2008年09月07日 0907晴れ
『水の伝説、略して水伝』について
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今年の一月から、ネット上でのある出来事が気になり、可能な限り追いかけ、ときおり概観などを当日記に書きとめてきた。
ある出来事は「水伝騒動」と呼ばれ、「水からの伝言」(水伝)というニセ科学を巡る議論から様々な問題に派生して、現在でも議論や諍いは続いている。諍いの当事者のひとりが、ブログコメント欄等で「これはケンカ」みたいなことを書いているのをみたことがあるが、明らかに“ケンカ”に持ち込みたい方々がいる。そうすることでどうしたいと思っているのかまで忖度する気はないが、“ケンカ両成敗”で自らのセクハラ行為や不当で執拗な攻撃が水に流されると思っているのかもしれない。そのような愚行に付き合う気はしないので、できうる限り、もともと議論が上手なわけでもないのでバトルと呼ばれるような場に直言することを避けてきた。
しかし、水伝に関わり、ときおり批判的発言をしてきた者として、批判者に対する明らかな誤解に基づく偏った印象が流布され「人でなし」の如く忖度されるのを防ぐぐらいのことはしておかなくてはならない。漂流生活的看護記録(valencienne氏)のブログエントリ、『水の伝説、略して水伝』について感じたことを書きとめて置く所以である。
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『水の伝説、略して水伝』というエントリーは大きく三つのブロックに分かれている。
○前提
ブログ主の職業(看護士らしい)に関わり、科学的根拠に基づく医療の提供が「現時点で最良最善」という但し書き付きであることが論じられる。
↓(医療は相手は生身の人間であり、「ありえねー」ような事例報告がある。)
○変容
首吊り者は蘇生後、首吊り時の顔のままである。(病棟で語り継がれており、彼女の経験上もそう思う)
○展開
↓(突然、水伝批判批判に変転する)
○飛躍
エントリータイトルである「水伝」に関わる批判者への言及、批判者なら「水に奇跡が起こせるわけない」と言ってやってよ…
○混乱
よく理解できないが、エントリーが想定している批判者は「ルルドの奇跡の水」を求める「首吊り」蘇生後脳症患者の夫を平気で批判できる人間で、対する、ブログ主がいう「共感派」はそうではないという結論らしい。
以上が当該エントリーの概要である。
私は「ルルドの奇跡の水」を、藁にも縋る気持ちで信じる(信じたい)人々のことを、くだらないと批判する気はない。
このエントリーの大いなる誤謬は、「水伝」と「ルルドの奇跡の水」の物語の質の違いがブログ主によって完全に無視されているところにある。
「水伝」は水一般(特定の奇跡の物語を持つ水ではなく)が、良い言葉と悪い言葉(書かれた文字やイメージさえも!)を解し、良い結晶を作るという、トンデモを科学の装いで騙るニセ科学である。それがビジネスにもなり、道徳の教科書にも採用され、一部の国会議員によって「心の教育の強化」として政府に推奨されさえしている。このような「水伝」と、宗教的な歴史と背景を持ち人々に伝承されてきた「ルルドの奇跡の水」とを同一視することはできない。
このエントリーでは、だれもが納得できる自明のことから説き起こし、特異な事例が起こりうる(これも自明といっていいだろう)ことを差し挟み、死と向き合う人々が「奇跡の水」を求めるという(これも人間的なあまりにも人間的な行為だろう)ことを紹介し、而して、唐突に「水伝」批判者が「奇跡の水」を求める人を批判する人間として描かれる。これは稚拙な「印象操作」といわれても仕方のない混乱/飛躍であり、死と向き合う人を「水伝」批判批判のために利用しているといっても過言ではない。
当該のブログの読者でもない私は、ブログ主について本エントリーといくつかのエントリー、コメント等でしか知らない。ネット上で比較的長くブログ主を知る人にたずねたら、「えぼりさん、クレバーだし問題意識高いし、センスいいし。好きでした。」と答えられた。
私は、「水伝」からはじまった諍いがはやく終焉することを願っている。
ルルドの奇跡の水
