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「この子に挿管した、小児科医がいけないんです」
10余年前、学生実習の時に小児科で担当した患児、ゆきちゃん(仮名)。
学齢になるかならないかの、小さな女の子でした。
ゆきちゃんは先天性の病気のために、手足の成長が遅れていました。
顔は年齢相応の大きさなのですが、知的発達遅延があり、
おしゃべりすることは、できません。
そして「致死性」、つまり生まれてもほとんど生きることのできないはずの、重い病気でした。
初めて会った時、ゆきちゃんはちいさなベッドに寝ていました。
小学生くらいの女の子の顔に、短い手足。
ちょうど、ちょっと大きめの赤ちゃんくらいの大きさです。
ひと目見て、「かわいい」と思った次の瞬間、
小児科の先生が言った言葉が、冒頭の言葉でした。
すぐには、意味が理解できませんでした。
しかしよくよくお話しを聞くと、こういうことです。
「胎児の時点で診断し、致死性とわかっていたら、救命すべきではなかった」
と。
ショックでした。
確かにゆきちゃんは、生まれてすぐに亡くなる例がほとんどの重い病気です。
「親御さんも全然会いに来ないし、一日生きると数十万円かかるのだ」
と、小児科の先生は言っていました。
でも、ゆきちゃんは、数年生きています。
アイスクリームを食べさせてあげると、嬉しそうに笑います。
それなのに、「救命すべきではなかった」と、
本当に言えるのでしょうか。
産婦人科医になって、胎児が致死性の病気と診断したことは、何度かあります。
ご両親と相談して、妊娠を中断したこともあります。
また、重篤な疾患の場合、積極的な救命措置をしない、という考え方も、理解します。
ゆきちゃんも、生まれた時に何の手も施さなかったら、亡くなっていたでしょう。
でも、「その方がよかった」と、本当に言えるのでしょうか。
未だに、わからずにいます。
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コメント
コメント一覧
都内で9年目のslaveをやっております。
ちょこっとだけコメントさせてください。
常々思っているのですが、自分は手足が無くなろうが、顔が半分無くなろうが、何本の管につながれようが、1分でも1秒でも長く生きたいと思います。そしてホントに自分勝手ですが、患者さんにもそれを望んで欲しいと思っております。
大学時代・研修医時代から、ことこの考えに関してはまったく変わっておりません。当然・上司からは幼稚な考えと揶揄され続けております。
でも、それでいいと思います。
生きてさえいれば、スンゴイ面白いテレビ番組を見てゲラゲラ笑う夢をみるかもしれないし、ものすごいおいしいカレーを食べる夢をみるかもしれないと思うからです。
この意見に関してはいろいろ批判もありそうだと予測しますが、おそらく今後も変わらないと思いますし、変わらないように努力したいと思っております。
勝手なコメント失礼いたします。
難しい問題ですよね・・・。
医療者の側ではなく、もし家族の立場であったらどう思うのか?自分でもわかりません。
しかし多くのお産に立ち会い「赤ちゃんは生きるために産まれてくる」という思いを年々強く感じます。
様々な障害を持って産まれようが、致死性の疾患を持っていようがどの子も精一杯、生きるために産まれてきてくれる・・・
ご批判を承知で書かせていただきました。
ただ、このような選択をするためには小児科医と親が十分話し合って、合意の上で挿管しないという決定にいたることが必要です。冷静に考えて、挿管しないという大きな決断を下せる親はなかなかいません。あとで後悔したくないですから。医師に任せておいたほうが楽です。また日本では延命治療をしても、アメリカのように莫大な費用を請求されることもありません。
一方小児科医は、あとで親から「できるだけのことをしてくれなかった。」と言われてトラブルになるリスクを抱えています。とりあえず挿管をするはめになっているというのが現状ではないでしょうか。
結局、子供のためになっているかどうかはともかく、大人の都合で延命治療が行われているではないでしょうか?このような延命治療を続けないためには、1)子供の治療についての決定に参加して、その結果も引き受けようという自覚のある親が増えること 2)小児科医が訴訟を恐れることなく、安心して延命治療をしないという選択を勧めることができる世の中になることが必要です。
しかし、出生前に診断不明で、出産したからには、医者の仕事は生かすことが最優先だと思います。その後に、このような子が親に捨てられず、親も社会に捨てられずに生きられる世の中を作る、国の仕事が大事だと思います。残念ながら、日本政府はそのような国づくりの視点がないと思います。そういう国であったなら、冒頭の小児科医の一言は生まれなかったと思います。
もし、自分に子供が授かる事があるなら、喩えどんな状態で生まれたとしても育てます。知的発達遅延だとしても一人の人間であり一つの魂が宿っています。
命を守るべく医師から「救命すべきではなかった」と言われた事は残念でなりません。致死性であっても、その時、その子は生きようと必死に自分と闘っていたと思います。
私の母も知的発達遅延ですが、私をこれまで育ててくれています。子供のように無邪気な母ですが、母が生まれた時の先生(どんな方か存じませんが)には今も感謝しています。
こういう子、増えていますね。
自宅退院もできず、受け入れ施設もなく、
家族は面会に来ず、誰からも見放されたように
病院で数年生活をしている患児、珍しくありません。
どうしたらいいのか、どうするべきなのか、
いくら考えても答えは出ませんでした。
全介助の小児は(特に呼吸器ついていると)
高齢者以上に受け入れ施設が少ないです。
ただ、身内を突然の事故で亡くした私は
「家族はどんな姿であっても、ただ生きていてほしい。
コミュニケーションが取れなくても何もできなくても
ただただ存在していてほしい」と切に思います。
介護をし、経済的負担を負う場合はそうも
言っていられなくなるのでしょうか。辛いものです。
答えは出ない問題かもしれませんね。
私がもし親だったら… やはり、わかりません。
変りゆく我が子の姿を見るのが「つらい」と思うかもしれません。
嬉しそうにアイスクリームを食べる笑顔に「よかった」と思うかもしれません。
けれどどんな理由であれ
家族の介入のない子供たちを見るたび、やりきれない気持ちで一杯です。
