腹を空かしたハゲタカに「餌」を与えたときのように、当方が一言言えば、よってたかって「匿名」(小谷野敦さんだけは実名で)を隠れ蓑に、ああでもないこうでもないと人の「発言」を啄む。そして、「この質問に答えていない、即刻応答せよ」などと「命令」する。
再度言っておくが、「匿名」(訳のわからないペンネームも同じ)を隠れ蓑にしている人には一切応接しませんので、悪しからず。それでも僕のブログを「賑わせたい方」は、勝手にどうぞ。
そこでお一人だけ実名でコメントなさっている小谷野さんに、大学≠学問の府でないという僕の考えに関して、小谷野さんがおっしゃるように、僕ら教師は学生に単位を出す(単位認定)という行為において、「生殺与奪の権」を授与されており、その他の「業務」も含めて学生に対して(あるいは、教授は助教や准教授および大学職員に対して)「権力者」であることは、全くその通りで、僕が大学の教師になったときからずっと考えてきたのは、うまくいったかどうかはわかりませんが、いかにおのれの「権力」を揮わないか、でした(出席を取ることで授業に縛りつけることをしてこなかったのも、その一つの実践です)。たぶん、長い間の教師生活の中で学生に対して「権力」を揮ったこともあるかも知れませんが、相対的なことではありますが、僕は筑波大学の教師の中では学生や職員に対して「権力」を揮わない教師の一人だと思います(と書くと、そんなの自己満足だ、と言われそうですが、もしご不審なら、筑波大生にお聞き下さい)。
なお、小谷野さんに一つだけ質問があります。僕が先に書いた文章の中で触れた「ななとなく、リベラル」は、筒井康隆の「文学部唯野教授」を意識して書かれた作品でしょうか(もちろん、僕は御作を「盗作・盗用」などと言うつもりもありませんし、全くそのように考えていません。ただ、御作を読んだとき、筒井の作品を思い出し、もしかしたら「パロディ」かな、と思ったものですから、教えていただければ幸いです)。
さて閑話休題。
今回の経験で思い知ったのは、いかにネット社会における「モラル・ハザード」が進行しているかであったが、そんな「コップの中の嵐」より、開いた口がふさがらなかったのが今大々的に報道されている「汚染米」騒動である。今回の事件、内部告発を受けた三笠フード(三笠フーズでした。訂正します)を初めとする流通業者も問題だが、何よりも「道徳心」というか人間としての「両親」(「良心」の間違い)を無くしていたのは、厚労省(これも間違い。「農水省」でした。以下同じ)のお役人たちであった。厚労省(農水省)の事務次官のあの「悪いのは業者であって、厚労省ではない」という言い草が何よりも語っているのは、明治時代(それ以前からかな)以来の「官尊民卑」の思想に他ならない。処置に困った「汚染米」を、今ではどこのメーカーも作っていない「工業用のり」用に出荷するため、件の三笠フード(三笠フーズ)を始めとする流通業者に「お願い」して安く買ってもらい、その見返りに検査も甘くするという「官業癒着」の構図は、この社会が根源的な意味で「モラル・ハザード」状態になっていることを表している。
そして、思い起こせば、この「汚染米」問題も元を質せば、米国の支援を背景にした小泉政権が推し進めた「改革」の結果であることを僕らは忘れてはならないだろう――「改革」によって米の流通が「自由」になり、「モラル」など全く考えない金儲け主義の業者が米流通業界に参入してきた――。時は自民党総裁選の真っ最中、5人の候補のうち何人かが「小泉改革」の継承を訴えているが、繰り返すが、体験的に言って小泉改革の目玉であった「郵政改革」が地方ではとんでもない事態を招いていること、小泉さんがやった「改革」など、内政的にはそんなものであること、このことも肝に銘じるべきであろう(外交・国家思想の面からは、自衛隊の海外派兵を現実化した、という大きな「罪」を犯した、と僕は思っている)。
