この地にまつわる伝説
アイヌとシャモ(和人)の関りを反映した伝説

大あめますと鹿

魚釣り治兵衛と大うなぎ

相原周防守季胤

アイヌの伝説

神馬伝説

大沼の主

不思議なけもの


アイヌとシャモ(和人)の関りを反映した伝説

 矢越岬の海神の怒りを鎮めるために、大館(松前)の相原季胤はアイヌの娘20-30人を海に沈め人身御供とした。アイヌは怒って蜂起、季胤は二人の娘を連れて大沼まで逃亡するも逃げ切れず、151373日ついに二人の娘は入水。季胤は馬と共に湖中の小島に上がり、そこで自害した。自害する際、季胤は愛馬に山上に逃げるよう言い聞かせ、これに従った馬は勢い良く山に上った。そのためこの山を駒ヶ岳と呼び、季胤が外した鞍を掛けた岩を鞍掛岩と呼ぶようになった。以来季胤の命日には駒ヶ岳から馬の鳴き声がするという。

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大あめますと鹿

 昔から大沼には、とても大きなあめますが住んでいました。ある時、沼から流れ出ている折戸川の水が止まってしまったので、砂原の村民が不思議に思って、沼の出口にきてみますと、長さ十五メートル以上もあるあめますが死んで横たわっていました。そのために水がせき止められ、川の流れが止まっていたのでした。

 このあめますを岸に引き上げて、腹を切り開いてみたら、大きな鹿を丸のみにしていたということです

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魚釣り治兵衛と大うなぎ
 明治の初めごろ、函館のななえ町に、魚つり治兵衛というあだながつくほど釣りの好きな、筆を作る職人が住んでいました。仕事場で筆の軸を持っているうちに、釣り竿のことを思い出して、じっとしてはいられなくなったので、翌朝早く大沼に出かけました。

 「大沼には、大きなうなぎの主がいる。」といううわさがあって、あまり人は近づかないのですが、「なあに、沖にさえ出なければ、主などにあうことはあるまい。」と、治兵衛は考えていました。

 昼近くになり、太陽はさんさんと輝き、沼は緑色に光っていました。治兵衛は、岸に近いところで小船をあやつり、糸をたれえいると、間もなく小さなうなぎが釣れました。さい先良しと、続いて投げた針にも、やや大きいうなぎがかかってきました。また投げると、またかかるというぐあいに、獲物はだんだん大きくなり、しかも不思議なことにつれるのはうなぎばかりでした。

 治兵衛は夢中になって釣っていましたが、そのうちに、額からじりじりとあぶら汗が出てくるのに気がつきました。あたりをみると、水はどんよりとよどみ、空気は死んだように不気味で、船はいつの間にか、岸から遠く離れているのでした。その時、何者かが、波をけたててせまってくるのがみえました。うなぎです。おそろしいほど大きなうなぎです。沼は嵐のように波立っています。治兵衛は死にものぐるいで船をあやつり、やっと岸にたどり着きました。家へ帰ってからもますます恐ろしさがつのり、三日三晩うなされつづけて、とうとう死んでしまいました。

 その後、大沼から流れ出る川の落口の滝に、大うなぎの死体が長々とたわっているのを村人が発見しました。みんなが集まって大騒ぎになり、どう始末したらよいかと相談していると、物知りの老人が、「このうなぎは沼の主にちがいないが、魔物というものは、人目にかかると身を滅ぼすのだ。」教えてくれました。 

 みんなは後々のたたりをおそれ、火そうにして手厚くほうむりました。それ以来、大沼にはうなぎは一匹もいなくなったということです。


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相原周防守季胤

 アイヌの人達がほう起し松前が破れた時、相原周防守季胤は、辛うじて二人の姫を連れて逃げた。しかし追いつめられたので姫は湖水に身を投げた。
季胤も後に続こうとしたが、気にかかるのは愛馬である。現在も残っている鞍掛岩の所で、馬に逃げろと言いきかせ、自分は湖底深く沈んでしまった。
このため駒ケ岳と名付けられた。愛馬は今でも生きていて、季胤の入水した7月3日になると、毎年いななきが響くという。