自分が生まれて良かったと思えない私ですが、命は大切だと思います。
出来れば助けてあげたい。
でも、もし自分がその子だったら助けないで欲しいと思うでしょう。
不幸な人間には他人を助けるのは無理があるようです。
時々、親御さんがやってきて、その子の名前を呼び掛けるのですが、気管切開されている彼女は喋ることもできず、寝たきりなので、動くこともできませんでした。
そして、わずかな時間に病室にいた親御さんはまた、帰っていきます。
私は彼女を見るたびに、自分が彼女のような境遇だったらといつも考えていましたが、答えが出ませんでした。
なな先生、まとまりのない文章でごめんなさい。
もし自分の子どもが致死性だったとしても、救命して欲しいです。生きられるまで生ききってほしい、そう願っています。
「親御さんも全然会いに来ないし・・・」ゆきちゃんにとって、とても辛い事だと思います。一番愛してくれるはずのご両親が、会いに来てくれないなんて。そうなってしまうと複雑です。
もし良かったら、なな先生のブログをリンクさせて頂いてもいいでしょうか。自分のブログはアクセス少ないですが、少しでも多くの人に医療の現場を知って欲しいのです。どうぞよろしくお願い致します。それから友人の事ですが、もう会える事も話す事も出来ずに外国へ行ってしまうようです。心残りですが、仕方なく残念です。ご心配お掛けしてすみませんでした。
ひとつの、立派なお考えと思いながら拝読しました。
自信を持ってモリチャンさんのように言うのは、容易ではないと思います。
そして、このひと言。
>患者さんにもそれを望んで欲しい
患者さんが、それを望めるような医療を研究・発展させていくのが
我々の仕事です。
理想があってこそ、発展は可能になります。
どうかぶれない視点で、ご活躍下さい。
同じ日本の空の下に、モリチャンさんのような同志がいることを
心強く思います。
> 「赤ちゃんは生きるために産まれてくる」
本当に、そのように思います。
医療人として先輩でいらっしゃる由美子さんにそう言って頂いて、すっきりしました。
「致死性」と言いますが、そもそも人間は全員致死性です。
数時間・数日しか生きないなら、生きようとして産まれてきた赤ちゃんを救命しない、というやり方が
果たして本当に正しいのか。
ゆきちゃんのように、誰も予想ができないくらいの年数生きる子もいるのに。
積極的な介入はしない、という考え方も、理解するのですが。
ずっと答えは出ないかも知れません。
小児科医の立場から、非常にclearなご意見をありがとうございます。
最後の1),2)、全くその通りで大変参考になりました。
1)は、ご両親が充分な知識と理解力、自分なりの考えを持っていないとなりませんね。
2)ですが、医療行為が法的にはほとんど保護されていないことを、改めて感じます。
誰も幸せにならないような延命治療をなくすまでの道のりは
まだまだ遠いのですが、
そのためには、何を目標とすべきかが見えてきた気がします。
ありがとうございました。
小児科医の苦悩から出た言葉であることは、理解できます。
それなのに、十余年たった今でも忘れられないのか。
それは、殊ゆきちゃんに向けられた言葉であったからだと思います。
一般論としては納得できるのですが、ゆきちゃんの存在そのものを否定しかねないものだと感じたからです。
ゆきちゃんのような重篤な疾患でなくても、
日本はハンディキャップを持った人たちに対して、まだまだ社会が未成熟なのでしょうね。
イギリス在住の小児科医の友人の言葉と、今回の先生のご意見が
同じだったのが印象的です。
大変率直で、共感できるお考えです。
「どのような状態で生まれても、育てたい。」
人として、自然な気持ちです。
そして更に、積極的な延命治療をしてでも、というところが
ポイントです。
毎日数十万かけて、人工呼吸器をつけて、やっていくのか、否か。
むずかしいですね。
> 全介助の小児は(特に呼吸器ついていると)
高齢者以上に受け入れ施設が少ないです。
そうなんですか・・・
ブログをやっていると、知らなかった現実を教えて頂くことが多々あります。
これも、切ないお話しですね。
ハンディを負った子が、受け入れ先に困るなんて。
> ただ生きていてほしい。
私自身も、もし家族が医療の介入が必要になったら
同じことを考えると思います。
大切な家族は、存在そのものに意味がありますから。
しかし新生児だと、愛着が形成されないまま病院に入院しっぱなしだと
どんな気持ちになるのか。
考えても、わかりそうにありません。
> けれどどんな理由であれ
家族の介入のない子供たちを見るたび、やりきれない気持ちで一杯です。
また、少しちがう角度からのご意見を、ありがとうございます。
救命したことの是非はさておいて、
ゆきちゃんは、生まれて、生きているんです。
それなのに、家族は何年も会いに来ていない。
アイスクリームを食べて喜ぶ笑顔を、お父さんもお母さんも見ていない。
悲しいですね。
> 出来れば助けてあげたい。
こんなやさしい気持ちをお持ちの夜ふけさんが、
生まれて良かったと思えないのですか。
偽らざる気持ちなのであれば、その気持ちを持ったまま、
穏やかに暮らせますよう。
いえ、これは元々、答えのない問いなのでしょう。
考えても考えても、一向にわかる気配がありません(苦笑)。
まとまりのないつぶやきになるのもまた、素直な姿と思います。
> 一番愛してくれるはずのご両親
そうなんですよね。
小児科病棟で、看護師さんたちにかわいがられてはいましたが、
ご両親の本来の愛情とは比較にならないのは、言うまでもありません。
ご友人は、寂しいですね。
また、どこかで会うことがあるのかな・・・
リンクの件、ありがとうございます。光栄です。
リンクさせていただきます。
友人とはもう一度でいいから、きちんと向き合って話がしたかった。でもいつかどこかで会えると信じて生きていきます。お互いが必要としているなら、必ず会えると信じて。出会えた事は夢じゃないから。返信不要です。
なな先生、ありがとう
なな先生、いつも楽しみに読ませて頂いています。
私は先日22W0dで初めての子供を早産しました。
その前日に入院し、治療の甲斐なくあれよあれよという間に出産に至ってしまったのです。
入院当初、新生児科の先生からもかなり厳しいお話をお聞きし、なんとか生命が助かりそうな26週まで頑張りたいと思ったけれど無理でした。
370gという小さな体で生まれた我が子に救命処置を施すかどうか?