ここから先は、書かなくてもいいことだが、どうしても伝えたい人がいるので、書き記しておく。
妻の手をとって撫でながら、そして今でも時々ひっそりと泣いていることもある彼に
言ってやってよ。
階段の手すりにぶら下がっていた母親を最初に発見した、当時まだ小学生だったという息子にも
言ってやってよ。
そんな「科学的根拠」もない、ただの水に奇跡が起こせるわけなんてないだろ、って。
『水の伝説、略して水伝』より
私は世界の中心で叫んでもいい。「ただの水に奇跡が起こせるわけはない」
長い道のりを歩き、困難に遭遇しつつ、様々な出会いと体験を経てあなたが運んだその水は、ただの水なんかではない。
奇跡は起こる。ただの水が起こすのではない。あなたが起こす。人智を超えるなにかが。
「ルルドの奇跡の水」のことについて考えていると、「奇跡の人」という30年近く前に制作に関わった芝居について思い出しました。
戯曲『奇跡の人』(the Miracle Worker)におけるMiracle Workerは、三重苦を克服したヘレン・ケラーではなく、アニー・サリバンのことです。
親や兄弟、医者でさえ見放したヘレンを、闇の中から引き出すために、野獣のように振舞うヘレンと戦い、ものには名前があるということを気付かせたアニー・サリバンこそが「Miracle Worker」でした。
芝居のクライマックスに、井戸から汲み上げる水を手に、身体に浴びながら、ヘレン・ケラーはwaterと叫びます。ただの水が奇跡を起こしたのではありません。人の行為であり、それを目指し途方もない努力をしたサリバン、ヘレンこそが奇跡を起こしたのです。
ありがとうございます。あなたの家族に幸いあれ。
僕はここにいる
今日はYouTubeを貼り付けるのは止めようと思ったけど、できるだけ、いつも通りに。(笑)
「奇跡の人」というテレビドラマがあったらしい。私はみていないが、主演の山崎が歌う主題歌。
私も水伝批判をし続けている一人です。私たちが批判するのは極限状況に置かれている人の奇跡を求める心ではなくてそれにつけこむ人々です。人間の切実な願いや祈りを食い物にしているのはどちらなのか。人の苦しみにつけこむ人々は批判されるべきだと思いますが、それは願いや祈りそのものを批判したりまた奇跡を願う人を貶めるものではありません。私もまた、奇跡が起こることを願っております。
とても共感できるすばらしいエントリでした。
私が『水の伝説、略して水伝』を読んで感じた不快感や怒りの所在がはっきりいたしました。
>「水伝」と「ルルドの奇跡の水」の物語の質の違いがブログ主によって完全に無視されているところにある。
心ある人間なら悲しみに共感し否定できない悲劇の物語を持ち出してきて水伝批判批判に利用する。
稚拙な印象操作というよりも「悪質な印象操作」とも感じられました。
もし奇跡がおこるならばそれは水が起こすのではなく 奇跡を信じて水を運ぶ努力や奇跡を願い水を求める強い気持ちによって起こるのだと私も思います。
はてブからこちらに来ました。
ニセ科学を批判していてたびたび受ける反応が、「科学的な根拠が無いものを全て批判(あるいは否定)するのか」、というものだったりします。
もちろんそんな事は無くて、ニセ科学というのは、エビデンスが無かったり不充分であるものについて、エビデンスが確認された、と主張する説であるので、科学的根拠が無いという事そのもので批判する訳では無いですし、奇跡等の概念についても、「ニセ科学批判」の文脈では語らないのですよね。超常現象等をどう考えるかは別の文脈で、それぞれの論者によるものと思います。
それを考えると、リンク先のブログ主さんは、水伝が「ニセ科学」として批判されている、というのをきちんと理解なさっていないのではないか、と感じます。そこら辺を調べれば、また認識が異なるのではないかな、とも。
余談ですが、はてなキーワードの「ニセ科学」の項は、菊池誠教授がその語を用いた理由についてはご本人の発言を参考にしていたりして、短いながらもよくまとまっていると思います。
リンクにある、菊池教授の文章と、他の方がまとめたwikiも、水伝批判に関心がある方には参照して頂きたい資料ですね。
リンクしてある、『水の伝説、略して水伝』だけど、
「サンタクロース」や、「銀河鉄道」と、おなじパターンになるのかな...?