とんでもない時代になっていることを、僕らは忘れてはならない。 |
もうおまえでいいよね、頭おかしいよ・・・
この間の先生のブログでのコメントを拝読していて、このお言葉だけには激しく同感いたしました。先生のような方が、文芸評論家であるとか大学教授であるとかは関係なく、言論公表者であるという日本という国を憂えて、柄にもなくナショナリストになってしまいました。
黒古よ。左派、リベラルの大学人として言わせてもらうが、あんたに左翼(しかもステロタイプ極まりない)的視点から政治批判をやる資格はない。それはこの一連の論争で明らかだ。悪いことはいわない。もうブログ閉じな。
昔の左翼はもう少し理論闘争で鍛えられたものだが、もはやあんたは欺瞞的惰性体に過ぎないだろ。
ローンもあるだろうから、辞職せよとは言わん。公的な発言はごくごく専門的な領域に限るべきだな。(匿名であれ、顕名であれ、実名であれ)論争にも応じず、自己批判もできないような輩は、左翼でも何でもない。
黒古一夫は福田康夫以下であると断定しておくぞ。
世の中にはいろんな意見があります。
それを前提にしましょう。
自分と違う意見の人を見ると自分が否定された気になって腹が立つことがあるでしょうが、それで相手に悪口を言っても、自分自身も貶めている感じで、すっきりした気分にはならないでしょう。
もう少し落ち着いて、議論をしましょう。
議論を重ねることでお互いの認識を高められるような
形にしようではありませんか。
ブログの主に対する感情的、心ない悪口は、見ていて気分のいいもんではないです。
「学問・研究は社会批評を含む」←まあ疑わしい
「私の『文学』は社会批評を含む」←主観的にはそうなんだろうね
それゆえ
「私の『文学』は学問・研究である」
なんて頭の悪すぎること本当に考えてたんなら全共闘世代にしても度が過ぎていると思いますよ。まあ匿名が相手でも論破してやろうなどという知的気概を60過ぎの老人に求めようとはあまり思いませんが(まあどうせ全共闘世代ですしね)。
しかし、肝心の『文学』観についてはまったく説明も敷衍も正当化もないようで、お師匠の小田切秀雄式の「戦後文学」理念を振り回してマルクス主義的文学理論全面展開、みたいなのを期待していたのにガッカリです。
>「両親」を無くしていたのは、厚労省のお
>役人たちであった
これだけ誤字誤用が問題になってるのに、まだ「両親」
とか書くか?
どこの「厚労省」の役人が「両親を無くした」んだ?
しかも、この問題の管轄は厚労省じゃなく農水省だろーが。
自分も役人(みなし公務員)のくせに、そんなこともしらんでよく「社会批評」など書けるな。バカなTVコメンテーターだってそんな間違いしないぞ。貴方のバカな「言い草(正規表現は「言い種」)」が許されているのは「官尊民卑」だからじゃね?
国立大学バカ教員のたわけた「言い草」に事務次官も大わらいだろうな!
> が推し進めた「改革」の結果であることを僕らは忘れてはならないだろう――「改革」によっ
> て米の流通が「自由」になり、「モラル」など全く考えない金儲け主義の業者が米流通業界に
> 参入してきた――。
バカなの?
三笠フーズが事故米を転売していたのは1985年からなんですけど。小泉改革とか何の関係もないし。三笠フーズはそもそも新規参入業者じゃないし。三笠フーズの社長いわく、カビを削れば食べられる米を工業用としてムダにしてしまう農水省がおかしい、米を大事にする昔ながらの美しい精神はどこいった、ということで転売してきたということなので黒古先生的にはむしろ三笠フーズ褒めてあげないといけないんじゃないの?
