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桜井淳所長に拠れば、Stainless Steelの大体の組成は、1900年よりちょっと前に分かっていたとされており、すなわち、鉄を主体として、クロムやニッケルを混ぜると、クロムが12w%くらいになると、従来にない特有の性質が顕著になり、それでも、高級材料であったために、なかなか普及せず、第二次世界大戦当時においても、戦闘機の部品として利用されるくらいで、産業分野で大量に利用され始めたのは、米shippingport原子力発電所(PWR10万kW、1953.7発注、1957.12.18商業運転開始)からであったが、使用経験が無かっただけに、運転開始後、亀裂が生じ、次々に建設された他の米原子力発電所(Dresden-1等)においても、同様の現象が生じ、Stress Corrosion Cracking(SCC)として、大きな研究テーマに発展しましたが、Stainという語は、化学分野で良く使われ、汚れという意味があり、それに打消しのlessを付けてstainlessとし、汚れない、もっと意訳して、錆びないという意味になり、逆に、stainedとして、そのあとに名詞をつなげた用語でいちばん知られているものは、stainedglass、汚れたガラスを意訳し、色付きガラスないしステンドグラスと呼ばれますが、最近の電車は、錆びないために塗装の必要が無く、見た目がよく、機械的特性が近いため、鉄製からstainless製に変更しており、ただ、密度も機械的特性も近い物をstainlessで置き換えているだけでなく、すなわち、同じ厚さの外壁で、同じ厚さの構造材による骨組みでなく、高速化のための軽量化と省エネルギーによる高効率化、レールへの負担を軽減するため、構体重量(台車部分を除いた車体そのものの重量)を半分(たとえば、鉄製103系に比較し、E231系は、約半分、安田浩一『JRのレールが危ない』(金曜日、2006)のp.22)にしており、半分にして、設計の工夫だけで同じ機械的強度が得られる産業構造物ができれば、それに越したことはありませんが、実際には、できず、それによるメリットもありますが、デメリットもあり、そのデメリット(コンピュータを利用した構造設計の最適化によるぜい肉削り落としだけではなく、強度低下による衝突時や脱線時の被害増加)の構造設計の意味を的確に理解している人は、意外に少ないそうです。
桜井淳所長に拠れば、米国の超一流大学のほとんどは、私大であって、州立は、数えるくらいしかなく、超一流私大が基盤を作り、なおかつ、高い質を維持しているのは、日本と違い、私立でありながら、多額の国家予算を獲得しているためで、Massachusetts Institute of Technologyは、その典型的な例であり、Stanford Universityも戦後、工学部を中心に、Stanford Linear Accelerator Center(SLAC)を設置することにより、三つのノーベル賞の獲得に成功しており、いっぽう、私立ではなく、州立ですが、University of California-Berkeleyも、国家予算を獲得し続け、これまで、60名もノーベル賞を受賞、特に、マンハッタン計画時においては、主要な拠点となり、サイクロトロンを利用して、プルトニウム(プルトニウム239の発見は、マンハッタン計画とは関係なく、それ以前の1940年に、G.T.Seaborg, E.M.McMillan, J.W.Kennedy, A.C.Wahlにより発見されていました)を初め、原爆製造に直接結び付く元素の原子核の中性子断面積の測定等を行い、大きな貢献をしましたが、その歴史的起源をたどれば、1930年にE.OLawrenceとM.S.Livingstonによるサイクロトロンの発明(E.OLawrenceは1939年にサイクロトロンの発明とその研究及びそれによる人口放射性元素の研究でノーベル賞受賞)に始まり、国家予算を獲得し、次々と大きなサイクロトロンやシンクロトロンを建設し(1932年に直径11 inchと27 inch、1937年に37 inch、1939年に60 inch(マンハッタン計画時に利用)、1946年には184 inchのサイクロトロン、1954年に6.2GeV陽子シンクロトロン(ベバトロン、詳細な図や特性はE.Segre『素粒子と原子核(上)』(吉岡書店、1972)のp.166-167参照)、1950年代まで、世界をリードしましたが、1959年以降、CERNやBNLの30GeV前後の陽子シンクロトロンに王座を奪われ、その後、University of California-BerkeleyのLawrence Radiation Laboratoryは、少なくとも、敷地と予算の限界により、高エネルギー素粒子実験(素粒子論研究は継続)の先端分野から脱落してしまいましたが、いまでも、重イオン加速器による核物理の先端研究は、継続されています。
