小さな命を救え!
闘う
4 人の小児外科医たち
2008年9月11日木曜日
19時から20時54分
タイトル
小さな命を救え!闘う4人の小児外科医たち
放送日時
2008年9月11日(木)19:00〜20:54
出演者

【番組ナビゲーター】
 寺脇康文/松本志のぶ

【ゲスト】
 研ナオコ、哀川 翔、広末涼子


番組概要

これは、他の医師から余命を宣告され、治療困難とされ、
死を待つしかない状態の子どもたちを受け止め、
その“生命の最後の砦”として闘い続ける4人の外科医と
小さな子どもたちの命の物語です。
医師たちの名は…
脳神経外科 北大大学病院 脳神経科 澤村豊
心臓外科  福岡市立こども病院 心臓血管外科部長 角秀秋
小児外科  順天堂大学 小児外科教授 山高篤行
多臓器移植外科 マイアミ大ジャクソン記念病院 移植外科副部長 加藤友朗


放送内容
手術数2000件を越える北の名医 澤村豊 北海道大学病院脳神経外科

■難しい小児の脳腫瘍手術
子どものがん死亡率は、今や、白血病を上回り、脳腫瘍が最も高くなっています。
その小児脳腫瘍外科手術の第一人者が、北海道にいます。
澤村豊(さわむらゆたか)医師。
放射線や化学療法は小さな脳には負担が大きすぎるため小児脳腫瘍では、
手術でがんをできるだけ摘出し、その後化学療法に切り替える。
したがって、どこまで癌が取れるかで、その後の生存率は大きく変わるといわれる。
しかし、その摘出はミクロの世界の勝負でわずかなミスで失明やマヒなどの後遺症の危険性も高くなる。
これまでの執刀数2000例以上。
多くの医師が怖れて手を出さない手術を積極的に引き受け、24時間奮闘を続ける澤村医師を追いました。
■澤村医師の下にまた一人、患者が訪れた・・。
福岡に住む鈴木恵ちゃん(2歳半)。
お母さんの直子さんが、異常に気付いたのは、1歳の時。
右眼が時折震えていました。地元の医師から告げられたのは「毛様細胞性星細胞腫」。
右眼視神経にできた脳腫瘍でした。
放っておけば、失明。さらには死に至る病。
しかし、手術は難しく、いくつもの病院から受け入れられないと断られていました。
「このままでは1年後、恵は、生きていない。」
失望とあせりの中で、直子さんは、教師を辞め、少しでも脳腫瘍の知識を得ようと、パソコンに向い始め、
澤村医師の存在を知ったのです。
■ 入院そして手術
恵ちゃんの視神経にできた腫瘍は、発見時より3ミリも大きくなっていました。
さらに頭の中心部にも腫瘍が検査で確認されました。
一刻の猶予もできない状況でした。
手術は、まず眼の視神経に巣食う腫瘍を摘出し、その後、頭の深部にある
腫瘍を摘出しなければなりません。
澤村のメスが視神経を傷つければ、恵ちゃんは失明してしまいます。
■両親の覚悟と澤村医師の苦悩
2000回の手術をこなしてきた澤村医師でも二の足を踏む手術の当日。
泣き叫びながら、手術室に消えていく恵ちゃんを見送って、
両親は手術室の扉に向ってお辞儀をしていました。
手術室の澤村医師に怖れていた最悪の事態が待っていました。
予想以上に大きくなっていた視神経の腫瘍。
澤村医師は手術を中断、迷っていました。
腫瘍の全摘出はできるが、その途中で神経を傷つけてしまえば、恵ちゃんの右目は確実に失明する。
命は助けたとしても恵ちゃんのこの先の人生を考えるとそれでいいのか?
自分にそれができるのか?
神のごとき技術を持つ澤村医師でも分らない、まさに神の領域に入って闘う澤村医師の姿がそこにはありました。
果たして手術はどうなるのか?恵ちゃんの命は?視力は?


手術は気合だ! 熱き子どもたちの医師 山高篤行 順天堂医院 小児外科教授
■順天堂大学医学部順天堂医院
順天堂医院小児外科は、昭和43年、日本の医療機関で最初の小児外科講座として誕生しました。
以来、最先端の医療技術を用いて、
生まれたばかりの新生児から、学童期までの子供を対象として、手術を行っています。
年間手術1300例以上、新生児手術80例以上の実績を誇ります。
小児外科は、脳、心臓以外の内臓の手術を行います。
その症状は220以上に及び、広範囲にわたっています。その中心にいるのが
山高篤行教授、48歳。
■山高篤行
山高医師は外科の開業医であった父の背中を見て育ちました。
2浪して順天堂大学医学部に入学。大学時代の山高はラグビーに没頭していました。
そのラグビー部の監督だった医師との出会いで、自分の生きる道が決まったと言います。
「ラグビーも手術も、追求する姿勢に妥協はない」という監督の言葉に感銘を受けた山高は、
外科の道を歩むことを決意します。
小児救急の最前線で闘う山高医師に密着しました。


