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2 : 今回の質問と回答について想う事 / 光太郎

お久しぶりです。

新しく掲示板を、変更されたこと じょじょまるさんのブログから知りました。

今回は鋭いテーマでしたので この、質問と回答のやりとり、興味深く拝見しておりました。
私の感想と申しますか、意見が多くなるかも知れませんが、少々述べさせていただきます。 

TKさんが、以前に原理の御言と出会いどう思われたのか。理解されて、何か行動されたとしたのでしたら、どんな動機があられたのか分かりませんが、きっと夢や希望を感じられたと思います。

統一原理を中心としたこの理念と思想を知って、もし異議を唱える人がいるとすれば、理想を諦めたか・・・ 偏屈に陥ったか・・・ のいずれかだと私は感じています。 
真理は、本質的に万民共通の認識をするものです。
今のこの混乱した現実世界の中から、理想を実体化するのは、やはり犠牲と苦労が伴います。
しかし、そこが永遠の理想を実現する道に繋がっている限り、希望ある喜びの道だと 私は信じています。

TKさんが教会とどのように係わって、どう対応されてこられたかは、書かれてないですが、神を正しくを信じ、統一原理と文先生を受け入れる状態ならば、仲間に近い存在であると思っています。

主に献金の在り方に関して指摘しておられましたが、私も教会に所属する者としていろいろ思う所があります。

あくまで献金とは、神より受けた恩恵に対して、感謝の心情と共に 神に捧げるお金であり、横的に比較対照できるものではありません。 
各々個人の状況によって、天から見て精一杯である精誠の条件が満ちていれば、それでいいはずだと思っています。

TKさんのような親派の人にも、希望を示すことができない教会のこの問題は、早く解決しなければならないと深刻に感じます。従的な天の勝利基盤が拡大され、御旨が急がれているのに伝道が進んでなく、人が増えない。
これがやはり致命的だと思います。

経済摂理は、昔 迫害が激しかった頃、人材復帰の代用として始まったものですので、新しい時代が開かれた今の時は、人を復帰するのが中心となる摂理に、実質的に転換される必要があります。

お金は、手段であって目的には成り得ないわけです。 目的は、個体としては真の愛による人格と心情の完成。
全体としては、世界人類一家族の天一国の実現。 
愛の完成も人と交わること無しには成せません。
天一国も、人を集める愛の求心力が無くては成り立ちません。

私達食口が、本当にしなければならないのは、神の愛に繋げる為に多くの人を復帰することだけだと思います。

経済は副次的内容であり、本来、人が集まれば自動的に付いて来る物です。
人的基盤が整えば、幅広く天国創建の基金を募る方法や、多くの投資を集めることも可能になるでしょう。

それが、できていないから もだえ苦しんでいる状態が続いているんだと感じています。

愛を成す目的として、神によって創造された人間は、愛を感じて動き、そこに引き寄せられます。
教会内部が、先ずこのような愛で満ちた場であるならば、その中の食口はお互いに愛によって感化され、それが結束すれば大きな力となり、そこから外部に働く原動力が、生まれて来るのではないでしょうか。

本質的に人を救うのは、真の愛から生じる心情であって、お金は形として表現する為の、道具にすぎません。
その真の愛の起源は、神様に由来するものであり、そこ以外には存在しません。
その神様と、正しく、感動的に出会うために、万物条件があるのです。
ですから、率直な言い方をすると、人を救う方向へ繋がらない万物復帰など、価値が無いものだと思いますし、やるべきではないと感じます。 せっかくの苦労した努力も、動機と目的を誤まれば、仇になります。

私達を取り巻く今の現状は、あらゆる面で緊迫した状況下に置かれているのは確かですが、本然の目標が明確に定まらず、方向性が少しずれている気がしてなりません。
現実の厳しさ、困難さが増すほどに 摂理の絶対性を優先させるとして 目先の献金目標だけでも死守する為に、あまりに過酷な無理を重ねると、組織の基盤が綻んだり、社会から不信され、誤解されることも多くなってしまうのです。
極少数であっても、このようなマイナス部分が高じると、全体に悪影響を及ぼします。