障害うんぬんよりも生命的な予後が絶望的な状態です。
直前まで何週間でも入院して出産まで頑張ろうと思っていましたので、こころの準備もできておらず、夫ともよく話し合ったとは言えない状態でした。
それでもどうするか私たちが決めなくてはいけませんでした。
私たちは処置を希望しませんでした。
そして娘は私の胸の上で1時間足らずの生命を静かに終えました。
あまりにも小さな体にたくさんの管をつけてわずかの時間の延命のために苦しい思いをさせなくてよかった。
母の胸の上で静かに逝かせてやれてよかった。
そう思う一方で、処置してもらっていたらもしかして救命できたのかもしれない。たとえ障害が残っても生きていてくれたのかもしれない。どんなかたちであれ生きていて欲しかった。そういう思いも消すことはできません。
私たちは夫婦ともに医者をしています。
そのために冷静に判断しすぎたのではなかろうか、と思うこともあります。
今は、お腹の中で幸せなときを過ごし母親の異常を知らせるために生まれ、母の胸の上で苦しむことなく旅だった娘は幸せだった、と言ってくれる夫の言葉だけが支えです。
まだ、娘を失った悲しみに毎日泣き暮らしていますが、私たちの選択が間違っていなかったかどうか考えない日はありません。
きっとこの思いがなくなる日はないでしょう。たとえこの先無事に子供に恵まれることがあったとしても、ずっと胸に抱えながら生きていくと思います。
いつも読ませていただいています。
娘は生まれるときは元気に生まれてきましたが、
1歳のときに急性脳炎になり生死をさまよったことが
あります。
一時的な後遺症が出ましたが、今は心配も残りますが、
後遺症は治っていてとても元気です。
生まれたばかりの赤ちゃんに意思が伝えられる能力が
あれば、延命をするかどうかを本人に選ばせてあげたい
なあと思いますが、それは無理なので、ご両親の意思で
決めるしかないことですね。
どんな判断であれ、我が子のために真剣に考えた末に
決めたことであれば、私はそれが正しかったんだと
私は思います。
いつになっても答えが出ないことであっても、我が子
のことは悩んだり心配したりし続けること自体が親の
役割なのかもしれません。
元気に生きている子の前で、こういう事言う医者って。
やっぱり、正直、違和感がありますね。
わたしの子供が小学校低学年の時、こども病院に入院した時のことです。
重度障害児童むけの施設が併設されており、自宅に帰れずに長期の入院を余儀なくされているお子さん達も大勢います。
その中に、凄く印象に残っているお子さんがいらっしゃいました。
年のころは20才弱でしょうか。
見舞いに行くと、必ず、お会いするのですが、重度の障害のため言葉もしゃべれず、自力で食事もとれず経管栄養で、排泄もオムツ、いつも特殊な車椅子で院内や院外をご家族に押されて移動していました。
そのご家族というのは、実のご両親ではなく、祖父母の方でなんです。
いつお会いしても、祖父母のどちらかのかたが、お世話されていました。
きっと、ご両親はお仕事の関係で来院して、世話をするのは難しい状況にあるのだろうと思っていました。
また、こういうお子さんを受け入れてくれる施設も少なく、生まれてから20年間ずっと、こども病院に入院していらしゃるようでした。
生まれてからずっと話せない、食事も取れない、排泄もできない、そして動けない、でも生きていらっしゃいます。
障害を持って生まれることは、その子の責任ではありません。
ご両親の愛情は受けられないかもしれないけど(もちろん、ご両親さまも愛情を持っていらっしゃるかとは思いますが)それに変って祖父母が愛情をかけていらっしゃることで、そのお子さんが生きる意味を持つならば、それでよいと思います。
医者は今こそ驕りを改め、本当に患者のためになる助けの手を差し延べる治療をすべきである。同時に医者にかかる側のほうも医者に過大な期待を持たず、自分の命を(医者にではなく)神に委ねているという姿勢が必要なのだ。
理想論だけではどうにもできないことって
たくさんありますね。
たくさんの人に慕われるなな先生のブログに登場し
たくさんの人に、答えのない問いをなげかけるために
ゆきちゃんは生まれてきたのかな・・。
愛くるしいゆきちゃんは、おそらく
この世に
「家族・両親の愛」
というものがあることを知らずに生きている。
そのことにせめてもの救いを感じています。
だけど私は、出生前診断による中絶、予後の悪い
お子さんの積極的治療停止に反対しません。
だって、だれかが保育器に入ってしまえば、それは
もうほかの子には使えない。断られてしまった子供の方が
予後がよかったとしても、ですよね?
断られた子供やお母さんの気持ちって、あまり話されないような気がします。
現場のことはわからないけれど、これだけNICUの危機的状況が喧伝され、出産年齢の高齢化によって予後の悪いお子さん出生の増加が考えられるとき、限られた資源をどう使うのかきちんと考えてみてもいいと思います。
言いこと 言うじゃない。
もやもやが すっきりしたわん♡
>医者は病気を治しているのではなく、あくまでも人間の体が自分で治るのを手助けしているだけ
>患者も医者がきっと直してくれるだろうという過大な期待を持っている所に医療過誤や訴訟などの原因がある
でも次はちょっと違うんじゃないかしらん。
らん。らん。
医者の驕りじゃなくて、医者の思い入れだと思うの。
今日のふろっぐ、ちょっとクドかったかしらん、らん。
修行僧さんの意見はごもっともだと思います。しかし我々は驕りも何もないただの人間です。何人かそういう子達を見てそう思います。「生かしてやろう」なんて気持ちはさらさらありません。むしろ親御さんに蘇生をしてほしいと思うぐらいです。そんな大きなことを決定する権利は小児科医にはないのですから。
本来は家族で予め死生観について統一しておき、こういう状態の時蘇生させるか否か、決めておくのがよいと思うのですが、脳死移植の発展性のない日本では独特の無宗教、死を忌むべきものとして扱う習慣上、当たり障りのないよう話題から遠ざけているのではないでしょうか?