そもそも入札に参加できるのは商業登記に「工業用糊製造」と書かれている会社だけ――実際には製造しない・するつもりもないのに登記してれば商法違反――なので、農水省の役人責める前に――責めるなとは言わないけど――虚偽登記してしかも転売してた業者をまず責めてください(でもいっとくけどそれは小泉内閣云々とは何の関係もないよ)。
事実とまったく関係なくアプリオリに小泉内閣批判とかグローバリゼーション批判とか資本主義批判へと向かっているあたりが本当にクズですね。体制批判は多いに結構ですが、無根拠な批判は単純に有害です。左翼全体がバカみたいに見えるので本当に迷惑です。
これは正確じゃなかったな。事実を重んじる左翼としては訂正しておきましょう。1985年から事故米転売してた福岡の会社があって、これが1997年に三笠フーズに買収されたのね。で、福岡の会社の経営者が事故米転売を三笠フーズに指南したので買収された10年ほど前から三笠フーズも事故米転売を始めたと。まあいずれにせよ小泉内閣とか新自由主義とか1ミリも関係ないですね。
「なんとなく、リベラル」はもちろん田中康夫「なんとなく、クリスタル」のもじりですが、『文学部唯野教授』を意識したかといえばしていて、それは『反=文藝評論』という著作に書いてあるので、ぜひお手すきの折にでもお読みください。
それとブログにも書きましたが私は三浦綾子の『氷点』を、犯罪者の娘もまた犯罪者であるかのごとくに想定する点で差別的な小説だと考えており、これも著書のどれかに書いてあるはずです。いかがお考えか、お聞かせください。
> あった「郵政改革」が地方ではとんでもない
> 事態を招いていること
地方でどんな「とんでもない事態」を「招いている」のかどうぞ具体的にご教示ください(「招くだろう」じゃなくて「招いている」のなら具体的事例を追跡・検証可能な形で挙げられるんでしょうから←「体験的に」とはそういうことですよね)。簡易郵便局数が減ったとかですか? で、それがどれほど「とんでもない事態」を引き起こしているのですか? 集配回数が減ったのが「とんでもない事態」だとかいわないでくださいね(離島の人に殴られますよ)。
米の流通業者もしかりですが、改正前の食糧法による高い参入障壁に守られて農協・全農(そして農水省)と癒着してきた旧来の流通業者が今回のような問題を引き起こしているのだということがまったくわかっていませんね。これで資本主義や自由競争批判をしようというのだから笑わせてくれます。
地方の郵便局も農協絡みの業務受託者ばかりで(地方の特定郵便局が何をしてきたことか)、都市を疎外した農村による日本支配の一翼を自民党の支持基盤として担ってきたわけですけれどね(民主主義を真剣に捉えているならば到底見過ごせない――最高裁によって何度も違憲状態にあると指弾されてきた――田舎の票に馬鹿馬鹿しいほど重みのついた投票格差がなぜ是正されないのか考えたことはありますか?)。戦後から現在にいたるまで(というよりもそもそもフランス革命のころから)、土地を所有し既得権に安住する農村はずっと反動勢力であり、都市労働者とは階級的利害の対立相手であり左翼の敵でした(農村から都市へ労働者が流入したことで都市と農村を繋ぐ家族関係があったためにこのことが最近まで隠蔽されてきたに過ぎません)。
小泉改革が、農村による不当な――投票格差という違憲状態によって支えられた――日本支配を実現してきた自民党の支持基盤を田中角栄的自民党への憎悪を以って自ら破壊したこと自体は立憲主義者として民主主義者としてまた左翼として実に慶賀すべきことです。その点を冷静に評価できない者は知的廉直性を備えた左翼ではありません。
なにせ、汚染米の管轄を厚生労働省であるかのように書いて、何の疑問も持たないほど社会常識に欠けた御仁であらせますので。
何度も申し上げますが、黒古センセが軽蔑してやまぬTVキャスターやコメンテーターだって、こんな基本的な誤りを犯せば、即刻クビでしょうね。