「にせ科学」は、科学でないのに、科学だと偽称しているものですからね。
「ルルドの水」は、(本家のヨーロッパでは、どうなのか知らないけれど)、
日本で「科学的に効果が認められている」と、まじめに信じている人って、
そんなにいなさそうですからね...
「蘇生後脳症患者の夫」のお話が出てくるようだけど、
否定できないであろう物語りを持ち出して、反知性的行為や、
反社会的行為への批判を封殺しようとするあたりは、干潟保護運動を楯にして、
セクハラの二次加害を正当化するのと、似ているかもしれないです。
私がお礼を言うのは変かもしれませんが、あの看護師さんの記事を読んで、悔しくて、悲しくて、腹が立って、吐き気がして、涙が出て、だけどパソコンの前で ただただ感情的になるばっかりで言葉にできなかった複雑な気持ちを、うまく解きほどいて表現していただいたような気持ちです。
> 長い道のりを歩き、困難に遭遇しつつ、
> 様々な出会いと体験を経てあなたが運んだその水は、
> ただの水なんかではない。
私いったいどうしたんだろうか、ってくらい、涙涙。
ブログを閉じるときに はてなから退会したのですが、
どうしてもこのエントリにコメントしたくて、急遽、登録しなおしました。
同時に「奇跡が起きないのはあなたの努力が足りないからだ。」と迫るのも人なんですよね。そしてそれにすがってしまう人を利用して利益を得ようとするのも。
「奇跡が起きないのはあなたの努力が足りないからだ。」と迫る人々を批判はしても、奇跡が起こることを期待する当事者を批判する疑似科学批判者などどこにも居ないと思うのですが。
そして、その奇跡を、ただ待ったり祈ったりするだけではなく、何とか引き寄せられないか、という営為こそが、「科学」や「技術」を産んだのではないでしょうか。
そしてだからこそ、必要なてだてはすべて尽くしたと納得していてもなお、医療者は患者の死にあたって、「力及ばなかった」という言葉を発するのではないでしょうか(もっとも昨今の「医療訴訟」警戒の世情では、そうした素直な思いを口に出せない場合ももしかしたらあるのかもしれませんが)。
どんなに科学技術が発達しても、わからないこと、できないことは残ります。というよりも、わかったことが増える分、それ以上に「何がわかっていないのか」が明らかになり、つまりは「わからないこと」が増えるのだ、と言ってもいい。だからこそ、「科学」や「技術」の名を借りて、あれもこれも解決する!みたいに喧伝する「ニセ科学」が批判されるのではないでしょうか。
我が家の小さきものが昨日から発熱して、落ち着いてパソコンの前に座ってられないので、時間ができたらレスさせていただきます。
「水の伝説」ではありません。
「水の伝説、略して水伝」というエントリタイトルが、内容を現しているんですね。
…なごなぐさんのエントリで、すっきり明快になりました。ありがとうございます。
御姉寧です。こちらでは、はじめまして。
件のエントリーを読んで思い出したことが二つほどあります。
一つ目は二年ほど前、全く違う場所で下記のような趣旨の発言をしたことです。
「あなたがそれを「オカルト」として語るのなら、私はあなたを批判したりはしない。
それが「科学」であるかのように標榜するから批判するのであって、
何も科学では解明できない不思議な力があることを否定するものではない。」
私のこのスタンスは今でも変わりません。
余談ですが、某カルト教団の元信者と称する人が、私の発言に同意してくれました。
(親が信者だった人で、教義への反発から脱会し、親とも縁を切ったそうです)
もう一つは、疑似科学批判に興味を持って調べていた時に、読んだ「ルルドの奇跡」についての話です。
ルルド - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%AB%E3%83%89
