石川健治（法学政治学研究科・法学部教授／憲法学）［東大教師が新入生にすすめる本 2007年「UP」4月号より］
「新入生にすすめる本」について語るというのは、老人が過去の過ちを振り返りながら、同じ過ちをしないよう青年に与える教訓に似ている。そうした老人の教訓を忠実に守るような青年は、独創性の乏しい青年である。恋愛の危険については古来幾度となく諭されているにもかかわらず、青年はつねに危険な恋愛に身を委ねることをやめないではないか。人生は冒険である─―そう説いた三木清の読書論は、おそらく彼の全仕事のなかでも、最も卓れた文章の一つに属していると、私は思っている。
� ．▲螢好肇謄譽垢�らバグワン・シュリ・ラジニーシまで、駒場で過ごした教養課程の二年間に、自ら読み、また読まされた書物の多様性を考えれば、省みて、青年期の読書は、たしかに冒険そのものであった。いまの自分を造形した書物に心当たりがないわけではなく、それはまた抜き難く時代性を刻印されているものでもあるが、読書遍歴はまさに恋愛遍歴と同じであって、「自分はこんな本を読んできた」と豪語する読書界のドン・ジョヴァンニに、ここで倣うつもりには到底なれない。駒場での旧師にこの場をかりて遅ればせの謝意を表する意味で、その当時の代表作として
『気流の鳴る音─交響するコミューン』真木悠介（ちくま学芸文庫、2003）
『熱力学入門』荻野一善（岩波書店、1976）
の二冊を挙げるにとどめる。
とりわけ、文科一類生にも手加減のない理系向けの講義をすべきだというのが持論だった故・荻野教授には、当時ずいぶん良くしていただいたことを想い出す。「市民の教養」と称しておためごかしの啓蒙的講義を行うことへの私の不信感は、もっぱら先生によって植え付けられたものだった。それに、あの頃は予想だにしなかったことであるが、秩序の叙述に時間の矢をもちこんだ熱力学は、実は社会科学の基礎理論に多くの示唆を与えており、先生に教わったカールノー・サイクルについての知識（私が憶えているのは、いまとなってはその程度でしかないのだが）は、たとえば第三共和制フランスの憲法学者、モーリス・オーリウの社会運動論を理解するのに、直接役だつことになった。学恩に感謝し、心よりご冥福をお祈りしたい。
�◆（�埒な読書の末に、ディシプリンの重要性に気がついた者は、各々の専門の途に入ってゆく。しかし、修行の末に研究者になってみると、自らの研究を個性化し、自分を自分たらしめるのは、結局、かつての知的な放蕩生活のなかで、澱のように残った〈設問〉であることに気がつくだろう。だから、少なくとも憲法研究者をめざす冒険者─―が読者のなかにいるとして─―に対しては、「これだけは読んでおこう」ということは、いいたくない。それでも、あえて一言、というのなら……ドイツ語とドイツ観念論の勉強をしておくことかな。さもないと、日本語の文献を読むことは、できないと思うから。英語使い仏語使いの方には申し訳ないが。
�� 『根拠よりの挑戦─ギリシア哲学究攻』（1974）の著者井上忠教授が、自らの好敵手として、そのことを語るのが楽しくて仕方がないというようすで講義中に何度も名指ししていたのが、黒田亘教授である。興味をもった私は、彼の『経験と言語』（1975）を読みふけり、その後、新刊の『知識と行為』（1983）をも耽読した。ただただ爽快としかいいようのない読書体験であったことを、いまも良く憶えている。と同時に、一足飛びに実践哲学を論ずるのではなく、それが迂路と知りながらも、あえて必要な手続を一つ一つ積み重ねながら進む黒田教授の英雄的な行軍が、目的地の手前で〈時間〉によって阻まれたという事実にも、いまなお深い感慨をおぼえる。また、黒田作品とは全く別の意味で印象に残っている東京大学出版会の刊行物は、今道友信『同一性の自己塑性』（1971）と小早川光郎『行政訴訟の構造分析』（1983）。本項で挙げた書物は、いずれも私の専門に関わりがある。
�ぁ�『自由と特権の距離─カール・シュミット「制度体保障」論・再考』（日本評論社、1999、増補版近刊予定）
甚だ不本意ではあるが、私の主著というと、これになる。同業者にアンケートをとったとしたら、これを「新入生にすすめる本」に挙げる人は、一人もいないであろう。