ご存知のように、日本で本格的にテレビ放送が開始されたのは1953(昭和28)年。2月に公共放送としてのNHKが、8月には初の民間放送局、日本テレビが開局。そして、1955(昭和30)年にはラジオ東京テレビジョン(通称KRT、現TBS)が開局し、その後、しばらくはこの3局の体勢が続きます。当時はVTRがまだ無い時代でしたから、放送は、生放送かキネコと呼ばれるフイルム作品を放送用に変換したものに限られていました。放送における両者の比率は、ほぼ同率でした。生放送番組は、その特性を生かしたニュースや、プロレス、野球などのスポーツ中継で、各局が自主制作のテレビドラマに本格的参入を果たすのはもう少し後になってからです。テレビ局はソフト不足の解消案として、映画の放送を考えました。しかし、当時の日本の映画界は、大手映画会社が結んだ“5社協定”(所属俳優を他社に出演させない決まりごと)を使い、有名俳優をテレビに出演させられないようにする、といった具合に、非協力的でした。放送用に購入できるフイルムの本数にも、テレビを脅威と感じた映画会社により、制限があったのです。
そこで考えられたのが、海外からのテレビドラマの輸入でした。海外ドラマの配給は1956(昭和31)年より本格的に始まっています。この年に放送が開始された海外製作のテレビドラマは、全部で11番組(すべてアメリカ製)あります。その中でヒットした作品をいくつか紹介すると、まずは、有名コミックが原作の『スーパーマン』(KRT)。クリプトン星からやってきた宇宙人が、地球人クラーク・ケントとして、表向きは新聞記者、事件が起きるとスーパーマンとなって活躍するヒーロー物です。
『名犬リンチンチン』(NTV)は19世紀末が舞台。ロッキー山脈の麓にある砦に駐屯する騎兵隊、彼らのマスコット、ラスティー少年と、彼の愛犬リンチンチンによって繰り広げられる冒険西部劇です。主役犬リンチンチンを演じたシェパード(名前は同じリンチンチン)はハリウッドでは有名なタレント犬で、来年(2005年)にはその生涯を追った映画も製作予定になっています。
『ハイウェイ・パトロール』(NHK)は、まだ日本に高速道路が無かった時代、カリフォルニアのハイウェイを舞台に、活躍する警察官を描いた作品です。映像のほとんどが、屋外ロケなのも印象的で、時に珍しい空撮などもありました。主役のダン隊長を演じたブロデリック・クロフォードは、この作品でエミー賞を受賞しています。
『空想科学劇場』(NHK)は、毎回完結のアンソロジー形式のSFドラマで、後に大ヒットする『ミステリー・ゾーン』の先駆けのような作品でした。ただし、内容はあくまでも現実の科学理論を延長としたもので、ファンタジー的なエピソードはありませんでした。
そして、これらの作品の共通点は、いずれも“30分もの”だということです。
しかし、なぜ、当時放映されていたのは30分番組ばかりなのでしょうか? もちろん、本国アメリカでも初期には30分ドラマが多かったということもあります。しかし、日本側独自の事情として、これには為替管理法と呼ばれる制度が大きく影響しているのです。当時は、1ドル360円の固定レートの時代で、さらに外貨使用規制による海外作品の輸入規制もありました。放映権料の支払限度額が設定されており、テレビ局には外国映画(ドラマ)で30分の放送一回分あたり200ドル(1時間なら400ドル)しか割り当てがありませんでした。1時間物を買おうにも、400ドルで買える作品は少なく、また、同じ予算なら2種類の番組を買う方がプログラム数も増えて、お得だったのです。初期の海外ドラマで30分作品が多く買い付けられ放映されたのは、そうした法律からきた理由が作用していたのです(ちなみに、テレビドラマでも35ミリフイルムの作品と、16ミリフイルムの作品では、輸入したときの税率が異なり、それが海外テレビドラマの選択に影響を与えています。この件については、長くなるので、いずれ詳しく解説しましょう)。
なお、こうした初期の海外ドラマが放映された時代、日本語吹替版は、現在のようなアフターレコーディング(アフレコ)ではなく、生放送で声をあてる生アテレコでした(アテレコとは、文字通り声をあてることから来ています)。そのため、この当時の多くの作品の日本語吹替版が残っていません。今にして思うと、放送をリアルタイムにご覧になった方は、まさに、“その時一回限り”の放送を楽しんだことになるわけですね(ちなみに、わが国では70年代後半にステレオ放送と二カ国語放送が開始されるまで、海外作品は、ごく一部の、原語に字幕を挿入した番組以外、すべて日本語による吹き替え放送のみでした)。
その後、海外ドラマの放映のピークである64年〜67年以降、放映本数は減少していき、70年代になるとゴールデンタイムと呼ばれる放送枠からは、ほとんど海外ドラマは姿を消しています。そこには、また別の社会的な事情が反映していました。日本経済は高度経済成長のただ中であった64年の東京オリンピック後、一時的に景気が停滞し、企業がテレビの広告費を削減しています。一方で、この頃には、各局ともドラマの自主製作が盛んになってきていました。単純にそれだけが原因でもないのですが、67年には60本近く放映されていた海外ドラマが、69年には40本近くまで落ち込んでしまったのです。結局、政府が貿易自由化政策を打ち出し、ドル枠制限撤廃を行った後に、海外ドラマの需要が落ち込んだという皮肉な結果になりました。この後、日本で海外ドラマの放映が再び増大するのは、BS、CS、ケーブルTVと多チャンネル化が進んだ90年代半ばからになります。
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