訃報 安らかなご永眠をお祈りいたします

ミスター競馬 野平祐二氏死去 

野平祐二氏  「ミスター競馬」が逝(い)った。戦後の中央競馬の草分け的存在だった野平祐二氏(のひら・ゆうじ=元調教師)が6日午前9時27分、肺炎のため入院先の千葉県市川市の東京歯科大学市川総合病院で死去した。73歳。野平氏は先月末から体調不良を訴え、闘病生活を続けていた。

野平祐二 騎手成績
騎乗回数 1着
44 14
45
46 19
47 95 16
48 115 24
49 108 16
50 156 17
51 138 15
52 164 24
53 127 17
54 201 35
55 364 72
56 392 68
57 465 103
58 468 121
59 345 84
60 301 61
61 324 50
62 303 56
63 382 56
64 339 63
65 333 53
66 302 59
67 330 54
68 297 56
69 296 50
70 332 68
71 258 43
72 77 19
73 99 13
74 119 19
75
障害成績は16戦1勝
通算成績は
7280戦1339勝
【注】調教師の障害
成績は82戦12勝
通算3949戦402勝
 騎手時代にはスピードシンボリで69、70年の有馬記念を連覇するなど、通算1339勝(国営151勝、JRA1188勝=障害1勝を含む)。調教師としては7冠馬シンボリルドルフを手掛け、半世紀以上にわたって中央競馬の発展に貢献した。

2週間前入院

 6日昼前、自宅に戻った野平氏の顔は、眠っているように穏やかだった。「ほほ笑んでいるみたい。こんなに早く逝ってしまうとは…」。嘉代子夫人(68)はそう話すと、あとは言葉にならなかった。

 野平氏が体調不良を訴えたのは2週間前。肺炎を患って救急車で病院へ運ばれた。その後、一進一退の状況が続いたが、5日になって容体が急変。帰らぬ人となった。午後3時、同師の開業年から所属騎手として仕えてきた田中清隆師(49)が弔問に訪れた。「急でびっくりしている。先生から『馬の気持ちになれ』と教わったことは忘れられない。もっと長生きして、若い調教師やジョッキーにアドバイスしてほしかった」としんみり語った。

 実は昨年末にも入退院を繰り返した時期があったが「今年の夏は新装なった新潟競馬場へ行く」と知人に話すほど回復。週末は孫の二本柳壮騎手(20)の騎乗をテレビ観戦して、一喜一憂していたという。自宅1階のリビングで眠るそのそばには、現役時代に使用したステッキ2本と、緑のクラが置かれている。「これを棺に納めようと思っているんです」と嘉代子夫人。

モンキー乗り

 「強い馬、速い馬よりもくせのある馬、なかなか勝てない馬が好き。そんな馬に乗ると騎手の生きがいを覚える」という騎手哲学を持っていた野平氏はまた、早くから海外へも目を向け「中央競馬の発展に国際交流は不可欠」と唱えてきた。59年(昭和34年)にはオーストラリアへ遠征。日本人騎手としては戦後初めて外国の競馬に優勝。さらにアブミを短くして騎乗する当時としては画期的な「モンキースタイル」を会得。後進の範となった。武豊が94年に世界制覇(スキーパラダイスで仏G1ムーラン・ド・ロンシャン賞に優勝)を成し遂げた時には、自分のことのように喜んだ。独自の競馬文化論、人生観を持ち、国際化の礎を築いた功績は大きい。

 調教師になってからは管理者、経営者としても手腕を発揮。7冠馬シンボリルドルフを育て、世界に通用する「強い馬づくり」を自らの手で実践した。マスコミへの対応もソフトで、懇切丁寧に競馬の面白さ、素晴らしさを提供した。温厚な人柄で知られた野平氏だが、ルドルフの調整法については同馬のオーナーで盟友でもある故和田共弘氏と意見対立もあったが、それだけ競馬に対する情熱は半端ではなかった。

60年間一筋に

 引退後も「売り上げ至上主義ではダメ。ファンに愛される競馬をしていかないと」とファン離れに悩むJRAに対して苦言を呈し、最後まで中央競馬の発展を気にかけていた。父省三さん(元調教師)も騎手だったことから、42年に見習い騎手でデビュー。以後60年。競馬一筋に走り続けた「ミスター競馬」は、いつまでもファンの心に生き続けるだろう。

