杉森玲子（史料編纂所助教授／日本近世史）［東大教師が新入生にすすめる本 2007年「UP」4月号より］
� ‖膤悗貌�って新しい人間関係を築きながら勉強する毎日に不安や疲労を覚える方は少なくないだろう。入学を機に見知らぬ土地で暮らし始めた場合はなおさらである。そんなとき何かの力になるような本を紹介したい。
『若き数学者のアメリカ』藤原正彦（新潮文庫、1981）
ミシガン大学に研究員として招かれた29歳の著者が、同僚への対抗意識などに駆り立てられて研究に打ち込み成功を収めるものの、孤独感にとらわれ、やがて最も深い部分で心を通わすことのできる人と出会い自分の歩む道を見出していった三年間の体験を綴ったもの。異なる文化や社会の中で模索を重ね自らを育てていく姿に励まされる。近著『国家の品格』（新潮新書、2005）がミリオンセラーとなった著者の第一作である。
『数学者の言葉では』藤原正彦（新潮文庫、1984）
冒頭の章にある「学問を志す人へ─ハナの手紙」では、かつてコロラド大学で教えた女子学生が陥った大学院生の孤独と情操生活の欠落という悩みを通じて、学問を志す人に望まれる四つの性格条件を挙げている。学問に取り組み始めた頃の青年が抱く三つの不安にどう立ち向かうべきか、人間的魅力と関連付けて示す部分には勇気付けられるかも知れない。もっとも、小学生の頃から家のあちこちに「天才数学者藤原正彦」と落書きしていた（藤原咲子『母への詫び状』山と渓谷社、2005）という著者に明快に提示されると、いまだに不安を募らせることはあっても性格条件には満たすものが少ない私にとっては、そのこと自体が第四の不安になりかねないのだが。
何かに精を出すこともなく日々を過ごしているときには、右の著者が二歳で登場する次の本を手にとってみてはいかがであろうか。
『流れる星は生きている』藤原てい（中公文庫、1976）
敗戦直前の満州から三人の乳幼児を連れて一年がかりで引き揚げてきた母親が、病の床に臥し遺書のつもりで書いた壮絶な記録である。今日こうして生きている、ただそのことの重みがずっしりと感じられる。
�◆�『近世封建社会の基礎構造』朝尾直弘（御茶の水書房、1967）
専門課程に進学して初めて、合宿形式で行なわれた読書会で読んだ本である。畿内の村落史料の緻密な分析に基づいて中世から近世への展開の様相が描き出されており、近世社会の成立を理解するうえで大きな基礎となった。本書を第1巻に収めた『朝尾直弘著作集』全8巻（岩波書店、2003-04）では、朝尾史学のスケールの大きさを実感することができる。
『日本近世国家史の研究』高木昭作（岩波書店、1990）
恩師であり勤務先の元所長でもある著者は、公務として日本史の編年史料集『大日本史料』第12編の編纂に長く従事し、その過程で近世の国家と社会のあり方の根幹に関わる問題について研究を積み重ねてきた。並の者には理解の及ばないほどの徹底的な史料の読み込みと卓越した認識をもってそれをまとめた本書は、近世史研究における金字塔というにふさわしい。
�� 『中世を読み解く─古文書入門』石井進（1990）
古文書を読み解く楽しみを味わい実力を身に付けることを目的に講義という形で読解の手ほどきをする本書では、古文書のもつあらゆる情報を読み取り言葉とその用法を丹念に解釈することによって中世社会の実態を探り当てていく。学生時代に受講したときの語り口そのままに進められる講義は「では、どうかお元気で、もっと勉強を続けて下さい。さようなら。」と結ばれており、著者亡き今となってはひとしおその言葉に背筋を伸ばされる思いがする。
『日本都市史入門』（全3巻）高橋康夫・吉田伸之編（1989-90）
空間・町・人を各巻の柱として日本都市史の全体像を見通すことをねらいとしたこのシリーズでは、都市の社会と空間を密接な関わりのもとにとらえそこで暮らす人々の姿を具体的に描いている。当時の都市史研究の到達点を示す本書において、日本史と建築史の共同作業によって切りひらかれた視点や方法は、刊行後17年経つ現在でも研究に影響を与え続けている。
偶然にも右の二点は「入門」と銘打っているが専門的な関心にも十分応えるものであり、少しでも歴史に興味をお持ちの方に幅広くお薦めしたい。
�ぁ�『近世日本の商人と都市社会』（東京大学出版会、2006）
近世日本の商業や流通の担い手である商人が商品や商行為を媒介として人や社会との間にいかなる関係を生み出したのかという点から、市場や商人の活動の特質について検討したものである。