2008年09月03日(水曜日)

【HR】 整っているのにつまらない

 朝は晴れていて、予報と大違いだったけれど、すぐに雨が降って一安心。パスカルとスバル氏を乗せて、別宅へ移動。僕はビートの整備。スバル氏は掃除。
 短編を1000文字ほど書いた。好調な滑りだし。一般公開する作品ではないので、比較的書きたいものが書ける。講談社ノベルスの新刊「目薬αで殺菌します」の見本が届いた。久しぶりのGシリーズで、これが第7弾。次の第8弾は、1年以上さきになる見込み。それにしても、講談社ノベルス、何冊出したかな。もう40冊は超えているはず。

 午後は、ミニとビートをそれぞれ1時間ずつくらい走らせた。久しぶりのドライブで楽しかった。この2台は運転が本当に面白いし、どちらもエンジンの音が素敵だ。
 待っていたパーツが郵便で届いた。値段にしたら1つ150円、それが3つだけ。送料を含めて500円くらいだけれど、これがないと先へ進めないという重要なものだったし、こればかりは自作できないものだった。まさに待望。これで、足りないパーツはあと1つになった。うーん、どうしよう、待つべきか、代用か自作を考えるべきか……。

 新聞でニュース以外の記事を読むと、非常に似たパターンの構成が目につき、記者の文章力が落ちているのでは、という印象を持つ。たとえば、なにか新しい文化や流行を取り上げる。それを概説したあと、「しかし、思わぬ落とし穴がある」という前置きが来て、悪いところや問題点を指摘する。そのあと、「だが、手をこまねいているばかりではない」と続き、対策が実施されていることを紹介する。最後は、「今後も、このような〜が増えていくのだろうか」と締めくくる。このパターンが多すぎるのだ。
 学生が書いた文章がパターン化されている話は何度も書いている。小論文の試験でも、100人中90人は、まったく同じことを同じように書いてくる。取り上げる内容も無難なら、それに対する見解もありきたりで、まったく当たり障りのない文章が量産される。
 目的は、平均点よりも少し上を狙うことか。単位が取れれば良い、不合格にならなければ良い、という目的の文章である。たとえば、コンテストの大賞を狙おう、というような意欲作ではないわけだから、これで正解なのかもしれない。けれど、世の中にそんな文章が沢山あふれ出すのは、いかがなものか。個性がないというか、とにかく読んで面白くない。少なくとも、「自分は文章が書ける人間だ」「文章を書くことで仕事にしたい」と考える人は、こんな「無難な文章群」に抵抗してほしい。

 漫画の新人賞の審査員をしているときも同じことを感じた。みんなそこそこに絵が上手くて、話もまとまっているのに、なにも面白くない、「またこのパターンか」というものばかりでうんざりさせられたものだ。素人が書く漫画や文章は当然未熟ではあるけれど、以前はもっととんでもないものに出会うことができたように思う。下手なんだけれど荒唐無稽で、意味がわからないが閃きがあった。そう、同じことを音楽でも感じる。たとえば、パンクの耳障りな(しかし少なくとも強烈に新しかった)音は、今のポピュラ音楽界にはもうない。
 いろいろな分野で、体裁は整っているけれど輝きがない、というものが増えているように思う。でもいつの時代にも新しい才能は存在するわけだから、たぶん素晴らしいものの絶対量は減っていないはずだ。ようするに、「つまらないもの」が、ノウハウを学んで、そこそこにレベルを上げてきた結果なのだろう。
 結局、ノウハウっていうのは「整える」ものであって、「閃き」を増す効果はないということか。

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