実際自分の子がそうなったらどうするか?自分の中ではっきりした結論はありません。ただ生まれてきて呼吸器にずっとつながれ、採血を繰り返され体中傷だらけの慢性疾患患児を見ると、果たして自分の判断はよかったのだろうかと後悔することしきりです。
心情だけで量ったら 重大な欠落があるようにも思うし。。。
自分なりに結論づけたら 一義的に批判されそうだし。。。
判断が付きませんと言うべきなのだろうか ??
現場の実態、とても身につまされるお話です。
こうしてお聞きするだけでも切なくてたまらないのに、
実際に患児たちに接したら、いたたまれないのではないでしょうか。
「答えが出ない」という気持ちを共有して下さる方がいらっしゃったことを
とても嬉しく感じています。
答えが出ないまま、最善を尽くすのが、我々の使命と思っています。
涙が出ました。
本当に、辛く悲しい思いを・・・
ママになりたいさんの次にコメントを下さったnaokoさんが、
私の思うことを書いて下さいました。
お嬢ちゃんのことを、一番大切に思っているパパとママが
全ての力を総動員して考え出した結論です。
それをもって正しいとせずに、他に何がありましょう。
ああ、でもきっと、既にこのようなことは、お考えですよね。
ご主人の愛情あふれるお言葉に、深く感動しています。
ママになりたいさんと似た、辛いご経験をされた女性から聞いたお話です。
羊水の中って、とっても気持ちのいいものなのだそうです。
22週間の間、羊水の中で気持ちよく過ごして、
ママの胸に抱かれながら眠りについたお嬢ちゃんは、
きっと、ずっと心地よいままだったのではないでしょうか。
ごめんなさい。こんなことしか言えなくて。
危機を乗り越えた、強くやさしいママならではの、素敵なコメントですね。
また、naokoさんの前にコメントを下さったままになりたいさんに、
私自身がお伝えしたいと思うことを、代弁して下さいました。
>我が子のことは悩んだり心配したりし続けること事態が親の役割なのかもしれません
迷えるママたちに、お伝えしたい言葉です(笑)
ありがとうございます。
先生も、そう思われますか。
患児の前、さらに実習に来た学生に向かって言うべき言葉ではなかったのではないかと思います。
こうして考える材料にはなりましたが。
貴重なご体験を、具体的にお話下さって、ありがとうございます。
20年、ですか。
先生のお話にもまた、違う角度から考えさせられました。
> それに変って祖父母が愛情をかけていらっしゃることで、
そのお子さんが生きる意味を持つならば、それでよいと思います。
先生がご教示下さったこのひと言に、何だかほっと安心しました。
ゆきちゃんの存在を、誰かに肯定してもらいたい、という気持ちも
きっとどこかにあったのだと思います。
他の先生方のブログでも、最近先生のコメントを拝読しています。
かなり目上の先生でいらっしゃるのではないかと、想像しております。
そんな先生が、丁寧な言葉で深遠なコメントをお書きになっている姿を見て、
文章は人柄を表す、ということを改めて感じ、心温めております。
コメント、ありがとうございました。
おっしゃる通り、医者は病気を治せる存在ではありません。
病気が癒えるのを助け、そして
人生の中で病を得た患者さんに寄り添い、力を添えていく存在です。
しかし、です。
その仕事をしていたら、神様はいない、と思うようになってしまいました。
神様を信じられない人生を、決して良いとは思えずにいます。
本当に、理想論だけでも、効率主義論でも心情主義論でも、
どうにもならないことではないかと思います。
> たくさんの人に、答えのない問いをなげかけるために
ゆきちゃんは生まれてきたのかな・・。
ゆきちゃんを認めて下さる、やさしいこのひと言に、なんだか泣けてしまいました。
こんな言葉をかけながら、おでこをなでてあげたら、
ゆきちゃんはきっと、あの愛くるしい笑みを浮かべるんじゃないかな・・・
医療を有限の資源と捉え、有効利用をという発想をして下さることに、感謝します。
本当に、その通りなのです。
これが広く一般に知れ渡っていないことも、医療崩壊に拍車をかける一因となっています。
また私も、出生前診断による中絶、
予後の悪いお子さんの積極的治療中止に、必ずしも反対はしません。
しかし、受け入れを断られた子やお母さんの気持ちを考える時、
糾弾すべきは、予後が悪いにも関わらず保育器に入った子ではなく、
充分な医療を提供できない国にしている、行政ではないかと考えます。
上述コメントをご参照下さい。
さすがでございます(爆)
> 医者の驕りじゃなくて、医者の思い入れだと思うの。
患者さんが癒えていく過程で手を差し伸べる我々が
厳しい予後が見込まれた場合に、それでも努力する姿勢は
驕りではなく医者の思い入れ、仕事に対するこだわりであると思います。
小児科の先生の立場から、真摯で切実なコメントをありがとうございます。
わが国では死生観や宗教観が希薄であることと、今回の問題とは
深く関わっていると思います。
ただ、そんな深遠な背景が存在するとなると、やはり難しいですね。
先生でさえ、児を救命した後になってご判断に迷うことがあるのですか。
非常に重いひと言を、お聞きしたと思っています。
コメントありがとうございました。
尊敬し、お慕いする、犬と猿さんです。
> 判断が付きませんと言うべきなのだろうか ??
犬と猿さんでさえ、そうなのですね。
これは到底、私なりの結論など出るわけもないはずです(笑)
今日、初めて、なな先生のブログを拝見させていただきました。
みなさんのコメント、なな先生の返事を拝読して、涙が止まらずにいます。
なな先生のブログが、日常の中で、忘れてしまいかけそうになっている大事な物を、頭の中に戻してくれる、大きな力を
くれました。本当に、感謝の気持ちです。
私は、今、命の終焉に立会うことが多い職場におります。
苦しい気持ちになることが多いですか、
患者さんの気持ちに、一歩でも近づけるように、毎日努力しています。
ゆきちゃんの、アイスをおいしそうに食べている姿、最高ですよ。ゆきちゃんを心の中で抱きしめましたよ。
多数の医師に、”おまえはあまい”と、言われるかもしれませんが、それでも、私はこの気持ちを大事にして、医師を続けたいと思います。
アイスをおいしそうに食べているなんて、最高じゃないです
か。アイス、おいしいですよ。
なな先生の純粋な気持ち、少しは理解できたかもしれません。
答えはいらないと思います。我々医師が、考えて、悩み続けることが、それこそが、大事なことだと思います。
大変稚拙な文章で、なな先生にあまり伝わらなかったかもしれませんが、これからも、ブログを拝見させていただきたいとおもいます。ありがとうございました。
ないと思います。
この世に意味のない命などないと思います。
どんなに短い命でも
両親の愛がなくても、
重度の障害があっても、
生まれてきて何かを学んで
帰っていくのではないでしょうか?