ルルドには医療局が存在し、カトリック教会がある治癒を奇跡と認定するための基準は大変厳しい。
「医療不可能な難病であること、治療なしで突然に完全に治ること、再発しないこと、
医学による説明が不可能であること」という科学的、医学的基準のほか、
さらに患者が教会において模範的な信仰者であることの人格が査定される。
つまり「科学や医学では証明できない」というエビデンスがあって、初めて「奇跡」と認定されるということです。
このように「ルルドの奇跡」というのは純然たる「信仰」であり、科学を詐称する「水からの伝言」と同列に扱うのは、
どうかしているとしか思えませんし、カトリック信徒の信仰に対する冒涜であるとさえ言えるでしょう。
>「ルルドの奇跡」というのは純然たる「信仰」であり、科学を詐称する「水からの伝言」と同列に扱うのは、
どうかしているとしか思えません
ルルドの水も「奇跡が起きないのはあなたの信仰が足りないからだ。」な「水からの伝言」と同じ地平に堕してしまう可能性を内包しているのではないでしょうか。わたしの語彙が貧弱ゆえ表現するのが難しいのですが、「信仰」と「疑似科学への盲信」の差は紙一重ではないかとも思うのです。純然たる「信仰」とそうでない「信仰(疑似科学への盲信も含む)」の違いとは自分の中で完結している心性と他者と自分の境界が曖昧な心性の違いだろうか、などと考えたりするのですが、難しい...。
>ルルドの水も「奇跡が起きないのはあなたの信仰が足りないからだ。」な「水からの伝言」と同じ地平に堕してしまう可能性を内包しているのではないでしょうか。
>「信仰」と「疑似科学への盲信」の差は紙一重ではないかとも思うのです。
良い問題提起、ありがとうございます。
私はクリスチャンではありませんし、キリスト教そのものを全肯定するわけではありませんので、
「ルルドの奇跡」に限定して意見を述べさせて頂きます。
引用した基準が厳密に運用されているとするならば、むしろ病が治癒したとしても「模範的な信仰者」でなければ
奇跡と認定されないということになりますから、世俗的な霊感商法や擬似科学と同レベルに堕してしまわない為の努力が、
カトリック関係者によって長年なされていたと認識しています。
「信仰」と「疑似科学への盲信」の差は紙一重というのは、一般論としては私も大いに同意いたしますが、
純然たる信仰であり続ける努力が関係者により長年なされてきた「奇跡」と、ポッと出の「擬似科学」とでは、
やはり同列に語ることは出来ないのではないでしょうか。
もちろん「あなたの信仰が足りないからだ。」と迫るようなことが平然と行われるような「信仰」もまた存在しますし、
(知人にも被害者がおります)そのような「信仰」については「擬似科学」と同様に、批判の対象になることは
言うまでもありません。
>nagonagu様
立て続けに長々と申し訳ありませんでした。
お子さん、お大事になさって下さい。
は、つまらなかったです。
と、脱力系コメントから入ってみる(笑)
よいエントリーをありがとうございます。
「どうしても伝えたい人」にも、きっと伝わったことでしょう。
お子さん、お大事に。
「ルルドの泉」と「水伝」の間には、「水」という言葉、もしくは物質、以外に何の関連性もありません。
人には確かに「祈るしかないとき」がある。そして祈りをこめておこなわれるのは、霊験あらたかな神社にお参りすることであったり、四国八十八ヶ所を巡礼することであったり、写経をすることであったり、様々なかたちがあります。そのような、さまざまな「祈り」の中から、わざわざ「ルルドの泉」だけを抜き出して提示しているところから、混乱が生じているように思います。
こうした、「祈り」という視点から見れば、「水伝」などははじめから議論の枠組みの外にある事象なのですから。
