さて、ナチの綱領のひとつであったユダヤ人の虐殺については韓国のよい子も知っているでしょう。
でも、それはいわゆる「戦争犯罪」とは別のカテゴリーに含まれます。
歴史学会の定説としては、戦争があろうとなかろうと、ユダヤ人虐殺は実施されただろう、というものです。
これについては、ドイツはニュールンベルグ裁判に於いて「人道に対する罪」として裁かれ、戦後になって犠牲者個人に対し謝罪と補償を行ってきました。
それも、よい子の皆さんはご存知ですね。
では、ドイツの戦争犯罪とはどんなものなんでしょう?
有名な事件をあげてみます。
①1939年ポーランド戦
ドイツ国防軍が「電撃戦」(本当は違うのですが)で第2次世界大戦の幕を開けた戦いです。
その国防軍が進撃した後から、主に親衛隊から構成された「特別行動隊」がポーランド占領地域に侵入しました。
彼らの任務は、将来ポーランドの指導層になりそうな知識人を抹殺すること。
政治家、弁護士、医者、教師などが片っ端から逮捕され銃殺されました。
②1940年ロッテルダム空襲
ポーランドを降伏させたドイツ軍は、一転して西ヨーロッパ諸国に襲い掛かります。
空挺部隊を先行させてオランダに侵入したドイツ軍は、ロッテルダム占領を目論み、立てこもるオランダ軍に降伏勧告を行います。
オランダ側は抵抗は無駄と悟り、降伏使節を郊外のドイツ軍に送りましたが、ドイツ軍の連絡の行き違いで爆撃隊は発進してしまいました。
既に先頭は終わったと信じていたロッテルダム市民の上に爆弾が降り注ぎ、膨大な死者が発生しました。
③1940年フランス戦・ラパラディの虐殺
ドイツの仕掛けた電撃戦により、フランス軍はもろくも崩れ去りましたが、派遣されていた英軍は果敢な抵抗を試みてドイツ軍を手こずらせました。
抵抗むなしくドイツ軍に降伏した英軍捕虜が集まっていたところに、武装親衛隊「ドクロ師団」の一分隊が通りかかりました。
いきなり機関銃が火を噴き、捕虜のほとんどは射殺されてしまったのです。
かろうじて生き残った2人の捕虜により、この事件は明るみに出ました。
④1941年~バルカン戦線
ソ連侵攻に先立ち、にわかにドイツに反旗を翻したユーゴスラビアを叩くため、ドイツ軍は侵略を開始します。
ユーゴ国軍は抵抗むなしく降伏しましたが、戦後大統領になったチトーに率いられたパルチザンは抵抗を続けます。
この地域は一時トルコの占領地となっていた歴史もあり、敵味方共に容赦のない戦闘を繰り広げます。
捕虜の射殺はもちろん、市民の虐殺、レイプ、略奪、放火など凄惨な戦いが終戦まで続きました。
犯した戦争犯罪は双方同罪なのですが、敗戦によりドイツ側が裁かれることになりました。
⑤1942年リデツェ村の虐殺
SS長官ハインリヒ・ヒムラーの片腕、ラインハルト・ハイドリヒはチェコスロバキアの総督である「ボヘミア・モラビア総督」も兼任していました。
彼が、イギリスの送り込んだチェコ人コマンドによって暗殺されたのです。
怒ったドイツ軍は、コマンドを支援したと見られたリデツェ村に襲い掛かりました。
男は全員射殺、女子供は収容所送りになり、村は完全に破壊され、跡形もなくなりました。
後になって、「コマンドをかくまった」疑いは、完全に誤りだったことが判明しています。
⑥1941年~ソビエト戦線(東部戦線)
これについてはソ連の秘密主義により、完全な解明はされていません。
ユダヤ人のみでなく、「パルチザンに加担した」と疑われた村々が⑤のリデツェ村級の虐殺にあったと言われています。
また、膨大な数のソ連軍捕虜は米英仏などの西側諸国の捕虜とは別扱いを受け、捕虜収容所で飢え、強制労働、病気などにより1/3以上が死亡しました。
⑦1944年ノルマンディー戦線・オラドゥールの虐殺
米英軍のノルマンディー上陸に伴い、この地域への連合軍の空爆が激化し、ドイツ軍は身動きが取れなくなりました。
いらだった武装親衛隊「ダス・ライヒ」師団は、たまたま停止したオラドゥール村の住民を射殺、残った女子供を教会に押し込め焼き殺しました。
パルチザン活動の疑いをかけられたのです。
⑧1944年バルジの戦い・マルメディーの虐殺
映画「バルジ大作戦」で有名な、ドイツ軍最後の大反攻作戦での出来事です。
順調にいくかと思われた反攻作戦も、燃料の不足や米軍のしぶとい抵抗で行き詰まりはじめました。
既に降伏して固まってすわっていた米軍捕虜の群れに、機関銃の乱射が浴びせかけられたのです。
犯人は武装親衛隊「アドルフ・ヒトラー・ライプシュタンダルテ」師団の一部隊と言われています。
⑨1944年イタリア
一足先に連合軍に降伏したイタリアは、昨日までの同盟軍であったドイツ軍の占領下に入りました。
そんな中、ローマ市街をパトロールしていたドイツ軍部隊に通り沿いのアパートからパルチザンの攻撃が仕掛けられ、十数名の死傷者を出しました。
起こったドイツ側は親衛隊に命じアパートの住人を狩り出させ、銃殺したのです。
責任者であったローマ駐留親衛隊司令官は、戦後の裁判の結果つい最近までイタリアの刑務所に拘留されていましたが、親族たちの手で脱獄した事件は話題になりました。
1980年代の話だったかな?
有名なものでもドイツの戦争犯罪はこのとおりですが、「抵抗運動に加担した」報復行為の犠牲者は他にも数知れません。
これらは、いわゆる「ホロコースト」とは別問題なのですが、ホロコーストの衝撃が余りにも大きすぎたため、あまり戦後問題視されては来ませんでした。
もちろん、ドイツ軍にも「従軍慰安婦」制度があり、日本軍と同様に軍医が健康管理をしたり、慰安所を管理していたことも知られています。
これらの事件の犯人や責任者たちは戦後の裁判で処刑されたり禁固刑になったりしましたが、日本の場合と異なり、ドイツによる被害諸国への謝罪や賠償は行われておりません。
なぜか?
責任者への処罰と、戦後の平和条約の締結により、これらの問題は解決されたと見做されるからです。
もちろん被害諸国民のドイツへの感情は完全に癒されたわけではありませんが、事あるごとに政治家やマスコミがこれをネタにドイツを非難したり、反ドイツ教育をしつこく続けたりはしていません。
過去のドイツと現在のドイツは別物であり、共に生きていくには感情的な「恨み」は何の助けにもならないことを、ヨーロッパの諸国民は理解しているからです。
戦争の恨みは3代以上は続かない、と言われる理由です。
戦争の歴史が長く続いたヨーロッパ諸国は、復讐の連鎖で殺しあうより、戦争もある種の「政治ゲーム」と捉えて、それなりのルールを作り、戦争も含めた国際関係を受け入れる道を選んだとも言えると思います。
そのルールを外れたのが「戦争犯罪」であり、それは突発的な犯罪として、国全体を非難する材料にはなりえないのです。
殺人事件が多いからといって、アメリカを「殺人国」と言わないのと一緒ですね。
韓国のよい子の皆さんはどう思いますか?