また、何かを伝え他者に
学ばせているのかもしれません・・・。
私自身、流産の経験があり
ほんの数ヶ月しかお腹にいられなかった子に
大きな愛情を感じたことは
大きな経験でした。
お腹のこどもも、ほんの短い期間でしたが
愛されることを経験し
お空に帰っていったんだと思っています。
アイスを喜ぶゆきちゃん、
お会いしたこともないし
何もできませんが・・・・
微笑む彼女を想像すると・・・・
じんわり愛しさを感じます。
ちょっとスピリチュアルなコメントに
なってしまいましたが。
ドライになれない日本人医師には驚きの毎日でした。挿管すべきか否か?今後多くの日本人医師が悩む問題だと思います。医療費抑制の時代、障害をもつ子供に以前として厳しい時代だからこそ多いに悩ましい問題です。
心がほんわかとなるようなメッセージに惹かれ、
毎日お掃除を終えてから、パソコンを開くのが楽しみになりました。
私は明々後日、帝王切開による出産予定の妊婦です。
今年の四月、妊娠が分かった時、私は中絶手術を考えていました。私にはすでに十三歳と十歳の子供(二人共緊急の帝王切開手術で出産)がおり、仕事にも恵まれ、今の生活リズムを崩したくない、と思っていたからです。
なんとか中絶の理由がないか、考えました。
高齢で三度目の帝王切開になること、筋腫持ちであること、
いかにも自分には中絶の理由があるかのように・・・
そして、主治医であるK先生にお話をしました。
遠まわしに自分の正当性を主張しようとする私に、K先生は
『ボクは産婦人科医だから・・・』
とおだやかにおっしゃるだけでした。
今、考えてみれば、恥ずかしい限りです。
出産も中絶も勧めないけれど、自分の立場からの願い、重いを、
カンタンに、おだやかに伝えてくれたK先生のおかげで“今、何が大切なのか”をじっくり考えることができました。
エコーでおなかの赤ちゃんを見ながら
『んー、手にとるようだなぁ・・・』
とつぶやくK先生には感謝の言葉もみつかりません。
十年ぶりの妊婦生活は正直言って“しんどい”ものでした。
でも、なな先生のブログに出会い、リラックスして三度目の帝王切開に臨めそうです。
私はずいぶん周りの人に助けられました。
もちろん、その後は周りの人に心配や迷惑を掛けないよう、自己管理もしています。(体重+6㎏は産科の皆さんから誉められました!!)
周りへの感謝の気持ちを持ちつつ、自分を大切にしていけば
このプログにもある様々な問題のいくつかは解決していくと思うのですが・・・
うまく文章がまとまらなくてゴメンナサイ。
今度は出産後になりますがこのプログを見るのを楽しみにしています。ありがとうございました。
ゆきちゃんにしろ誰にしろ、その人に生きる価値があるのか、その人が幸せなのか否かは、第3者が判断すべきではないのではと思います。しかし、実際の医療現場や家庭内においては、私のような考えはただの奇麗事になってしまうような、様々な事情があるのでしょうね。ですから、ゆきちゃんの目前で発せられた悲しい言葉もいたずらに責められるものではないと思います。
最後の「未だにわからずにいます」というなな先生の一言に、小さな命への深い愛情を感じ、心打たれました。
私ももうすぐ臨月に入ります。逆子が直らない為、予定帝王切開が決定しておりますが、生まれてくる子がどんな子であれ、授かった命を大事にしたいと思いました。
私には子供がいないので実感が湧きませんが、自身の事を考えると「積極的な延命措置は受けたくないが、両親のどちらかが生きているうちはその意思を尊重しよう」。
また両親についても、「どちらかが積極的な延命を望まなければ、自然に任せよう」とも思います。(FMS発症以前からこう思っています)
自分の事で負担をかけたくないと思う一方で、延命措置により「生かされているだけの親を見ていられる自信がない」というのはわがままでしょうか?
だから、生きていく価値は厳然としてある と私は思っています。
現実の障害児を取り巻く環境や状況は、確かに苛酷ですし、資源の奪い合いの様相を呈していますが、それでもその子は生きて、日に一回は笑顔を見せ、周囲にさまざまな影響力を及ぼしているのです。生きている価値があるかどうかと考える必要すらないと私は思っています。
生まれた以上、たとえ最重度の障害・疾病を持っているとしても、子供は周囲に影響を与える力を持っていて、それだけで生きている価値があるんだと 重度知的障害児に囲まれる職場にいて、私は思います。
先生のブログに書かれているなんとなく感じる違和感はみなさんのコメントを見ていくうちに明らかになりました。
今,必死に生きている命の前で言うべきことではない。
私も看護学生の時に同様の経験をしたことがあります。確かに考えさせられましたが,でも,そんなことをこの子を前にして考えていいのかと考えさせられました。(くどいですね。それだけグルグル思考になったと思うのです)
致死的染色体異常の家族を受け持ったこともあります。病棟全体で(ここに,医師,看護スタッフ,理学療法士など,すべての関係職員が関わったことはすごいと思っているのですが)ご両親を交えて,何十回も様々な検討を重ねました。そこで,新人の私が学んだことは,「今ある環境の中で,最大限の努力をしなければいけない。」ということです。
医療の世界に「もしあの時・・・だったら」はないと言われますが,本当にそうだと思います。私達には計り知れない何かの力でそうなっている(ちょっと宗教的で申し訳ないですが),ならば,その状況で最大限のことをしなければならないと思っています。
うまく言えませんが,答えはないのでしょう。はっきりした答えが導き出されることのほうが私には怖いです。
いつも楽しく、時には号泣しながら読んでます。
私は重度障害児の母(?)です。
急性脳症後遺症になって両親が手放した子に一目惚れして引き取り、在宅で一緒に生活して早や十数年経ちます。互いに「縁故者」という間柄だけど、しっかり親娘をしています。
娘は私に色んなことを教えてくれます。
娘に出会えたおかげで障害ということを知りました。
生きていくことの大変さ、辛さ、喜びを知りました。
そして人間の可能性を知りました。
超重症児と呼ばれる様々な医療的なケアが必要な寝たきりの娘。息をするのもへたっぴだけど、「あ~」という発声がいつしか「ありがとう」という言葉を発するようになりました。
娘は色々な出会いも私にくれます。
尊敬する医師や看護師、笑いの絶えない入浴介助をしてくれるヘルパーさん、心から信頼し表現の可能性を広げてくれた教師、さりげない心配りをしてくれる友人等々素敵な方々に出会えました。
生きている。
娘もみんなも一生懸命生きている。
そこにどんな差があるのでしょうか。
やさしい先生にまた一人出会って、ふっと心が和らいでいます。
> アイスをおいしそうに食べているなんて、最高じゃないですか。アイス、おいしいですよ。
そうでしょう、そうでしょう?!