我が家の小さきものの発熱が続いており、なかなか思うように時間がとれないでレスが遅れたことをお詫びします。
それと、小さきものを心配してくださったみなさん、熱は二日ほど続いていますが、彼は健気に戦い順調に熱を下げており、勝利は目前です。
>tigerchild(とらこ)さん
みみずくでの議論に臨む態度。私もまたあなたに敬意を表します。
ウンコな議論を、知的なウィットであるかのように見せたがる人が多い中で、堂々とウンコに向き合う姿勢も大好きです。
(やっぱウンコか、と嘲笑するウンコな人々は放っておきましょ)
>HANAさん
どこぞでは、私の相方と同名だからというだけで下種な言葉を投げかけられ、ほんとうにすみませんでした。
「悪質」な方々もいるが、その質に翻弄され引っ張られないように留意して、歩いていきましょう。
>ublftbo(TAKESAN)さん
はじめまして。コメントをありがとうございます。
「ニセ科学」についてのご教授いただいた情報にも、私もゆっくり目を通させていただこうと思います。
はてぶのコメント、「ちょちょんまげさんが不憫。」私もまったくもって同意です。
>taraxacum_off(たんぽぽ)さん
否定できないであろう物語りを持ち出して封殺するというのは、パターン化しているようですね。それを駆動される方の個性で、知的に粉飾したり社会正義を絡めて粉飾したり、いろいろのようですが。
>kakinoki2nd(柿の木)さん
『流れよ我が涙と警官は言った』というFKディックの小説があります。血も涙もない人間なんて、然う然ういる者じゃない。私だって、実は当該エントリについても口を挟むまいと思っていたのに、コメント欄を読んで涙が出てきて本エントリを書きました。
(はてなID取り直してのコメント、ほんとうにありがとう)←微笑
>SIVAPRODさん
ほんとうですよね。とらこさんも書いているけど、「人の苦しみにつけこむ人々」がいることを私たちは市井を生きるものとしてよく知っています。つけこむ人々や社会的構造への批判的想像力(もしかしたら長いものに巻かれない精神も)を大切にしたいです。
>north-poleさん
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」ですよねきっと。知れば知るほど、知らないことの多さが増える、みえてくる。そのことを大前提に、人々が積み上げてきたものへの妥当なリスペクトを忘れず、「ニセ科学」のような騙りを批判する精神を持ちたいものです。
もしかして、「水の伝説」とは「ルルドの奇跡の水」のことで、水伝(水からの伝言)批判者を、その水伝(水の伝説)批判者に仕立て上げるための、エントリタイトルだったのかしら。「クレバー」で「センスいい」がまずい方向で発揮されたということですかね。残念なことです。
>o_ne_i(御姉寧)さん
はじめまして。いつも(私の数少ない)閲覧先のブログでコメントを拝見させていただいております、私は御姉寧さんのファンです。(笑)←照れ笑い
なぜ、当該のブログエントリは、「水からの伝言」の略として通常使われている「水伝」を「水の伝説」の略として用い、エントリ内では明らかに水伝(水からの伝言)批判を絡めたのですかね。碧猫さんのコメントで、ますます「なんだかなぁ」という気になっています。
>gegengaさん
ネットで読んだら山崎の演技は評価高かったみたいですね。などと、和んで反応してみる。(笑)
ありがとう、伝えたかった人には伝わりました。私ではなくその方の、あなたへの心配も伝わったかと思います。私的には、少し∩です。
>north-poleさん
「蛇足」(だと私は思っていません)に反応。そうなんですよね、なぜ関連性のない二つを関連させて「ルルドの泉」だけを抜き出して混乱させたのか。「私闘」のために「祈り」を利用したと論難されても仕方ないことだと思います。