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アイヌの伝説

 アイヌの人たちはこの山をカヤベヌプリといい、カヤベはカヤウンペシュ(帆のある崖)がなまったものなので、駒ケ岳を帆をかけた船に見立てたのだろうという説もある。
また、アイヌの義経伝説の一つで、義経が足高蜘蛛に教えられて一度天に昇ったときに島造りの神から火をもらい、その火が蝦夷地での初めての火となったという。 その時、神は天からこの山に火を降らしたので、以来、この山が噴火するようになったという。

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神馬伝説
 文政8年(1825)駒ケ岳に神馬が出没するという噂が立ち、当時の松前藩主道広は箱館の役人に調査させた。 すると、付近の村人で実際に目撃した者がいて、長いたてがみだとか、栗毛だとか、青毛、黒鹿毛、ものすごく素早い、普通の馬では駆け上れないところにいた、尾は短い、1頭だ、2頭だった、などなど諸説が出た。 翌年、馬の好物を置き、おとりの馬も放ってみたが、結局捕まえられなかった。
 
 このことが藩主道広と親交のあった滝沢馬琴の耳にも届き、馬琴の言うのには、古今東西に神馬を捕らえたものの祟り話があるので、 捕らえるのはやめたほうがよいと忠告したため、道広はついに断念したという。
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大沼の主
 明治維新間もない頃、函館のたなご町に筆職人の魚釣治兵衛とあだ名された釣り好きの男がいた。
ある日、彼が大沼で釣りをしていると、大きな手ごたえがありぐっと釣竿を引き上げると、釣竿の先がぽきりと折れてしまった。
 
 治兵衛は大物に違いないと再び糸を垂れたところ、間もなく小さな鰻が釣れた。
幸先がよいと続けて投げると、今度はやや大きな鰻が釣れ、3度目にはさらに大きな鰻が釣れた。
どんどん釣れるので、夢中になって舟をこぎ湖水に出たところで、周囲の水が重く澱んでいることに気づいたが、時すでに遅し。恐ろしい大鰻が波を蹴立てて治兵衛に迫ってきた。

 あわてて舟をこいで逃げ帰ってきたが、帰宅しても恐怖に苛まれて終日うなされ続けてそのまま死んでしまった。

 その後、大沼の滝に大鰻の死体が発見された。付近の村人が集った時に土地の古老は、主とは魔性のもので、人の目に触れると力を失って死んでしまうと告げた。
そこで、人々は祟りを恐れて手厚く葬ったという。それからは、大沼の主は鰻だと伝えることとなった。


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不思議なけもの

 幕末の頃、七飯の薬園の管理をしていた栗本鋤雲(じょうん)が、万延元年(1860)に江戸の医師の森立之にあてた手紙に、以下のような内容が書いてあったという。

 「駒ケ岳のふもとのあたりに、不思議なけものが出るという。大きさはオスの牛くらい、額に一尺あまり(30センチ以上)の角があり、時々鹿部川を泳いでいるという。 ウグイが上流に上る時なので、その群れを追っているらしく、川を下る時には、その角がはっきりわかるという。 水に体を沈め、すごい速さで進むという。
私の友人のイギリス人とフランス人の二人が見に行ったが、里の人たちはあれは山の神だから話をすると祟りがあるかもしれないと、何も話してくれなかった。 二人の考えでは、そのけものは『サイ』に違いないとのことで、私は鉄砲のうまい侍を現地に留めておいた。」

 その後、サイが見つかったということもなく、人々がそんな騒動もすっかり忘れていた頃、明治10年頃(1877)に再び駒ケ岳に不思議なけものが出るという噂が広がった。 あちこちの畑が荒らされたがその正体がさっぱりわからなかったという。

 明治14年(1881220日の朝、尾白内村(現在の森町)の西川勘五郎という人によって、ついに一頭のけものが捕らえられた。
 体長167センチ、体重100キロ以上で、全身茶褐色の毛におおわれ、後ろに反った8センチほどの牙を持った、まるでいのししのようなけものだった。 駒ケ岳でいのししが捕れたというニュースは全国に流れ、北海道ではそれまでいのししはいないとされていたため、学界では大騒ぎとなった。

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