私自身、実際に「あまい」とか「ぬるい」とか言われることがあります。
でも、今のスタンスを変えることはできないし、そのつもりもありません。
たつごろう先生、一緒に「あまい!」と言われましょう(笑)
なんだか、ひとつの詩のような素敵なコメントです。
流産のご経験があるのですね。
ひとつの生命を体内に宿すということは、それだけでも
体験した人でないとわからない感覚なのではないでしょうか。
流産してしまった患者さんと向き合う時、いつも思うことがあります。
流産はお産に比べると、身体に及ばす影響はずっと軽いのに、
心に及ぼす影響は、ずっと重いのだということです。
アイスをゆきちゃんに対して、じんわりとした愛情を共有して下さったことに、感謝します。
先生のようなご経験のある方ならではのコメントを、ありがとうございます。
多くの日本人医師は、ドライにはなれていないのではないでしょうか。
先生ご自身は、その点どんな先生でいらっしゃるのでしょうね(笑)。
おっしゃる通り、ハンディキャップのある子供に依然として厳しい傾向がある上、
さらに医療費が抑制されていけば、我々現場の医師の悩みは一層深まって行きそうです。
ネーミングが素敵ですね(笑)。
一度は中絶を考えて、結局お産をして愛情あふれるママになった女性は、
いっぱいいらっしゃいます。
私の友人にもいますが、「これぞニッポンの親バカ!」というような
立派なめろめろママになっています(笑)。
K先生、素敵な先生ですね。
エコーを見ながら「手に取るよう」とおっしゃる気持ち、
何だかとてもわかるような気がします。
赤ちゃんは、ただ動いているだけなのですが、
妊婦さんと私に向かって、手をふっているように見えることもあります(笑)
これをご覧になる時は、既にお産が終わった後かもしれませんね。
あ、でも、私からもひと言賛美を。
> 体重+6㎏
素晴らしいです!
生きられない子がほとんどの中で生きている、ということは間違いなくゆきちゃんが生きていることに意味があるからなのだと思います。
まだ父が元気だった頃、自分自身は意思疎通できない状態になってまで生きていたくない、生きている意味がない、と思っていましたが、最愛の父の命が長くないということが分かったときに、たとえ眠ったままの父であっても家族にとってもどれだけ大きな存在かということを思い知らされました。
亡骸となっても愛おしくてたまらなかった父、触れているだけで何かが通い合った父、思いを受け止めてもらえた父のことを思い出すと、生きているゆきちゃんの生きている意味は問わなくてもいいのでは、と感じます。
病院で働いている頃、ゆきちゃんと同じような子がいました。
少なくともスタッフは彼女にたくさんいろんなものをもらいました。
親は知らない笑顔を知っていることに優越感までちょっぴりもらっちゃいました。(笑)
ゆきちゃん、きっと誰よりもおいしく大きな喜びでアイスを食べられるのでしょうね。
> ゆきちゃんの目前で発せられた悲しい言葉もいたずらに責められるものではないと思います。
みどりさんは、思慮深い、そしてやさしい女性ですね。
私なんか、ここで改めて考えて
「やっぱりゆるせない」という気がしてきたところでしたのに(笑)
もうすぐお産の時期に入ったんですね。
楽しみと、不安とがないまぜになっている頃でしょうか。
帝王切開になりそうなんですね。
どこかに書きましたが、帝王切開は、赤ちゃんにかかるかも知れない危険を、
女性がお腹に創をつくってまで一手に引き受ける、立派なお産です。
どうかご健康にお気をつけて、良いお産をなさって下さい。
わがままなどではなく、素直な心から出たお言葉と思います。
延命治療は、あるところを境に、ご本人のためではなく、ご家族のためのものに切り替わります。
そうなった時は、ご家族のお気持ちが最優先されてむしろ当然なのではないでしょうか。
大変なお仕事をなさっていることに、敬意を表します。
恐らく、最も現実を目の当たりになさっている方たちのお一人なのでしょう。
きっと、現場の方にしか感じることのできない厳しい部分を、知り尽くしていらっしゃるのではないでしょうか。
分野は違いますが、同じ「現場の人間」として、そのように感じます。
> 子供は周囲に影響を与える力を持っていて、それだけで生きている価値があるんだ
そんな方からの、非常に重みのある言葉です。
ありがとうございました。
まとまらないお気持ちが、伝わってくるようです(笑)。
まるで私の迷いと同じように。
ゆきちゃんを含めた、致死性疾患の胎児とご家族に向き合う時、
いつも感じる、千々に乱れる気持ちです。
これまでも度々、私には思いも寄らないようなはっとするコメントを下さっている助産師のななさんですが、
> はっきりした答えが導き出されることのほうが私には怖いです。
これには、頭をガツンとやられたような合点を感じています。
そうですね。 本当に、その方が怖いです。
人間愛、などという言葉では表しきれない、素晴らしく深い愛情をお持ちでいらっしゃると感じました。
こんな月並みな表現しかできない自分を、もどかしく思います。
感心するばかりのお話を頂戴しましたが、
中でも「すごい!」と思ったのは、この部分です。
> 息をするのもへたっぴだけど、「あ~」という発声がいつしか「ありがとう」という言葉を発するようになりました。
そうなんですね!
