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特集ワイド:この国はどこへ行こうとしているのか 梁石日さん

 <蟹工船の時代に>

 ◇身体性を取り戻せ--梁石日さん(作家)

 ◇「何でもやる」と腹くくれば、きっと仕事はある

 インターホン越しに聞こえる声は、低くくぐもっていた。そして2回、「ハイ」とだけ。警戒されているのだろうか。

 声の主は梁石日さん(72)だ。よく晴れた午後、東京・杉並の自宅兼仕事場を訪ねた。インタビューをお願いした最初の電話でも、梁さんは言葉少な。二つ返事で引き受けてもらったことよりも、意図の読み取れない口調と声が、妙に気になった。

 「やっぱりね、ちょっと驚きますよ。若者が働いても働いても食えない。その状況がこうして表面化したことについてです。今までの日本社会には、これほど極端な状況はなかったんじゃないか」

 1人がけのソファに体を沈め、梁さんは切り出した。思ったよりも通る声。それをかき消すように、愛犬ジュネがフローリングをひっかきながら走り回る。フランスの作家ジャン・ジュネにちなんだ名のフレンチブルドッグは愛くるしい仕草だ。

 「これは資本主義そのものの問題です。社会主義に勝利したと言われたのに、『その後に来るものは何か』との問いに答えを持たなかった。だからこうして行き詰まり、その大前提かつ本質である『資本の論理』がむき出しになった」

 高校時代は「資本論」など、マルクスを読みあさった梁さん。「資本」と口にするたびに力がこもるように聞こえるのは気のせいか。

 「『資本の論理』とは、労働者から直接搾取すること。巨大な力を持った資本が、非正規労働者を使い捨てにするという、露骨な形の収奪です。だからこれほど大勢のワーキングプアが生まれてしまった」

 かつて大多数の国民が「一億総中流」のフレーズを疑わなかった。でも、梁さんは違った。「そんな実感はまったくなかった。私は在日コリアン。一億総中流はフィクションと思っていました」

 *

 43歳で作家デビューを果たすまで、梁さんはあらゆる手段で金を稼ぎ、生き延びてきた。

 終戦後、闇市でたばこを売ったのは9歳のこと。定時制高校時代は靴店の店員、その後も喫茶店のマネジャーや工員などの職を転々とした。借金をして始めた印刷会社は、億単位の負債を抱えて倒産。10年に及ぶタクシー運転手生活で、10トンの貨物車に追突されるなど、何度も命を落としかけた。

 苦労したのは在日コリアンの友人も同じ。一流大学を出た仲間も、親や同胞のつてで焼き肉店や喫茶店などの水商売か、パチンコ店で働いた。在日は日本企業に就職できるとは誰も思わなかったし、実際にできなかった。

 21世紀になったが、将来の展望を描けずに苦しむ若者は、在日コリアンだけではなくなった。いったい日本社会は、どうなってしまったのか。

 「昔は社会全体が貧しくて、貧乏はあまり苦にならなかった。隣の家でご飯を借りたりして、その気になれば1日100円でしのげた。今はみんなが孤立し、そんなことできないでしょう。昔の方がよかった」

 もしも今、若者だったら、この状況をどう乗り切るか。

 「一億総中流の恩恵にあずかれるつもりの日本の若者と違い、在日コリアンは今も厳しい。やはり仲間と何かやるとか、自分で店をやるとか……。でも、『何でもやる』と腹をくくれば、きっと仕事はある」

 きっぱりとした口調がたくましい。梁さんは、やんちゃだった若かりしころを思い出す。「今の若い人、友だちと金の貸し借りとかするのかね。昔はいつも『お前なんぼあんねん。1000円? じゃあ300円貸せや』とやってましたよ」

     *

 人間の業をテーマに数々の作品を発表し、在日文学の枠にとどまらないスケールの大きさで知られる梁さん。代表作の一つ「血と骨」(幻冬舎)は、実父をモデルにした在日コリアン・金俊平が性欲と金銭欲にまみれ、暴力に明け暮れる生涯を描いた。人間の生命、そして身体の本質とは何かを問いかけた。

 「人間は腕や足を切ったりして、血が出て痛みが走ると初めて、自分が身体的な存在であると分かる。でも、現代社会は身体性を意識させない。例えば一日中パソコンと向き合うと、思考も姿勢も目のやり場も、身体性はどんどん収奪される。そして空洞化する」

 収奪されるのは、賃金だけではないということだ。「仕事も労使のやりとりも、メールやファクス、電話を使うことが増え、身体が介在しなくなった。生の感情が行き交わないと、働く側もそれに慣らされ、身体性が欠落する。昔は訳もなく異動させられたり首を切られたりすれば、怒ったし、けんかもした。でも、今はもう『仕方がない』とあきらめている」

 そして付け加えた。「紙のやりとりも、ペンで書けば書き手のくせ字なんかが伝わるんだけど。今はパソコンだからね」

 インタビューをお願いする際、パソコンで作った紙をファクスで送った。梁さんは「そんな社会だからね」と言うだけだが、もしかするとインタビュー前にほとんどしゃべらなかったのは、身体性を意識させるためだったのか。

 そう思っていたら、テーブルの下でジュネがすり寄ってきた。ぬくもりが心地いい。

 梁さんはもう、資本にも政府にも期待していない。「今の状況を変えうるのは若い世代だけ。彼らが身体性を取り戻さなくては、日本の将来は非常に危うい。だから今一度、自分のよって立つ社会の現状を否定し、振り返ってほしい。そして気付いてほしい。人間は何より生きることが大前提にあり、身体性あってこその人間である、と」

 かつての文学青年は近ごろ、何十年ぶりかで「蟹工船」を読み返した。「中身を忘れちゃってね。映画は感動したんだけど、物書きの立場で見ると、あまりうまい小説じゃないな」

 そして、別れ際にこう笑うのだった。「今の社会は非常にのっぺりしているね。目鼻立ちがはっきりしないというか。今の状況を小説にするかって? しないとはいえないね。これから先の小説は『今』という時間の中で書くのだから」【遠藤拓】

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 ◇「おちおち死んではいられない」本になります

 昨年6月から1年間掲載した「この国」のシリーズ「おちおち死んではいられない」が9月下旬、毎日新聞社より出版されます。戦中・戦後の激動期を生き抜いた哲学者、作家、ジャーナリスト、芸術家たち48人のインタビュー集です。定価1470円。注文はお近くの書店、または毎日新聞販売店まで。

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 ◇「特集ワイド」へご意見、ご感想を

t.yukan@mbx.mainichi.co.jp

ファクス03・3212・0279

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 ■人物略歴

 ◇やん・そぎる

 1936年、大阪府生まれ。府立高津高校定時制卒。79年にデビュー。81年に「狂躁曲」(筑摩書房)を出版。「血と骨」で98年に山本周五郎賞。2作品はいずれも崔洋一監督で映画化されヒットした。代表作に「闇の子供たち」(解放出版社など)。

毎日新聞 2008年9月12日 東京夕刊

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