「死ぬ映画が多すぎる」――こう嘆く邦画ファンも多いはずだ。最近、ビデオ店の邦画コーナーには主役や準主役の死で完結する“お涙ちょーだい映画”が氾濫(はんらん)している。
役所広司扮するサラリーマンが肺がんで余命半年と宣告される「象の背中」や、ウインドサーファーの実話を描いた「Life 天国で君に逢えたら」(大沢たかお)、ジャズプレーヤーが胃がんで死ぬ「ラストラブ」(田村正和)のほか、「涙そうそう」(妻夫木聡)など男性主人公が死ぬ作品が目立つ。
女性の死では「ただ、君を愛してる」(宮崎あおい)や「クローズド・ノート」(竹内結子)など。若者が死ぬ映画もあり、「恋する日曜日〜私。恋した」は堀北真希扮する女子高生が、「Little DJ 小さな恋の物語」は神木隆之介の中学生が難病で死ぬ。このほか「恋空」「天国は待ってくれる」など数え上げたらきりがない。
いまなぜ、死ぬ映画なのか? 映画評論家の品田雄吉氏が言う。
「美女や少年が死ぬのは昔からあった路線。この路線がいま受けているのは、若者を中心に泣ける映画を見たがる人が増えたからです。泣くことで観客は気持ちをリフレッシュしているのです。そこには泣かせることで手っ取り早く観客を呼びたいという製作側の意図が見受けられます」
死ぬ映画は04年の「世界の中心で、愛をさけぶ」あたりから市民権を得たようだ。
社会学者で作家の岳真也氏によれば、小説には主人公を殺してはいけないという鉄則がある。主人公が死ぬと、読者が“その後”を考える余地が残らないからだ。志賀直哉の「暗夜行路」や三島由紀夫の「午後の曳航」などは死の暗示で終わることで余韻のあるすぐれた作品になったという。
岳氏が言う。
「いまの死ぬ映画ブームは日本人が観賞後の余韻を含めて難しいことを考えなくなったことが原因です。政治不信に陥っているのに、為政者に対して声高に抗議しようとしない。現実から逃避し、“難しいことは考えたくない。単純に感動して涙を流したい”という意識が国民の中に広がった結果とも考えられます」
紅涙を絞って、政治への怒りを忘れる国民。「3S政策」はいまも生きているようだ。
(日刊ゲンダイ2008年8月26日掲載)