私は産婦人科医なので、「あ~」しか言えない時期の子としか
接する機会がありませんでした。
あの子たちが、愛情あふれる養育をたっぷり注がれたら、
もしかしたら「ありがとう」と言えるようになっているのかも知れない・・・!
そう思うと、胸が熱くなります。
ありがとうございました。
女性がお腹に創をつくってまで一手に引き受ける、立派なお産です。
なな先生、暖かいお言葉を有難うございます。
涙が出てしまいました・・・。
実母からは「陣痛を知らずに産めるなんて楽ね」と言われ、義母からは「次の子は絶対に下から産むのよ!」とハッパをかけられ(でもVBACってリスクを伴いますよね)、友人からは「帝王切開で生まれた子供って忍耐力がないらしいよ」と言われ、憂鬱になっていたところでした。
手術は3週間先ですが、胸を張って臨みたいと思います。
本当に有難うございました。
> 「陣痛を知らずに産めるなんて楽ね」
> 「次の子は絶対に下から産むのよ!」
> 「帝王切開で生まれた子供って忍耐力がないらしいよ」
そのような偏見がいまだにまかり通っているのですね。。。
「そんなもの、科学的な根拠など何もない単なるデマであることを我々は知っている!」
と男性の側からも声を上げていかないといけないですね。
出産のご無事をお祈りします。
(ほんとは、そういう偏見をあえて当人にぶつける女性のきたn、コホン、美しくない心根に対して言いたいこともありますが、なな先生のブログを汚してもいけませんので自重します^^;)
父は骨髄異形成症候群(RAEB-Type1)であるということが、10月に告知されています(本人と家族に)。予後は何ともいえませんが、高齢であるため輸血による支持療法をとっています。今は、どれだけ充実した時間を過ごすかという事に、みんなが全力を注いでいます。
私の兄弟、父は、産婦人科医で、3人とも、それぞれのスタンスで、それぞれの土地で、頑張って働いています。
ただ、3人とも、生命の誕生に関われる事が、ほんとうに、幸せだと、話していました。
高いリスクの中で、無事出産できて、当たり前という、世間、マスコミ、風潮の中で、仕事をしていく大変さは、私には、本当のところ、想像できていないとおもいます。
内科は患者が病気になっているというマイナスから、スタートしますが、産科は、妊婦さんは病気ではないので、妊婦さん本人(家族も) マイナスから、とは、感じていないでしょうから・・・。
ななせんせいも、たまに、ゆっくりできるときは、しっかり、休養をとってくださいね。
わたしは、専門分野が、なな先生とは違いますが、同じひとつひとつの命を、一番近いところで、責任を持ち、仕事をしていく、仲間として、いつも、悩みながら、一緒に頑張っていきたいと思っています。
どんな命でも、みんな、それぞれ、一番です。
失礼します
助産師をしていたわくわくと申します。
ブログ拝見させていただき、非常に考えさせられました。
私は帝王切開で四肢のない赤ちゃんが産まれてきたという場面に遭遇したことがあります。
手術前は何も異常所見がないと伝えられていたので、お母様がショックを受けるのではないか…とご主人と相談の末術後2日目に赤ちゃんに面会になりました。
初めて赤ちゃんを見たお母様は一瞬驚いて、その後「これで会えなかったんですね。なんだ。元気なんですね。よかった。」と笑顔でおっしゃっていました。
その後退院してからも、赤ちゃんを連れて元気な姿を見せに来てくださいました。
幸せって人が決めるものではないんだな…と自分を恥ずかしく思ったのと同時に、母の愛情の深さを感じました。
命って輝いているな…と、そう思いました。
…うまくいえなくてすみません。
なな先生、これからも頑張ってください!!
p.s.いろいろなブログを渡り歩いてここにたどり着きました。産科の先生方の「助産師なんて」の言葉に深く傷ついていました。なな先生のブログに来て、助産師…頑張れる気がしました。先生、ありがとうございました。
お父様のお話に、ジンと来ました。
平凡だけれど、温かい家族愛って、本当にいいものだと思います。
そんな愛情をお持ちの女性がまた一人、どこかの産科医療の現場で働いているんだと思うと、
理由もなく嬉しい気持ちになります。
ゆきちゃんと同じ病気の子は、ほとんどが生きられないのに
何故かゆきちゃんだけは生きて、笑顔を振りまいて
小児科病棟の心ある人たちに、何かを教えてくれていました。
それだけで充分な意味があったのだ、と気づかせて下さる貴重なコメントでした。
ありがとうございました。
fuka_fukaさん(とってもいけている私の友人です)からも
心強いメッセージが贈られていますね(笑)。
私からも追加があります。
1年前の記事ですが、末尾の部分に
帝王切開でお産されることになった妊婦さんに、いつも言っている言葉を載せています。
http://blog.m3.com/nana/20061231/1
私の大切なゲストにやさしいメッセージを贈って下さって
ありがとうございます(^^/
重ねてのメッセージ、ありがとうございます。
心休まる暇は、あるのでしょうか。
お祈りすることしかできませんが、
わんこさんと、お父様、ご家族の皆様が
最高に充実した時間を過ごせますよう、お祈り致します。
> 3人とも、生命の誕生に関われる事が、ほんとうに、幸せだと、話していました。
う~ん、とってもわかる気がします(笑)
産婦人科には、産婦人科にしかない神聖さと明るさがあるのです。
> 妊婦さんは病気ではないので、妊婦さん本人(家族も) マイナスから、とは、感じていないでしょうから・・・。
そうなんですよね。
でも、だからこそ、妊婦さんに独特のわがままさがあるのです。
そこがまたかわいい、などと言うと、受ける罵倒は「あまい!」では済みませんが(苦笑)。
共に頑張りましょう。
ここで皆様が異口同音におっしゃっていたことは
「命って輝いている」
これだったのかも知れませんね。
わくわくさんとスタッフの方たちのお気持ち、よくわかる気がします。
その赤ちゃんとママを面会させることに、慎重になる気持ちも。
私自身は、産婦人科医のひよこ時代に、
母親のような年齢の助産師さんたちにかわいがられて育ったという
幸せな体験があるのです。
そんな時代を経てこそ、今があると思っています。
以前、こんな記事書きました。
http://blog.m3.com/nana/20061104/1
でも、修羅場になると目を吊り上げる、どこにでもいる産婦人科女医です(笑)。
