エウメネスの戦い(3)
〜ガビエネ〜
パラエタケネの戦いでは途中まで優位に戦いを進めながら結局勝利することの出来なかったエウメネスも、一応勝者という ことになったものの損害を出したアンティゴノスもそのまま冬営することになりました。しかし、エウメネスの軍勢は各村落に 分散して冬を越そうとしていましたが、これはエウメネス軍の将軍達が各自勝手に冬営したために軍勢が分散されたといわれて います。エウメネスが軍勢を分散して冬営に入ったことを知ったアンティゴノスは困難ではあるけれど近道である砂漠を移動 してエウメネス軍を攻撃しようとしました。この時彼は夜は火をたかないように命じますが強風や夜の寒さから夜に火を使う ことを認めざるを得なくなります。そして、それによってアンティゴノス軍が迫っていると言うことがエウメネス軍にもわかった のでした。
アンティゴノス軍接近の知らせをうけ、エウメネスは動揺する諸将を制して3,4日アンティゴノス軍の進軍を遅らせるので その間にばらばらに駐留している兵士を集めてくるように説得したうえで、次のような策を用いて進軍を遅らせることに成功し ました。まず兵士を遠方からでも見ることが出来る丘に派遣し、それから一定間隔(20ペキュス)ごとに薪を燃やし、時間の経過 とともに少しずつ減少させて、あたかもその場に野営しているかのように見せるということを連日行うというものでした。この作戦 が功を奏し、アンティゴノスは結局奇襲を諦め、距離は長いが物資に富み行軍が容易なルートに切り替え、さらに兵士達を休ませる ことにしました。こうして奇襲を防いだエウメネスは各地に駐留する軍勢を集めることが出来ました。しかし軍勢をあつめ、防備を 固めてはいたものの、戦象部隊はまだ合流していないということがアンティゴノスに知れてしまい、アンティゴノスはエウメネスの 戦象部隊をメディア人騎兵やタレントゥム騎兵、軽装歩兵を派遣して襲撃しようとします。これを知ったエウメネスも戦象部隊を 救うために騎兵1500、軽装歩兵3000を送り、アンティゴノス軍に包囲され危険な状態に陥っていた戦象部隊を何とか救うことに成功 しました。
エウメネスは一連の行動によって冬営中にアンティゴノス軍の進軍を遅らせることに成功し、軍勢を無事集結することが出来ましたが これによってほとんどの将兵がエウメネスの知恵に感嘆し、彼に指揮権を統一しようということでまとまっていきます。しかし銀盾隊 のアンティゲネスとテウタモスは彼に従おうとせず、さらに戦いのあとにエウメネスを殺害しようとたくらんでいます。エウメネスは このことを戦象部隊の指揮官から聞いたエウメネスですが、それでもアンティゴノスとの決戦を決意します。アンティゴノス軍とエウ メネス軍は40スタディア(約7.36キロ)離れて、ガビエネ近郊に野営地を築き、そこから徐々に前進しながら陣を敷いていくことに なるのです。
こうしてアンティゴノスとエウメネスが雌雄を決すべくガビエネにて相対することになりましたが、両軍の構成はどのような感じだった のでしょう。アンティゴノス軍のほうでは騎兵を両翼に展開し、左翼騎兵はペイトンの指揮下に、右翼騎兵は息子のデメトリオス、そして 彼自身も右翼に陣取りました。中央には歩兵を配置し、戦象は最前線に展開し、その隙間は軽装歩兵で埋めるという陣を敷きました。軍の 総勢は歩兵22000人、騎兵9000騎(その中にはメディアで新たに加わった者もいる)、戦象65頭というものですが、パラエタケネと比べると 歩兵と騎兵がかなり減少しています。
エウメネスはアンティゴノスが最精鋭部隊とともに右翼に陣取っていると考え、左翼に精鋭を集中します。左翼には精鋭騎兵とともに太守 たちもそこに配置されていましたが、そのなかにはペルシア人の姿も見られます。そして左翼に戦象60頭を左翼の前面、側面に並べ、その 隙間には軽装歩兵を配置しました。中央には歩兵(盾隊、銀盾隊、傭兵、マケドニア式装備をした兵士達)を配置、右翼には左翼と比べる と弱い騎兵達を配置し、中央と右翼の前面にも戦象と軽装歩兵を配置しています。右翼を率いるフィリッポスに対してエウメネスはできる だけ交戦を回避し、他の処で危険なところがあったら救援に向かうように命じています。エウメネスの軍の合計は歩兵36700人、騎兵6000騎、 戦象114頭というものでした。左翼の戦象の並べ方については前面に並べたと取る説と側面に並べたという説がありますが、精鋭を集めた 左翼に戦象を固めたと言うことの意図について戦象を突撃用にしたのかはたまた側面防御用に並べたのかという違いが生じるため、これに ついてはかなりきちんと調べてみる必要はあるでしょう。