厚生労働省の江利川事務次官は、筑波大学学長に対し名誉毀損で抗議するべきです。いやしくも中央省庁の次官発言を捏造し、「言い草」などと誹謗したのですから。
×あらせます
○あらせられます
でしたな。誰かさんとちがって誤字は直ちに素直に訂正。
なぜ厚労省だと思ったのでしょうか。
米のモンダイを厚労省が管轄していると誤解している人というのは、きわめて珍しいのではないかと思います。
なぜ、そう「思い込んで」しまったのでしょうか。
あるいはまた、三笠フーズによる不正転売が小泉改革以前から始まっていたことであるのは、新聞報道等を見る限り、「事実」です。この問題について「応接」をしない、というのはいかがなものでしょうか。
事実誤認またはそれにもとづく記述は、訂正するべきだと思います。匿名の中傷に「応接」する必要はないと私も思いますが、事実誤認を指摘するコメントなら、たとえ匿名でも「応接」すべきではないでしょうか。
私は先生とは一面識もなく、ブログを開設しているわけでもなく、かつまた著名人でもありません。
したがって山口裕輔と「名前」を書き込んでみても、それはほとんど匿名のようなものです。先生は匿名のコメントには応接しないとお書きになっていますが、私のような人間は、職業や住所、電話番号等を表示しないと「応接」してもらえないのでしょうか。
面識のある人、小谷野氏のような著名な方だけに「応接」するというのなら、ブログにコメント欄を設けるのはやめて、意見はメールにて受け付けることにし、フリーメールのアドレスを受付先にしてはいかがでしょうか。あるいはmixiに登録して日記を書き、「友人のみに公開」とする手もあります。
いろいろ書きましたが、今回のコメントが「応接」してもらえぬなら、2度とカキコミはいたしません。お邪魔しました。
併せて「三笠フード」も「三笠フーズ」の間違いです。
山口裕輔さん、ご指摘ありがとうございました。
なおついでに言っておきますが、僕が<「匿名性」の陰に隠れて云々>と言うのは、「個人情報」に関する住所や電話番号などを公表してからものを言え、と言うのではありません。僕の言いたいのは、人の言説を批判し、もし「論争」を望むのであれば、自分がどのような立場で、どのようなことを今している人間であるか程度は、明らかにする必要があるのではないか、と思ってのことです。僕は、それが「ルール」だと思ってきたからです。
ですから、僕はこのブログを始めるとき、僕が何をしている(してきた)人間かを明らかにし(プロフィールで)、そして他者に対する批判を行ってきました。僕が再三再四「匿名性の陰に隠れるのは卑怯だ」と言っているのは、そのような前提に基づいています。と言っても、そのことを理解しない(振りをしている輩もいるようですが)人たちを相手にするのは、正直言って疲れます。
それに加えて言えば、自分のPC技術の至らなさと「ネット社会」の負の部分−と言うと、また腐廃物にたかる蠅のように、また喧しくなるのだろうな−を十分に知らされました。
匿名コメントには応接しないなどと威張っているが、ただ単に己の誤りを認めるのが口惜しくて逃げたいだけでしょうが。最初からその方針を貫いているならいざ知らず、一度は「『バカ』はどっちかな?」と(そっちに決まってるだろ)反論しておきながら、やり込められてこれ以上言い返せなくなったとみるや、途端に「匿名お断り」などと言いだすんですからね。素直に間違いを認めて謝っていれば、「黒古さんはバカだけど潔い人ではあるんだな」と少しは見直されようものを、バカである上に恥知らずな卑怯者とあっては、もはや救いようがないですね。
実名に拘ることの無意味さは上の山口さんが適切に指摘なさっているとおりだが、そこまで言うならべつに知られて困るもんじゃなし、お望みどおり実名でコメントさせてもらいますよ。