行政の方向が変化して、NICUに十分な数の病床が確保できたとしても、ゆらぎのように、突発的に断られる事態はあるのではないでしょうか。
保育器を減らさないこと。入った人は、退院可能になったらなるべく早めに退院すること。できれば若いうちに出産すること。そんな話を、知り合いにしてきたつもりです。医療や行政だけの責任でない、私たちも出来ることがある、と思うのです。たぶん気持ちを受け取ってくれたのでしょう、大卒でも早めに出産した友人が多いような気がします。
最初の妊娠では、危機管理について何も考えませんでした。体重管理さえすれば安全は担保されていると思っていました。保育器の数、保育器までの距離なんて、考えもしませんでした。できれば、妊娠前のできるだけ沢山の女性に、なな先生のブログを読んでいただけたらいいな、と思います。とてもよい出産前教育になると思います。
さて、NICU。新米母の自分より手際よく世話をして愛着思い入れを持っていただいている看護師さんに、嫉妬を感じていたなんて告白してはいけないでしょうか。短時間にどうやって「親」やればいいのか、当惑していたのを思い出します。折紙で作ってきたこいのぼり、貼って下さいなんていい出せませんでした。その反省に立ち、今はすっかりちゃっかり力を身につけました。
助産師のななさん、私は、結論を出すことが大切だとは思っていません。これから産む人、障害を持つ人、その家族、医療者、法曹関係者、行政、みなで問題を共有化しあうことが必要だなぁと思っています。個人的には選択的治療停止について、一般人がもっとよく、当事者になる前に知っておくといいな、と思っています。
>心休まる暇は、あるのでしょうか。
こうやって話を聴いて下さり、助言して頂けるだけで平穏な気持ちになります。
この事は、両親と私の他には日頃から相談に乗ってもらっている友人と、以前お世話になったメンタルのドクターしか知りませんが、ドクターからは「困った事があったら、いつでもいらして下さい」とのお言葉を頂いているので、心強いです。
>最高に充実した時間を過ごせますよう、お祈り致します。
ありがとうございます。
そしてなな先生、過去の記事のご紹介有難うございました。
自信を持って出産に臨みたいと思います。
おっしゃるように、今よりもNICUが充実したとしても、
突発的に断られる例は出てくると思います。
しかし、受け入れ不能をゼロにするには、過剰供給にする必要があります。
個人的には、そこまでやらなくとも、児の予後に影響しない程度の体制が整えばいいのではないかと思っています。
> とてもよい出産前教育になると思います。
ありがとうございます(笑)。
こんな時代だからこそ、女性が夢を持って妊娠・出産に臨めたらたらいいな、という願いを籠めて、
文章を綴っています。
「言霊」という言葉があります。
こうして文章にするだけでも、ちょっといいことあるのでは?と思っています。
お腹の赤ちゃんにもよろしくお伝え下さい(^^/
なな先生、横レスでごめんなさい。先生のこのテーマとても真剣に考えさせられました。以前、高齢出産して元気な子をさずかったことを書かせていただきました。その上での発言です。
「ちょっとひねくれてます」さんの保育器の資源の発言は私も同感でです。でも先天的な障害を持った子供を授かることを「高齢」だけに責任があるような発言を繰り返されることには違和感を感じます。42歳で初産で元気な子を出産した私は。
悲しいけれど若くても予後の悪いお子さんを出産せざるを得ない方も大勢おられます。それは誰の責任でもないそれこそ神の領域です。話はそれますが、お世話になった助産師さんは保育器が1個しかない場合、22週の生存限界で生まれた子と満期で元気に生まれたけど多呼吸で数日保育器管理が必要な子がいた場合、後者が優先される、悲しいけどそれが現実だと話してくれました。今でも時々考えさせられています。
私の周りにも、けいさんのように40歳以上で元気なお子さんをお産された方は、少なくありません。
児に障害に関して、「高齢だけに責任がある」とするのであれば、科学的にも間違っているでしょう。
しかし、高齢がひとつのリスクとなり得ることは、学術的にも認められつつあります。
http://obgy.typepad.jp/blog/2007/07/post_42a6.html
何歳でお産をするかは、その人の人生の根幹に関わる重大なな問題です。
個人的には「お産は若いうちの方がいいですか」とアドバイスを求められても、
明確に答えられずにいます(笑)。
私は、2月に第二子の女の子を出産しましたが
陣痛促進剤を使ったとたん、子宮破裂して子供は
脳死状態になりました。
第一子は普通分娩で安産だったので、お医者さまからは
原因不明ですといわれました。
今は、NICUにいます。
延命治療の件ですが、よくテレビなどで見ている時は、
それは、その子にとって辛い事だから反対でした。
でもいざ自分の子がそうなると、考え方が少し変わりました。
といっても、何がなんでもどんな状況になっても治療をして下さいというのではなく、この子が生きようと努力しているかぎり、最低限の治療をと望みました。
私自身、大出血だったみたいで、死んでいてもおかしくありません。目が覚めて、話を聞いた時、生きていて良かったと、死にたくないと思いました。
きっと、この子も生きたいと思ったから、こんなに頑張っているような気がします。
反応は、まったくないはずなのに、私には、毎日、表情が違うように見えます。鼻からチュウブをいれるといやだとでもいうように少し動きます。
私が面会に行く時間に限って、消化が悪かったり、酸素の値が悪かったり、まるで心配をしてって言っているようです。
気のせいだといえば、それまでですが、私には、そう見えるんです。
いつまで生きてくれるか分からないけど、今は在宅治療にむけて練習してます。
まだ不安だらけですが、いろんな人達にささえられて頑張っています。
面会にこないご両親の気持ちも分からなくは、ないですが、自分の子だと、認めたくはない気持ちも分かりますが。
一生、後悔が残るのにと、そのお子さんも可哀想ですが、
ご両親が心配ですね。
なな先生、私は、我が子を助けようと頑張ってくれた、先生方に、どんな結果であろうと感謝しています。
こちらに頂戴したコメントも、もちろん読みました。
お返事、まとめて新記事の方に書きますね。
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