戦いの開始前に、アンティゲネスがアンティゴノス軍の歩兵に対して父親達に対し罪を犯しているといって威しをかけています。この行為 はエウメネス軍の士気を高めるのに大いに役立ち、彼らが戦いたがっている事を見て取ったエウメネスは突撃を命じます。この時、左翼の ほうで戦いの幕が斬って落とされますが、戦象が最初に突撃し、それに騎兵が続いたと見るか、はたまた象は側面防御用であり騎兵が突撃 したとみるのかで見解が分かれています。
騎兵の突撃とともに戦場では砂埃が舞い、それを見て取ったアンティゴノスはメディア騎兵とタレントゥム騎兵をエウメネスの輜重隊にむけ 自軍右翼側からまわりこませ、これを攻撃します。輜重を守る兵はほとんどなく、アンティゴノスによってエウメネス軍の輜重隊は奪われて しまいます(そしてこのことがその後のエウメネスの運命を決めることになるのです)。アンティゴノス軍はさらに右翼騎兵を前進させ、 これにより左翼にいたペウケスタスとその部隊は混乱し、撤退してしまいます。こうしてエウメネスは左翼で孤立してしまいましたがなお 戦うことを辞めず果敢にアンティゴノス軍騎兵に戦いを挑み、激しい戦闘が繰り広げられます。しかし結局数に勝るアンティゴノス軍騎兵が 優位に立ち、同じ頃戦象同士の激突でもエウメネス軍が劣勢になったことから、エウメネスは残存騎兵を率いて他の方面の救援に向かうことに になります。
一方、中央部では銀盾隊がアンティゴノス軍歩兵を圧倒し、アンティゴノス軍は一説には死者5000人という大損害を受けて潰走しています。 老齢ではあっても戦場における戦闘力ではアンティゴノス軍の歩兵をはるかに凌駕していたわけですが、彼らに続いて傭兵やマケドニア式 装備の歩兵達も前進していったと思われます。一方、エウメネスは輜重隊がアンティゴノス軍の手に落ちたが、なおペウケスタスの騎兵が 近くにいることを知って再び戦いを仕掛けようとしますが、ペウケスタスはそれを拒否し河の近くにまで撤退してしまいます。そうこうする うちにアンティゴノスがペイトンに命じて銀盾隊を攻撃させようとしますが、銀盾隊は包囲されることを避けて安全に撤退することに成功 しています。エウメネスも結局退いていき、ガビエネの戦いは終了したのでした。ただし軍隊の損害についてはアンティゴノス軍のほうが 大きかったようです。
ガビエネの戦いは損害だけを見るとアンティゴノス軍の方が大きかったといわれています。中央部の歩兵部隊は銀盾隊などにより潰走させ られていますし、他の処でもかなりの激戦になっています。一方エウメネス軍も戦象部隊が敗れたり、騎兵隊の戦いで劣勢になったりして はいますが、特に目立った損害はなかったようです。合戦のあと、エウメネスは四散した部隊を集めて今後の対応の協議を開始します。 太守たちは上部太守領へと撤退して体勢を立て直すことを提案していますがエウメネスはここにとどまって戦う事を主張します。彼は 騎兵戦力では互角、敵は歩兵戦力が壊滅していると言うことからそのような主張をしたようです。しかしマケドニア人たちの考えはその どちらでもありませんでした。
このとき輜重隊を取られたと言うことがエウメネス軍の中で大きな意味を持っていました。銀盾隊などマケドニア人たちは輜重隊とともに 家族や財産も取られており、彼らはアンティゴノスと協議し、エウメネスを捉えて引き立てていったのです。こうしてアンティゴノスは エウメネスを捉えるとともに彼の軍勢を統制下に置くことに成功します。なお銀盾隊のアンティゲネスはアンティゴノスに捕まり、穴に 投げ入れられていきながら焼き殺されるというむごたらしい最期を遂げています。そしてエウメネスはアンティゴノスの部下により殺され ることになるのです。
ガビエネの戦いではエウメネスはさほど大きな損害を出したわけではありませんが敗れています。敗因についてはディオドロスやプルタル コスなどの記述を見るとペウケスタスの責任がかなり大きかったと言うことが見て取れます。恐らく原典史料がヒエロニュモスであると いうことを割引いて考えたほうがよいかとは思われますが、アンティゴノス軍騎兵の攻撃により撤退させられたこと、さらにエウメネスの 攻撃命令に従わずに退いてしまったと言うことは敗戦の責任は免れないでしょう。ガビエネの合戦のあとで裏切り者が出てくるというところ も含めて、結局エウメネスは最後まで自軍の中で全面的な信頼を得られていなかったのでしょう。