ところで、「訳のわからないペンネーム」とは、私がこれまで用いていた「quidam」という名前のことですか?あなたが知らないだけで、これにはちゃんとした意味があるんですがね。自分が知らないもの、自分には理解できないものは何でもかんでも「訳のわからないもの」として一蹴なさるんですね。ご立派なことです。ちなみに、ネット上で用いられるこの種の名前は「ペンネーム」ではなく「ハンドルネーム」というのですよ。
さて、あらためて言いますが、先日、あなたの書いた文章の中に「何をか況や」という記述を見出し、例によって例のごとくタイプミス(誤変換)だと思った(この点は強調しておきます)私は、「×何をか況や ○何をか言わんや」と指摘し、「自分がタイプしたものを見直すという簡単なことすらできないのかね、この人は」と苦言を呈しました。するとあなたはそれに対して、
>この言葉そっくりお返しします。どんな辞書をお使いなのか知りませんが、僕が使っている「大辞林」や「広辞苑」には、「況や」が最初に出てきて、「言わんや」はその通用語であるというようなことが書いてあります。
と返答しましたね。私が常用している辞書は『大辞林』(第三版)ですが、その「況や」の項には次のように記されています:「動詞『言ふ』の未然形に推量の助動詞『む』と反語の助詞『や』が付いた語。漢文訓読に由来する語で、もと文末に『…といはんや』と補読されていたものが、文頭の『況』字の訓に移行したもの」。『広辞苑』の説明もほぼこれと同じものです。―黒古さん。お尋ねしますが、いったいこれをどう読めばあなたが言ったような意味に解することができるのでしょうか。あなたが基本的な読解力を欠いた人であることはいまや多くの人の知るところですが、もし何か合理的な説明が可能なのであれば拝聴しますよ。
あなたはさらに続けて、「意味がわかるかどうかわかりませんが、あなたのような方を『一知半解』というのです」と私を侮蔑しましたね(「意味がわかるかどうかわかりませんが」?これは私を含めた多くの人々が、ほかならぬあなたに対して何かものを言うときに、常に抱かざるをえない懸念ですよ)。そこまで言うからには、あなたはご自分の正しさに絶大なる自信がおありなのでしょうね。ならば、どうかそれを確たる論拠を示して証明してみせて下さいよ。それが出来ぬなら、ご自分の誤りを認め、上の発言について謝罪して下さい。私が間違っていることがわかったら、きちんと謝りますから。
ご参考までに、あなたを掩護しようとして見事に失敗した、あなたの昔の受講生と私のやり取りを再掲しますので、ご一読を:
>十八年ほど前の受講生(於高島平)
>漢文では「何況・・・乎」(何をか況(ん)や・・・をや)といった文章が度々出てきます。上の黒古先生のコメントは、その言い方を使っているというだけです。そもそも『広辞苑』等を引けば明らかなように、「況(ん)や」は、漢文訓読の際、もともと文末に捨て仮名として「・・・(と)いはんや(「言はんや」の意)」と振っていたものを、文頭の「況」字の訓(よみ)としたものなので、「何をか況(ん)や」とは、「何をか言はんや」と同じことなのです。
>quidam
>>漢文では「何況・・・乎」(何をか況(ん)
や・・・をや)といった文章が度々出てきま
す。
>出典を明示して実例を挙げていただけませんか?私も「何況…乎」という文章は何度か目にしたことがありますが、管見の限りでは、いずれも「何ぞいわんや…をや」と訓読するものでした。
>私が言いたいのは、「況」には本来「言う」という意味はなく、上のような事情によって「いわんや」と訓読されるようになった字であるからして、これを用いるのは「ましてや…はなおさらだ」「…については言うまでもない」という意味の場合に限るべきであって、「何をか言わんや」(何を言おうか、何も言うことはない)のような場合に用いるのはおかしいではないか、ということなのです。
以上です。誠意あるご解答をお願いします。
前にも申したとおり、私の現在の身分は学生です。大学名まで言ったほうがいいですか?京都大学です。
> あるいはまた、三笠フーズによる不正転売が
> 小泉改革以前から始まっていたことであるのは、
