村上郁也(総合文化研究科・教養学部准教授/心理物理)[東大教師が新入生にすすめる本 2008年「UP」4月号より]
(1) 読みながらその味わいに落涙を禁じ得なかった二冊。
『婦系図』泉鏡花(新潮文庫、2000)
日本近代文学史上の自然主義台頭の時期にあえて過剰に美しく綴られた鏡花独特の世界。大衆向けの新聞連載小説、擬古趣味文体、悲恋のソープオペラ、明治期世相批判、主人公大活躍のピカレスクロマン、という性格を併せ持つ重層構造は、当時の社会意識を呼吸しながら近世文学の筆致を守る鏡花の立ち位置だからこそ書ける。合目的性が欠如したまま自他すべての破壊へ突き進む展開など、カミュ『異邦人』の世界を先取りしているようで面白い。
『残像に口紅を』筒井康隆(中公文庫、1995)
軽薄SFで爆発的人気作家の一時代を極めた作者が、次第に作風を実験的なものに移行させ、筒井文体を保ちつつ難解なメタフィクションばかり書くようになった、その中でも際立つ里程標といえる長編。世界から「音」がひとつずつ失われてゆく中で、主人公(作中人物にして本小説執筆者でもある)の日常が描写される。この小説を入り口として、ポストモダン文学や言語愛好にはまりこんでいくのもよし。文庫版には、本作を科学的に解析したという言語学者の研究論文が附いている。
(2) 『錯視完全図解─脳はなぜだまされるのか?』北岡明佳監修(Newton別冊、ニュートンプレス、2007)
静止画なのに動いて見える「蛇の回転」錯視で世界的に有名な研究者が、自身の卓越したデザインセンスを縦横無尽に発揮して監修した、ふしぎで・きれいで・わかりやすい、オールカラーの錯視満載本。数多くの類似書と決定的に違う点は、知覚心理学者の視点から、それぞれの錯視がなぜ面白いのかを科学的に正確にしかも平易に語りながら、夥しい数のオリジナルな錯視図形をこれでもかと見せるところであり、これはそうそうできることではない。まさに希有の書。
(3) 思い返せば心理学科に進学するや否や、お約束として
『講座心理学』(全15巻)八木冕監修(1970-71)
および
『心理学研究法』(全17巻)続有恒・八木冕監修(1972-75)
のシリーズ全巻を先輩からあるいは古本屋にてでも手に入れ、読むか否かは措いといて(結局読まないんだけど)、とにかく本棚に並べて拝んでおくというのが我ら専門課程生の矜恃だった。特に感覚・知覚に興味のある若者にとってはおそらく、
『心理学的測定法』(第二版)田中良久(1977)
がその種の聖典に属するだろう。しかも実際、その中身は現在にも通用するため、けっこう読む。現場の研究者にも必携アイテムである。
(4) 『新・心理学の基礎知識』中島義明・繁桝算男・箱田裕司編(有斐閣ブックス、2005)
大学院入試レベル程度かと思うが、一問一答形式で心理学の諸問題が載っている良書。ほんの数ページですが分担執筆させていただきましたので宣伝します。