内部の人の心霊まで枯渇するようになれば、不協和音が生じ、優秀な人材まで外部に活路を求め外れて行きます。
経済問題を先立たせ、人を生かすことができないとは本末転倒であり、いったい何をやっているのやら・・・・
このような問題が長引くほどに、私達の行く道をより困難にしており、一歩間違えれば崩壊しかねません。 
結局は挙句の果てに、総責任者である父母様の重荷と負担を増やしてしまう。 とんでもない親不孝です。
私達は世の中に、真の愛の実体をもって、夢と幸福を掲げる希望の群れで在らねばならないのに・・・・

天が、あえて我々をこのように厳しく追い込むのは、神の愛に根ざした正しい本領のちからを発揮してほしいと願っているからだと感じます。  火事場の馬鹿力 も極限状態に威力を発揮するものです。
私達は、統一食口としての自負心を持ちながら、人間としての本然の責任分担を果たして行くべきでしょう。

経済は命の糧でもあり、後退させる訳にはいきませんが、それ以上に我々は生死を懸けて、神の前に人を復帰し、生かすことができる伝道を勝利しないと、天が求める基準で使命を果たすのは不可能です。 
これを勝利すること以外、他には生き残る道が無いんだ と私は思っております。

このような問題は、教会の幹部、責任者、一般信徒の枠を超えて、それぞれの立場で考え、各々が当事者として主人意識を持って、真剣に取り組むべき課題であると感じています。
どうしたらもっと多く仲間が増えるのか、全員で意見交換しながら、そこにだけ焦点を絞って集中すべきでしょう。

私は、それぞれの氏族、身近な親しい人、友人、知人を中心に、活動を広げて行くのがベストだと考えています。
つまり、以前から願われている個団活動による氏族メシアの摂理を乗り越えて、勝利することが一番の近道だと言う結論に至る訳です。  何があっても絶対に果たすべき宿命の道だと感じています。

ふと 御旨の道にある御言が思い出され、伝道の精神に一致している部分なので書かせていただきます。

「み言の目的は実体であり、実体の目的は心情である。ゆえに、み言を伝えるとき、天の心情を伝えることにその目的をおかなければならないし、み言を聞く人も、そのみ言を通して天の心情を知ろうと努めなければならない。」

私は、何も伝道に勝利した立場でもありませんが、昔 全てを捨てて、夢中に頑張っていた頃を思い出しながら、再献身するような決意を持って実践したい気持ちにさせられます。  

今回 このようにTKさんが質問され、幽霊食口さんが回答された内容は、先ず私達の心情が天を中心に転換されたものでなければならないことを知る意味において、意義深いものがあったと感じています。

2008/09/06(Sat) 02:35
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1 : 幽霊食口

>光太郎さん

お久しぶりです。

ご感想ありがとうございます。

言いたい事を端的にまとめて下さいました(笑)。

実際、この事は非常に単純なことです。しかしながら、ここに様々な堕落性がくっついて、様々な認識障害が発生し、そこから更に、それらを元に認識障害どうしが干渉しあって、更に複雑な認識障害を引き起こしているのが実体ではないかと思います。
事は非常に簡単なのです。体のどこかの部位が、栄養を集中させ蓄積させて他を枯渇させている状態では、人間の体は死に到ります。

それよりも、自らが多少飢えた状態になっても、栄養を他の箇所に配分し、生き残る事のほうがその部位を含めた全体目的に適うものです。

それでも足りない状態になるならば、何が足りないのがはっきりし、それを集中的に摂取する事が可能になります。

体のそれぞれの部位が、自分の栄養が足りないからといって、独占的に栄養を占有する事は自らの首を絞めるようなものです。

しかし、実際は人はそのような観点をなかなか持てません。

また、実際社会・経済もそのような仕組みとして成り立っていないのです。

これを変革する為には、人の心が変化する必要があるのです。仕組みを理念を中心として変革する必要があるのです。

人間堕落以来営々と築き上げられた、心と仕組みを変革する。どれほどの、内外の力が必要とするか考えれば、膨大な必要資金に躓く事も無ければ、目先の動きに惑わされる事は無いと思います。