世界で最も多くの多臓器移植を行う、「子供たちの神様」
アメリカ・マイアミ大学ジャクソン記念病院 加藤友朗 マイアミ大学 移植外科副部長

医療先進国の中でも、技術・環境ともに最先端をゆくアメリカの地で、
日本人の外科医として、『移植医療』に挑戦する加藤友朗医師。
「より多くの患者さんに『輝きのある人生』を再び手にする喜びを感じてもらいたい!」
という思いを胸に手術室に向かう加藤医師。
■加藤医師のもとへ向かう日本人患者
患者の名は、各務宗太郎くん8歳。身長は91センチ、体重11,5kgしかありません。
宗太郎くんは、生後すぐに度重なる嘔吐と、自力では排便が出来ない、という状態が続きました。
宗太郎くんに下された診断は、「ヒルシュスプルング病類縁疾患」。
消化管すべてが正常に機能しないため、消化・吸収ができず、直接、点滴によって体内に栄養を入れる、
中心静脈栄養を摂取して生きているのです。
8年間で手術を6回も受けました。その度に、「生死をさまよった」と母の優子さんは言います。
もう宗太郎くんが生き残る道は多臓器移植手術しかありません。
しかし、日本では、15歳未満の子どもからの移植手術は認められていないために、
臓器移植を受けることはできません。
2008年2月21日、最後の望みを託して宗太郎君とお母さんは、
アメリカの加藤医師のもとへ旅立ちました。
「同じ医療先進国の中にいて、たまたま日本に生まれたから『命』が助からないと諦めてしまうのは、すごく不公平なことだ!」
・・・という加藤医師。
アメリカに渡りドナーを待つ宗太郎君。そしてお母さん。長い闘いです。
宗太郎君は、生まれてから一度も腹いっぱい食べたことがありません。
食べられるものは、一日飴玉3個。
「手術が終ったら、ハンバーガ−を食べたい」。宗太郎くんの願いです。
好きなものを食べることを、夢見ながら懸命に宗太郎くんは堪えます。
二人を励まし続ける加藤医師。
番組では、アメリカに渡り移植にかける各務宗太郎くんと家族。
そして加藤医師に密着します。

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手術の後、宗太郎くんは合併症に苦しんでおり現在も闘っております。
帰国が長引き、再び募金をお願いしています。

【問い合わせ先】
「そうたろうを救う会」
TEL 052-932-1393
HPアドレス http://ameblo.jp/saving-sotaro/
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心臓病の子供たちに夢と希望を!
  角 秀秋 福岡市立こども病院 心臓血管外科部長

■急患手術
小児の心臓手術は、心臓を止め、人工心肺装置を使って行うため、秒単位の勝負です。
1秒の遅れが命にかかわります。
福岡市立こども病院の専門医、角秀秋医師は、24時間体制で、年間450の心臓手術を手がけます。
昼夜関係なく週8〜9回執刀している計算になります。450例のほとんどが生まれたての新生児です。
それでも角医師の手術成功率は95パーセントを越えると言います。
これまで角が手術した最も小さな赤ちゃんは、1400gの未熟児。
心臓の大きさは大人の親指の先ほどしかありませんでした。
これからの外科手術の主流は、「内視鏡手術」と言われます。
しかし子供のミリ単位のか細い血管と大人の十分の一しかない心臓の手術は、
繊細な外科医の指先でしか出来ないのです。
「心臓の拍動を見ると非常に厳粛な気持ちになります。でも、私はそれが命だとは思っていない。
 一番大事なことは、手術の結果得られたその子の新たな人生そのものなのです。
 ですから、私はご両親にお子さんをお返しする時、よろしくお願いしますと言っているんですよ」

■今野太陽君 3度目の手術へ!
今から3年前の2005年3月1日、一人の新生児が、産院から、角医師の許に送られてきました。
今野太陽くんです。
最近は、エコー検査により、妊娠中の胎児の心臓疾患も分かるようになりました。
太陽君も又、重い心臓疾患であることが、出産を待たずに分かっていたのです。
病名は、「左心低形成症候群」
全身に血液を送る心臓の左側、左心室と大動脈が生まれつき小さいため、
全身に血液を送ることが出来ない重症な心臓疾患です。
直ぐ手術をしなければ、95パーセントがひと月以内に死んでしまいます。
角医師は、手術を、3回に分けて行うことにしました。
1回目は生後6日目の緊急手術です。
鶏卵より小さい心臓に人工の血管を通します。まずは、延命する手術です。
2回目はその半年後。上半身の血液が戻ってくる静脈と肺動脈を直接つなぐ手術。
上大静脈と肺動脈が繋ぎ合わされ、暫定的に血液の循環を良くする手術です。
■入院そして手術
2007年12月、太陽くんが3度目の手術を受けるため入院しました。
果たして、太陽くんの手術は成功するのか?
しかし、角医師の想像もしなかった事態が待っていました。

 



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