> 新聞報道等を見る限り、「事実」です。この
> 問題について「応接」をしない、というのは
> いかがなものでしょうか。
上のUnknownさんが指摘した「事実誤認」についての疑問はまだ残ります。
しかし私の一番の関心は
農水省→厚労省というミスがなぜ起きたのか、
ということにありましたので、これ以上の応接はしていただかなくても結構です。(おそらく小泉改革の「負の部分」についてお考えになっていたのでしょうね)
なお蛇足ですが
>腐廃物にたかる蠅のように、また喧しくなるのだろう
という記述、ご自分を「腐敗物」に喩えるのは、へりくだりが度を越えているように感じました。
>「厚労省」のことについて考えていたので、
はいはい。そういう弁解をなさるだろうと予想していましたよ。
この種の言い訳は、ここがちまたの床屋政談なら許されます。しかし黒古センセは「ブンガクの社会批評性」を重視する国立大学キョージュ兼文芸ヒョーロンカでいらっしゃるので、到底、これで許されるとは思われません。
まあ、このブログの以前の時評系エントリーを拝読しても、床屋政談を出るものはひとつもなく、テレビ(しかもワイドショー)をはるかに下回るクオリティでしたがね。
少しは新聞を精読したり、ニュースを真剣に御覧になったらいかがですか? 最新の政治学や法律学、経済学の基本書をひもとかれたら?
御自分の社会批評性の陳腐さと曖昧さ、社会認識の不正確さが身に染みて理解できますよ。
まるでキョービの若者へのアドバイスみたいですが、齢60過ぎのあなたにも必要なことです。
以下は別にとりたてて先生に対する批判ではなく(ましてや中傷でもなく)「ブンガク」に於ける「シャカイヒヒョー」という奴に対する疑念の一端の提示です。昔だと(今でもか)大江健三郎とか近年だと高橋源一郎がそういう症状を呈していますが、文学者がその資格に於いて「社会批評」をできるなどというのは完全に幻想なんです。だって、黒古先生もわが身を省みて思い当たられると思いますが、高校の「公民」科目程度すらも社会制度のことについてご存じないのですから。いわゆる「護憲派」が本当に憲法の条文と具体的な適用事例や判例を知っていることなど殆どない、ということを思い起こしてもいいのでしょう(たとえば殆どの「サヨク」の方々はこちらの顔が青くなるほど憲法のことをご存じない)。文学者(とりあえず創作者としての)は政治哲学や倫理学の専門家ではないのですから、そのこと自体がそれほど恥ずかしいわけではない(素人の無知を嗤う専門家はいません)。でも、なぜか「倫理」とか「政治」の事となると素人でも「わかっている」かのような錯覚に陥りがちであり、その結果としてお話にならないレベルの素人談義を得意げに垂れ流すことになるわけです(源氏物語の専門家が素人に源氏物語の文体論を訳知り顔にぶち上げられた時の困惑を想像してみてください)。先生の「シャカイヒヒョー」はそのレベル(率直に申し上げればはっきりいって「素人」以下)です。すみません、つい批判になってしまいました。
カート・ヴォネガットが文学者(創作者としての)の役割は「炭鉱のカナリア」だと言っているのが実に的を射ていると思います。文学者にできるのは社会に於ける微かな腐臭に悶絶し微かな歪みに狂乱することで人々に警告を発することです。炭鉱に漂っている瘴気の成分を分析したり原因を究明することはその任ではありません。だからこそ学とは関係のない芸術としての文芸の――社会批評上の――意味があるのです。文学者(創作者としての)の文学者としての(社会批評上の)役割は「私は社会批評に一言ある」などと賢しらぶってご託宣を垂れるなどというもんじゃないのです。「カナリア」としての過敏性を失わないこと、これに尽きます。