たった、何十兆何百兆で成功するわけないじゃないですか(笑)。

もし成功するなら、それは、内的な条件が不足分として備わり、神がそれならばと・・・八面六臂、獅子奮迅と働かない限り無理でしょう。

つまり、私達求められているのは、この状況下での内的な条件を求められているわけです。
一歩間違えば、全てをサタンに奪われるのです。一つでも間違えば、どんなに苦労しても、条件として成立しない状況なのです。

精誠を尽くしたつもりでも、精誠尽くす為の条件物に一つでもサタンの讒訴権が残っていれば失敗です(例えば、TKさんの強調されていた自己破産での献金)。
努力しないでもアウト。

つまり、努力の方向性を天の願う方向に合わせて、極限の努力をするべきであるわけです。

天の願う方向に合わせて居ない極限の努力は、神の哀れみによって、多少は評価されるかもしれませんが、やっぱり失敗なのです。

更なる条件が加味されてくるわけです。

極限の努力・・・も確かに天の願う方向性ではありますが・・・・それだけでは駄目なんだという観点が、今の教会には欠けていると感じています。

どういう方向の極限の努力が天が願う道なのか?サタンの讒訴権の無い方向性です。

簡単に言えば、献金すりゃあいいってもんじゃないでしょう、献金しなけりゃいいってもんじゃないでしょう・・・ということなんです。


ただ、こう言ってしまうと誤解されるし、内的な意味合いがぜんぜん伝わらないですので・・・・曲がりくねった説明になってしまうのですが(笑)。


忙しいので、なかなかアップできませんが、こちらの掲示板もよろしくお願いいたしますm(__)m。

2008/09/06(Sat) 11:47

2 : 光太郎

幽霊食口さん  

>実際、この事は非常に単純なことです。しかしながら、ここに様々な堕落性がくっ>ついて、様々な認識障害が発生し、そこから更に、それらを元に認識障害どうしが>干渉しあって、更に複雑な認識障害を引き起こしているのが実体ではないかと思>います。
 
実質はその通りだと思います。 本当は簡単な理屈なのに、信じきれない思いやそれぞれの事情、考えが絡まっていて、複雑に見えるだけだと思います。
自己の良心の鏡と向き合って、素直で正直に自分を見つめ直してみたら判ることだと感じます。
「川の流れのように」という流行歌がありますが、私達は、大きな天運の流れに、身を委ねる様な柔軟性も必要です。

>つまり、私達求められているのは、この状況下での内的な条件を求められている>わけです。

そういうことなんですね。 誰もが行く永遠の霊界は、心情中心の世界です。それしか持って行くことができません。 その心情の負債を負えば、確実に引っかかる訳です。 堕落天使の讒訴がそこにあります。

外的な条件である実績(献金や復帰された人材)も必ず必要なものです。
でもそれは、内的な条件(困難な状況下でも愛によって感謝と喜びを感じる心情)が伴って発生したものであるべきです。

以前お父様が、食口が真心を尽くした献金でしか摂理を動かすことができない と語られたことがある。 と聞いたことがあります。
外的な条件は、実態がありますし、数字で追いながらターゲットになりやすいですが、 本当は、形としては見えなくても 心霊の中心で感じる内的な条件が根本的に重要なものであるということでしょう。

>どういう方向の極限の努力が天が願う道なのか?サタンの讒訴権の無い方向性>です。

大切なポイントだと思います。 堕落天使ができないことをやって、行くことができない道を、行けばいいのではないでしょうか。
天の前に悔い改めを求めて、祈祷してみると行くべき方向が感じられるはずです。
苦労も甘受して、感謝して行けば いつか必ず喜びの世界が開けるはずです。
たとえ怨讐であっても、赦す心を持って進んで行けば、やがて愛することができる対象に変わってゆくはずです。

実際 現実は、積み重なってきた歴史の背景もあり いつも簡単にはいかないでしょうが、基本路線に忠実であればいつか目的地に着けるでしょう。 (笑)

