橋場 弦（人文社会系研究科・文学部助教授／古代ギリシア史）［東大教師が新入生にすすめる本 2007年「UP」4月号より］
� �『冬の鷹』吉村昭（新潮文庫、1976、改版1988）
『ターヘル・アナトミア』訳業の中心人物で事実上の訳者筆頭であるにもかかわらず、学問を栄達の手段とすることを嫌い、自分の名が訳者として同書の扉に掲げられることを拒んだ前野良沢の孤高の人生を、平明で抑制された筆致によって描く。欧文史料・文献と格闘しそれを読解する苦労は、西洋史を研究する以上負わねばならぬ宿命である。辞書も文法書もなく初めてオランダ書読解に挑んだ良沢らが、同じような、しかしわれわれよりもはるかに大きな困難を経験したであろうことは想像にかたくない。そこに私は同業者の苦悩を見いだす。原文ではわずか六語からなる単純な一文を解釈するのに多大な時日と労力を費やし、ついにそれが「頭は人体の最上部である」という意味であるとわかった時、良沢らは思わず「立ちあがるとたがいに肩をつかみ、手をにぎり合」って狂喜し、やがて感極まって「腰をおろし眼頭をおさえ」る。読むたび感情移入してしまう場面である。昨年七月、吉村は長逝した。私が読みたいと思う現役の日本人小説家は、これでほとんど姿を消した。
『摘録 断腸亭日乗』永井荷風（岩波文庫、1987）
戦時中ひそかに体制批判を書き綴ったこの手の「逼塞もの」を、とくに最近好んで読む。清沢洌『暗黒日記』もよいが、当時の日本人一般の心性を知る上で読み応えがあるのはやはり荷風だろう。全員が一斉に同じ方向を向いてしまうがゆえにその異常性を認識できないこの国の思想風土の中で、時代に巻き込まれず生きることの意味と難しさを教える。ある時代のもっとも優れた記録を書き残す歴史記述者とは、権力構造の主流の外に置かれた「他者」である。この作品が当初から読者を意識して書かれた「文学」としての構造を備えていることは承知しているが、思うことを自由に口にできない社会の空気を伝える日記として、近未来的な（あるいはすでに同時代的な）親近感を覚える。
�◆仝殿絅�リシア史に興味があるのならば、ヘロドトスやトゥキュディデス、クセノフォンらの古典作品をまずは読んでほしい。岩波文庫や西洋古典叢書（京都大学学術出版会）などから翻訳が出ている。古代史学者の著作を選ぶならば、次の一点を挙げる。
『民主主義─古代と現代』Ｍ・Ｉ・フィンレイ／柴田平三郎訳（刀水書房、1991）
西洋古代史の泰斗である著者が、一般市民の政治参加を不要と見なす「民主主義のエリート理論」に対し、強く異議を唱えて書いた名著。「衆愚政」との批判を浴びてきたアテナイ民主政について、「アテナイ人も誤りを犯しはした。一体、統治制度で誤りを犯していないものがあるだろうか。だから、アテナイ人たちはある完全なものへの理想を実現するには至らなかったと非難するお馴じみのやり口は当を得てはいない」と述べる。著者はマッカーシズムによってアメリカを逐われ、ケンブリッジ大学に移り、やがて世界的に著名となる。本書は、彼がかつて逐われた母国に招かれて行なった講演をもとにしたものであり、民主主義の名の下に粛清の嵐が吹き荒れたアメリカに対する、ある意味で痛烈な復讐であった。前野良沢とはまた違った意味で、フィンレイの学者そして市民としての良心を感じさせる本。
�� 『箕作元八・滞欧「箙梅日記」』井手文子・柴田三千雄編（1984）
箕作は草創期の東京帝国大学史学科教授で西洋史学研究者。日本における近代歴史学が、明治国家の近代化という時代の要請を背負ってスタートしたことが伝わってくる。とはいえ、独仏に留学中の日常を綴る著者の態度は思いのほか楽天的で気負いを感じさせない。ちょうど同時期に留学した漱石の日記と読み比べればなお興味がわく。
『西洋古代史研究入門』伊藤貞夫・本村凌二編（1997）
前項で取り上げてもよかったが、古代ギリシア史・ローマ史で卒論を書こうと志すなら、まず最初に手に取るべき本。
�ぁ�『アテナイ公職者弾劾制度の研究』（東京大学出版会、1993）
博士論文が母体。アテナイ民主政において政治家や役人の責任を追及するために用いられた諸制度について探究している。
『丘のうえの民主政─古代アテネの実験』（東京大学出版会、1997）
アテナイ民主政の歴史を一般向けに書き下ろしたもの。