さて、黒古先生はご自分を省みられていかがでしょうか。政治・社会批評に必要な素養や訓練はこのブログを拝見する私が拝見する限りではあまり期待させていただけそうにないようです。では黒古先生は「カナリア」の過敏性をお持ちでしょうか? 私の見るところ小谷野先生には――多分に暴走気味ですが――この過敏性があります(瘴気の成分分析や原因究明にはあまり適性がおありではないように見受けられますが)。この一連のコメント炎上の様を見るにつけても、今のところ黒古先生にはどうもそうした「過敏性」は――大変残念ながら率直に申し上げてその片鱗すら――伺えません。
この「過敏性」は殆ど天与の才能の問題ですから、無いのであれば今さら身に着けようとしてもムダでしょう(私も自身を省みてそう思います)。むろん黒古先生は創作としての文学に携わっているわけではないのでそれでも良いと思います。しかし、だとすればご自分の「文学」にとって本質的だとされている「社会批評性」というものにどうやって向き合うおつもりなのですか? 事実に照らして考える前に既に結論が決まってしまっているような「シャカイヒヒョー」に「社会批評性」が少しでもあるとお思いなのですか? 20年以上前に遡る汚染米の問題を小泉改革――参入規制をほぼ撤廃した食糧法改正は2004年です――に結び付けて怪しまない先生の態度(そしてそれを指摘されても自分の過ちを認めずにただ嵐が過ぎるのをやり過ごそうとする態度)の「ヒヒョー」性が如何なるものなのかもう一度考えてご覧になると良いのではないかと思います。
老婆心ながらあと一言だけ申し上げます。
> 僕の言いたいのは、人の言説を批判し、
> もし「論争」を望むのであれば、自分が
> どのような立場で、どのようなことを今して
> いる人間であるか程度は、明らかにする必要
> があるのではないか、と思ってのことです。
> 僕は、それが「ルール」だと思ってきたから
> です。
そのような「ルール」が正しいものだと思われる理由を提示できないのであれば、そんな「ルール」はたんなる迷信か独りよがりに過ぎません。そもそもある議論の妥当性は、その主張者の属性によっては如何なる影響も受けません。どんな人間が主張しようと、正しい議論は正しいのであり、誤った議論は誤っているのです。先生はここで対人論法の誤謬を犯しています。それとも先生は自分の主張の正しさ云々には一切の興味がなくてただ「論争」に勝ちたいのですか(それなら――読者がそれに騙されるくらい愚昧である限りに於いて――対人論法は効果的でしょう)? いったい、実質的に匿名と変わらない自己申告に基づく「顕名」で先生はいったい何を求めているのですか? 「ネット小僧」とか「『大学教授』への嫉妬や憧れを感じる」などといった発言を見るにつけても、社会的属性は(しかも単なる自己申告なのに!)、先生に議論の手がかりを与えるというよりは、先生のバイアスを増幅するだけのことでしょう。小谷野先生の厳しい匿名禁止ルールは互いを顕名に置いてことあらばいつでも相手に対して(互いに実名かつ訴状の送達ができるような情報を曝した状態で)法的手段に訴えて法的責任を追及しまた相手に法的手段に訴えられることを許容する、という――あまり普通ではないが確かに筋は通っている――原則に基づいたものでしょうが、黒古先生があらゆる批判的議論で自分の社会的属性と訴状の送達可能性を相手に通知せずにはおかないなどというムダに苛烈な立場に立っているとは思いません。だとすれば黒古先生は結局のところ「顕名・匿名」についていったい何を考えているのですか? 「ルール」だと思ってきた、というのはご自身についての説明ではあってもその「ルール」の正当性や妥当性について教えるところは何もありません。
「顕名」に意味がないと思う私としてはこのコメントを匿名で書き込みます。まあ無視されるのだと思いますが、黒古先生が無視さるのが黒古先生のご自由に決められるところであるのとのとまったく同様に、黒古先生の対応について私が何事かを考え、どこぞでそうしたことについて私的会話で語ったり、記録の抹消の困難なウェブ上に残る形で書いてみたり、ことによると流通する印刷物にしてしまったりすることもあるだろう、それを私は自由に決める、というそれだけのことではあります。
どうぞご自愛ください。