2008/09/07(Sun) 00:33

3 : 幽霊食口

>光太郎さん


御言葉の中に、”天国に行く人は少し馬鹿でなければなりません”・・・という御言葉があります。忠臣という人は損得ではなく、心で動く人のことです。他から見れば少し馬鹿なのです。

私達は、御言葉によって理によって復帰されてきましたので、理に弱いのです。
つまり頭が良いのです。

理によって考え、理によって判断する。

これが堕落性に引張られないで、正常に作用しているのならいいのですが、実際は、特にこと、自分の利益の事になると、誤作動してしまいます。

例えば、身近な例でいえば、ゆきっちさんは私が言っている内容は、他の人に向けて話していると思っている間はよく理解できるわけです。

しかし、その論理をゆきっちさんに話しかけているとわかった瞬間から理解できなくなるのです。

御言葉とは他の誰かの行動を制するためにあるものであり、自分の為にあるものではない・・・・となっているわけです。

御言葉はまったく逆です。自分の行動を制するために御言葉はあり、他の人を愛する為にあるものです。

しかし、堕落性がくっついているから、この御言葉の役割が不公平に感じられて、無意識のうちに、御言葉の意義意味合いを逆方向に向ける為の自己正当化の論理を無為意識に構築し、その理に負けるわけです。

その理に負けている状態ですので、本来の理が理解できなくなっているのが、ゆきっちさんに限らず、私達が陥っている大きな罠です。

だからこそ、”信仰心が足りないよ””少し馬鹿でなければなりません”とかいう御言葉出てきます。

頭が良いほうが良いか、悪いほうが良いか・・・・良いほうが良いに決まっています。

しかし、それが堕落性に捕まると、無意識のうちに自己正当化の論理を組んでしまい、そして、その理に負けるわけです。

私達は常に自分の良心と向き合っていなければなりません。

御言葉は他の誰の為のものでもなく、自分のためにあるものである。という事を絶対的に信じなければなりません。

人を制するためにあるものではないのです。

人を愛する為にあるものです。

だからこそ、私達は堕落性のくっついた理に打ち勝つ為には、少し馬鹿にならなければならないのです。

理が至上の価値を持つのではなく、愛が至上の価値を持っているからです。

少し馬鹿になって、素直に自らの良心と向き合うとき、堕落性がくっつた理性では見落としていたものが見えてくるのです。

悟性が働き出すのです。

創造本性の愛を中心として、理性と悟性が働きだす事によって、授受する事によって初めて本然の知性が開花するのです。

理性だけでは、知に到りません。理屈だけでは本然の理は逃げてしまいます。

人は考えるべきです。大いに考えるべきです。

理によって考えるのではなく、愛によって考えるべきです。良心において考えるべきです。

理が先にあって、愛が生じたのではなく、愛があって理が生じたのです。

愛に基づかない理は間違いであり、切って捨てるべき内容です。

愛において間違った内容を正当化する理論は間違っています。

私達の中の何を切って捨てるべき内容なのか、私達の良心が教えてくれます。

御言葉が教えてくれます。

人間的になるな。天的になれ。

本当の意味でこうならなければならない時は、とっくに来ているわけです。

天的とは何か、言い換えれば変な表現ですが愛的になれということですね。

その発想でいけば、何が間違っているのか正しいのかが見えてくるわけです。

統一教会だろうがなんだろうが、この天的(愛的)に間違っている事をやっていればそこには讒訴権が残るわけです。

だから、天の願いに答えるためには常に、こういう観点からの見直しが必要なんです。

資金が必要だからといって、天法(愛)に引っかかる事をやっていないかやっていないか?

また、私達個人でも天法に引っかかっている事をやっていないか?