桜井淳所長は、1時間半の講演時間の7割を使い、『原発システム安全論』(日刊工業新聞社、1994)の記載内容を基に講演し、それ以外の時間は、大地震のリスク評価の方法や最近の出来事と関係する自由な問題提起を行いましたが、自由な問題提起の中では、村上陽一郎『安全と安心の科学』(集英社新書、2005)を採り挙げ、記載内容のいくつかについて、批判的検討を加え、そのひとつは、「PSAというのは、確かにアメリカの原子力関連の業界で誕生した手法で、(上のような)通常の手法とは少し異なっています」(P.126)、「ミスの木」(p.152)で、前者は、NASAでロケット打ち上げの信頼性解析手法として開発されたEvent TreeとFault Treeが基になっており、同手法が最初に大規模に導入されたのが、商用軽水炉の炉心溶融確率を評価した「ラスムッセン報告」(WASH-1400(1975))であって、決して、NASAではなく、また、Fault Treeの訳についても、「ミスの木」と訳した例は、ひとつも無いと指摘し、村上の知識と判断が曖昧であることを示していました(その他、問題の箇所は、「原子力発電の世界では、日本の現場のサイトで死者は1人も出していません」(p.33)、「2004年に起こった美浜事故も同様です」(p.34)、「つまり、原子力発電の現場は、他のさまざまな現場に比べても、客観的な安全性においては優れていることはあっても、決して「より危険な」ものではありません」(p.34)、「2004年の新潟中越地震では、営業中初めての脱線も経験しましたが、その安全対策の有効性がかえって話題にもなりました」(p.42)とありますが、それらは、真実ではなく、非常に単純な考察であり、工学の本質的な意味がまったく理解できておらず、その本全体が広報的内容に陥っており、本来、より高い次元から、批判的検討を常としてきた科学史家の仕事としては、基準に満たず、学問的堕落だそうです)。
桜井淳所長に拠れば、日本の臨界安全規制は、臨界安全ハンドブックが刊行された20年ほど前から実質的にはほとんど進歩しておらず、他の原子力先進諸外国と比べて非常に大きな遅れをとっているそうで、臨界安全ハンドブックは、科学技術庁核燃料規制課が編纂し、役所みずから率先してこのような取組みしたことは、当時としては極めて画期的だったそうですが、その後東海村での臨界事故などを経て省庁再編によって経済産業省原子力安全・保安院に臨界安全規制の権限が移行してからというのは、文部科学省傘下の旧日本原子力研究所の研究資源を、原子力安全・保安院が直接的に利用しづらくなり、また、一方で、臨界安全の規制権限を失った文部科学省では旧原研に委託していた再処理臨界安全技術開発の特別会計事業の位置づけが、規制目的なのか開発研究なのかの区別など、何がなんだが訳が分からなくなり、桜井所長に拠ればこの事業は、明確な長期計画もビジョンも何もなく木に竹を接いだような行き当たりばったりの予算消化に終始し、また、経済産業省が旧原研に委託したMOX燃料加工施設の臨界安全調査事業も、Sという出向者が学位論文を書くために予算を食い物にしたため完全な失敗に終わったそうで、このような省庁再編時のボタンの掛け違いが「失われた20年」となって現れ、旧原研の臨界安全研究を引き継いだ日本原子力研究開発機構には、もはや臨界安全のシンクタンクとしての能力はなく、かわりに原子力安全基盤機構が、研究機関やメーカーの実力者を中途採用で引き抜いて経済産業省の豊富な予算を背景に長期的なビジョンでもって臨界安全のCOEとしての地歩を固めているそうで、原子力安全・保安院にとって日本原子力研究開発機構の臨界安全研究に期待することは何もないそうですが、そのことは最近改編された「原子力ハンドブック」の臨界安全の項目の執筆者がすべて原子力安全基盤機構に独占されたことに現れているそうで、当の日本原子力研究開発機構にはそのような危機意識すらなく、現行の臨界安全規制体系を金科玉条として保持していくことが自分たちの使命だと思い込んでいるそうですが、それはさておき、桜井所長は、日本で何十年も前の規制手段がいまだにまかり通るその病理の解明に成功したそうで、それは米国NRCによる臨界安全規制と対比して浮き彫りになったそうで、NRCでは臨界安全の規制担当者は、臨界安全に関連した学位を持ち、アメリカ原子力学会などの学会活動に積極的に参加し、最新の情報を絶えず入手し、論文発表も行い、臨界安全の基本理念から規制方針に至るまで自ら思考し、企画・立案し、そしてそれを規制に反映させていくだけの高い能力を持っており、桜井所長が特に驚いたのは、NRCの担当官が申請者から臨界安全解析コードの入力データを入手し、自らそれを解読し誤りがないかチェックしているそうで、そこまで徹底しているのかと感心したそうですが、一方で、日本の安全規制は、担当官の分担は専門性によって分かれているのではなく、規制対象施設ごとのいわゆる縦割り行政となっており、ごく数名の担当官が再処理施設なら再処理施設の規制の全てを担当し、ジェネラルにはよく知っているものの、個々の専門知識はほとんどないために、また、数年ですぐに異動するために、何も新しいことはできないし、やならいそうで、申請者もそれをいいことに、何十年も前の文献の安全基準値や計算コードを使い続け、担当官も前例踏襲の日本の役所の慣例に従いそれを許可しているそうで、したがって申請者側にも許認可手段をより最新のものに改めようとするインセンティブが何らなく、いつまでもまったく何も進歩しないそうで、日本版NRCを作るなどと息巻いている人もいますが規制体系を根本的に改めなければいくら予算と人を増やしても何も変わらないそうで、桜井所長はこのような臨界安全規制のパラダイム転換を図りたいそうですが、また、このような病理を科学技術社会論の論文として発表したいそうですが、多くの分野でパラダイムを転換させてきた希代のパラダイムシフターの桜井所長でもこれだけは一筋縄ではいかないそうで、臨界安全の学識経験者として安全規制にも影響力を持っているY教授などとも相談して長期的なビジョンでもって取り組んで行きたいそうです。