(写真=1969年有馬記念をスピードシンボリで制覇し手を振る)


◆野平祐二(のひら・ゆうじ)
 1928年(昭和3年)3月20日生まれ。千葉県出身。42年、騎手見習いとして東京・尾形藤吉きゅう舎に入門。初騎乗は44年12月3日。初勝利は同月5日にタカラヤマで記録。保田隆芳騎手とともに、当時としては画期的なモンキースタイルの騎乗法を定着させた。スピードシンボリとのコンビで69、70年の有馬記念を連覇。そのほか天皇賞、桜花賞、オークス、安田記念、宝塚記念などの大レースを制するなど活躍。
 32年間の騎手生活で通算1339勝(中央競馬1188勝=重賞72勝)を挙げた。75年2月に引退。同3月に調教師免許を取得し、8月に厩舎を開業した。00年2月の定年までに、日本競馬史に残る7冠馬であるシンボリルドルフを育て上げたほか、中央競馬通算402勝(うち重賞23勝)の成績を残した。
◆葬儀日程
▼通夜 8日午後6時から千葉県市川市大野町4の2610の1、市川市斎場第一式場。(電話)047・338・2941
▼告別式 9日正午から同所
▼喪主 妻嘉代子(かよこ)さん


功績は大きい

 岡部幸雄騎手クラブ会長(52) 日本の競馬は今、世界レベルになっているが、海外挑戦のさきがけとなった野平さんの功績は大きい。シンボリルドルフと一緒に仕事をして、世界に挑戦した経験は、私にとっても大きかった。日本の競馬の発展のためにもっともっとアドバイスしてほしかったのに残念です。

何よりの財産

 藤沢和雄調教師(49) 調教助手時代には最強ホースといわれたシンボリルドルフの調教をつけさせてもらった。自信がついたし、わたしの何より大きな財産になっている。先生(故野平祐二氏)には当時、ずいぶんしかられたが、わたしが現在競馬を続けていけるのはそのおかげです。

心の友だった

 大橋巨泉参議院議員(67、競馬にも造けいが深い) 野平さんとは馬主と騎手の関係のときからの心の友でした。感銘を受けたのは、本当のプロのアスリートだったこと。プロはただ勝つのではなく、勝つべくして勝たなければと言っていた。これほど革新的な人はいなかった。亡くなるのが早過ぎます。


悼む

「競馬は美しいスポーツ」

 「ホリ、ちょっと手を握ってみな。冷たいだろう。どうも血の巡りが悪いんだよ」。

 今年2月、中山競馬場近くの自宅に「東京競馬記者クラブ特別賞」の記念盾を届けた際のこと。野平先生の氷のように冷たい指先に触れて一瞬、ドキンとした。体調がすぐれないことは感じ取れたが、まさかこんなに早く亡くなられるとは…。訃報(ふほう)を聞いて大きなショックを受けている。

 「野平祐二」といえば、若い人には7冠馬シンボリルドルフを育てた調教師として知られているが、60年近い競馬人生の中で最も輝いていたのはジョッキー時代だった。ファンからは「祐ちゃん」のニックネームで親しまれ、ビッグレースを次々に勝ちまくった。

 騎手・野平祐二は、一貫して競馬のスポーツ性をファンにアピールしてきた。まだギャンブル色が強かった昭和20〜30年代から「競馬は単にギャンブルだけではない。この上なく美しく素晴らしいスポーツなんだ」といい続けてきた。本場欧米の騎乗フォームを積極的に採り入れて、華麗なムチ使いでファンを魅了した。

 今でこそ騎手の海外遠征は当たり前だが、その先駆けとなったのが「祐ちゃん」だった。競馬の国際性をいち早く見抜いて、単身でフランスに渡り、ヨーロッパの競馬に挑戦し続けた。志半ばで帰国したが、そのチャレンジ精神が現在の競馬の繁栄につながっている。

 マスコミへの貢献度も大きかった。自宅リビングは競馬サロンと呼ばれ、絶えずマスコミ関係者が訪れていた。駆け出し記者の時代からお世話になり、先生のコーヒー好きに鍛えられたのだろう。嘉代子夫人にいれていただいたコーヒーの味は今でも忘れられない。競馬の隆盛、大衆化の大きな礎となった野平先生。まだまだ教えていただくことがたくさんあっただけに残念でならない。心からごめい福をお祈りします。【堀内泰夫】


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