定した時期と重なる。
「檄木(火薬を押し固めるのに用いた木槌の一種)、鉄槌(鉄製の弾丸)、鉄箭(鉄製の矢)、火薬、火心、量薬凹子、蔵火器」これは「銃筒衛」の兵士一人が携行しなければならない装備だった。檄木は接近戦から肉薄戦へ発展したときに用い、鉄槌や鉄箭は必要に応じて銃筒に装填(そうてん)し発射した。
火薬や火心は火器を使うのに欠かせないものであり、「量薬凹子」は読んで字の如く、一定の量の火薬を装填するのに用いた凹型の計量器だ。また「蔵火器」は火薬を装填する際に使う補助器具だ。だが、銃筒を作るのに必要な鉄や、火薬を作るのに必要な硝石の不足は世宗を苦しめた。
こうした中でも銃筒の改良作業を続けた結果、世宗30年には200歩から500歩に過ぎなかった射程距離は400歩から1500歩にまで延び、また軽量化が実現した。当時作成された銃筒の設計図が「銃筒謄録」だ。
実際のところ、「神機箭」は「八箭銃筒」「四箭銃筒」「長銃筒」「細銃筒」に続いて、最後に登場することから考えて、それほど重要な兵器ではなかった。太宗の代に開発された火車を、この時期には「神機箭」と称し、「銃筒謄録」に追加したという程度のものではなかったのだろうか。世宗30年に「神機箭」について初めて言及されたからといって、「神機箭」がこの時期に発明されたものではないというわけだ。しかし、強さを誇った「銃筒衛」は世祖(第7代国王)3年に廃止された。反乱を恐れたためだった。
イ・ハンウ記者
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