つまり、常に愛という観点からの自己制御が求められるわけです。

その中での努力を為していく事が求められているわけです。

そうする中で、堕落性が抜けていき、愛の人格体となっていくわけです。

安易な方法での極限の努力で為す事が条件ではないのです。

なんという愛の摂理かとつくづく感心します。

判ってみれば、過酷な摂理ではなく、愛の摂理なわけです。

私達を成長させ救うための摂理であり、全ての人を救うための摂理であるわけです。

何故?と疑問をもつ事は罪ではありません。
それによって堕落性のついた理性で判断して惑わされる事自体は罪ではありません。
しかし、それによって不信してサタンと相対基準があってしまう事が罪なわけです。
罪とはサタンと相対基準を結ぶ事が出来る条件を立てることです。
つまり、惑わされたら、信じて、一回馬鹿になってみないといけないわけです。

馬鹿になるとは、考えるなではなく、創造本然の愛で考えて見なさいと、自己益を一回度外して物事を考えなさいということです。

そうすると不思議と御言葉が完全である事に気付かされるのです。自分と他者の全ての人の利益に繋がっていることが判るのです。

自己益に振り回されると、これが見えない。判らない。自分の利益が侵害されているように見えてならない。

この道は苦労の道である以上に喜びの道であるはずです

全ての食口が正しく理解されるようにと・・・・私は願っています。

2008/09/07(Sun) 12:31

4 : 光太郎

幽霊食口さん 

究極は、そういう領域に到達するんでしょうね。 ありがとうございます。

知による発想の転換ではなく、愛による心情の感化により、悟る者は幸せだと思います。
天は、心情の相続者を探し、求め続けているのだろうと感じます。
アボジのように、「過ぎ去ってみれば、全て愛であった。」 と、後でしみじみ語ることのできる道を行きたいものです。

2008/09/09(Tue) 21:00


3 : 無題 / 幽霊食口

今回の掲示板のカウンターは前の掲示板のものより性能が良いみたいで、携帯からのアクセスも拾ってくれるみたいです。

それで、驚いたのですが・・・かなり携帯からのアクセスが多いみたいです。

PCでのアクセスでは、まだ4人しか確認できていないのですが・・・アクセスカウンターでは20人以上・・・・アセアセ。


しかし、前の掲示板では携帯からのアクセスにはインデックス形式にされていて読みやすかったのですが、この掲示板では、いきなり全文読み込みとなり、携帯では非常に読みづらいかと思います。

それで、投稿にはレスをつけず、スレッドを新たに立てて、タイトルで話を分ける形式でやっていこうと思います。

PCからのアクセスでは反って読みにくいかとは思いますが、ご理解の程をm(__)m

2008/09/08(Mon) 08:22
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1 : 継続処置 / 幽霊食口

ARDOR BBS がサービス停止になったと判断して、こちらに継続処置を取ります。

細々と切れ切れですが、やって行きますので、よろしくお願いいたしますm(__)m。

なお、今までの投稿などは、重要だと思うものに関しては、ブログを新設して掲示して置きたいと考えていますが、そちらの方は暫く時間がかかりそうです。

こちらの掲示板もよろしくお願いいたしますm(__)m。

2008/09/02(Tue) 20:02
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1 : 幽霊食口

前の掲示板で途中なっている記事を、とりあえずアップしておきます。
08/27(水) 23:17地上万物に霊人体は有りや無しや?   幽霊食口


TKさんのご質問に対する回答が終わりました。

ただ、TKさんのご質問には霊界に関するご質問が多くあり、また、光太郎さんも前に御興味を持たれた事もあり、いいしおですので、この問題を書いていきたいと思います。

ただ、この内容は原理講論からの統一原理からはかなり逸脱する内容であり、完全に私見です。

この話を持って分派と談じられても仕方がないような内容です。 ですので、信用はあまりされないほうがよいかと思います(自分で書こうとする内容なんですが・・・・)。

さて、まずはこの話の経緯を話しておきます。

もう20年以上も前の話ですが、私は三度ほど40修クラスの修練会に出させて頂きました。
その最後の修練会での統一思想の講義で、その頃御健在であった李相軒先生が修正統一原理の草案を研究されておられ、その草案に関して漏れ聞いた講師の方が、その草案を紹介してくださったのがこの話です。

皆さんも御存知のように、修正統一原理は未発表のまま(つまり、お父様の御認可を受けていない)であり、また、私も又聞きに類するものであるため、信憑性はいまいち(更に、遠い昔の話であるため)なんですが、私は、今の原理講論に書かれてある内容より合理的であると思います。

では、説明受けた内容をアドリブも入れながらですが再現して、それが地上界と霊界の実相にうまく適合するか、考えて行きたいと思います。

なお、この内容は重要といえば重要なのですが、現在の摂理的には無意味です(笑)。

というか原理講論に書かれてある内容のほうが、現在の摂理にはマッチすると思います。

それでも、何で書くのか?ということなんですが、万物に対する主管性を回復するに当たっては、この問題は避けて通れない問題であり、やがて問題になるだろうと気がします。

それでこの内容を残しておきたいと思うからです。 そして、神の摂理、働きの手というものはどういうものか、また、人は万物から見ればどれほど恵まれた存在かを御理解していただければなと思います。

では、始めます。

まず、人間における霊人体と肉体の関係について、その繋がりは肉心と生心において繋がり、生力要素と生霊要素を授受し合うことにより影響を及ぼしあうとされています。 従って、繋がりは心の部分であり、物質的な直接的な影響は無いとされる根拠ともなります。

しかしながら、この部分は間違っているというのが第1の問題提起です。

この間違いである証明として、催眠術下における、精神と肉体の関係から説明されました。 催眠術下において、精神の肉体に対する支配はかなり大きいことが、ほぼ常識的に知られています。深い催眠術下において、ただのナイフを押し付けても、それが真っ赤に焼けたナイフであると思わせて押し付けると、そこはやけどをします。

しかし、これに関して精神の肉体の支配力だけでは説明がつきません。

何故なら、現世における人間の肉体は個体でありますが、細胞の集合体とも言えるわけです。
通常人間といえば、その肉体・精神・霊人体を含め、一個の人格体として捉えます。

しかしながら、こと肉心に関する限り、肉体を形成する細胞の集合体としての側面が強いわけです。

例えば、人間の肉心を構成する要素は細胞ですが、その上位存在、細胞を取りまとめるのが各部位であるわけです。

例えば、手・足・頭・心臓・肝臓・脾臓、これらがばらばらに動くのではなく、それを統合する肉心によって有機的に有効に機能しあって、ひとつの肉体を形成するのですが、それぞれの部位はその機能に従って働くわけで、その目的に従って働く以上、そこにはその機能を持たせるための一つの意思が(機能心)がなければなりません。 従って、体のそれぞれの部位には、肉心の下位にそれぞれの機能を持たせる機能心というものが無ければならないわけです。

それでは、細胞にはその機能心が有りや無しや?ということなんですが、細胞もその体の部位にある機能心に従い、それぞれの部位でその働きをなすわけですので、その機能を果たすためには矢張り、別個の下位の機能心を備えていると考えることができるわけです。

そう考えると、催眠術下におけるただのナイフを押し付けられただけで、やけどをするということが、その上位心である肉心から来る情報だけでは有り得ないと考えられるわけです。

何故なら、各細胞・各部位が何故その上位存在である肉心に統合されるか?ということから考えると判るわけです。

それは、目的性の一致によるわけです。

つまり個体存続の意思によって、有機的に連結され、助け合うわけです。

全体目的と個体目的の一致性です。

しかし、これが例に挙げた事例だと、この関係が破壊されているわけです。

つまり、催眠術というものは人間の精神を支配下に置く方法ですが、具体的に言うと人間の思う機能を支配に置いているわけですので、霊人体の方を支配下においているわけです。

つまり、原理講論の説明による生力要素と生霊要素の説明だけでは、催眠術における作用の影響は、霊人体における生心に偽情報を流し、その偽情報による影響が生霊要素によって肉体の統合心である肉心に伝達され、肉心からその下位心である機能心に伝えられて、細胞が状態異常を引き起こすことになりますが、これは、細胞にとっては不利益を引き起こすことになり、上位心からの情報・命令に対して従わないのが合理的な考えとなります。

従って、生霊要素・生力要素の説明のほかに、何らかの相互作用が肉体と霊人体の間ではなければならない。

この状態をうまく説明するためには、肉身と霊体の間に直接的な授受作用が無ければならないわけです。

2008/09/02(Tue) 21:32



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