雑誌記事母をまだ捨てられないAERA9月 2日(火) 16時35分配信 / 国内 - 社会感情の起伏が激しい母と穏やかな父の不仲におびえて、いつでも母の後ろを歩いていた。 鮮明な記憶は、4歳の時。 「おかあさん」 と、家の中で母に後ろから抱きついた。 両手でふりはらわれた。 目元と額がよく似ていると言われた父とはウマが合った。5歳の時、散歩に出かけた父と娘を、母は鬼のような形相で追いかけてきた。 ――お父さんと仲良くすると、お母さんは不機嫌になる―― そう悟った。 東京都在住のミサトさん(49)は、40歳前まで母をふりはらえなかった。 東京郊外の雑木林を切り開いた造成地の家で育った。 母の意向で、近所の子どもたちの中で一人だけ私立の小学校に通った。母は少しでも成績が下がると不機嫌になるのに、 「人前で、できますとか、知ってますとか言っちゃダメ」 と、目立つことを戒めた。 人づきあいが苦手な母は、娘が友だちと遊ぶことも禁じた。本の世界に逃げ込んだ。雑木林の虫が友だちで、学校の教室ではいつもひとりだった。 離れたい一心で結婚 高校時代、小1から抱えていた神経痛の診断を受けた時、医者から「精神的なもので、治らない」と言われた。 進路を決める高3の時、両親が勧めたのは、薬学部進学。自分におぶさるつもりなんだと気がつき、卒業まで勉強しないというストライキを続けた。母の希望で、しぶしぶ受けた名門女子大学のみに合格した。 女子大卒業後、大手建築会社に就職した。母から離れたい一心で26歳で結婚。しかし結婚生活は4年で破綻し、それに乗じるように実家とは音信を絶った。水商売、飲食店、コンピューター関係。食べるためにいろいろな仕事をした。 その間も、母とのことを繰り返し自問した。 ――母は勉強ができたから自分を可愛がっただけなのか。父に似た自分を愛せなかったのか。 答えはなかった。 呆けてくれて解放 今年、母親との関係に悩む女性に向けた本が相次いで出版された。カウンセラーの信田さよ子さんや、精神科医の斎藤環さんが母娘関係に改めて光を当てた。 幅広い年代の女性に重く受け止められたのは、『100万回生きたねこ』で知られる絵本作家佐野洋子さんの『シズコさん』だ。8万部近く売れている。 今年70歳の佐野さんは、2年前に93歳で亡くなった母との日々を、ユーモアを交えながら淡々と綴った。 始まりは4歳の時。 〈手をつなごうと思って母さんの手に入れた瞬間、チッと舌打ちして私の手をふりはらった〉 遊びに行くのを許されず、水くみやおしめ洗いと、雑用をさせられた少女時代。頑張って合格したのに、「受けるだけって云ったでしょ」と突き放された中学受験。自分のイラストが採用されたデパートのポスターを喜んでもらおうと見せて、無視された社会人1年目。 でも捨てられなかった。同居する弟の嫁と折り合いが悪ければ自宅に引き取り、「母を金で捨てた」と自分を責めながら、高級老人ホームの費用も出す。 晩年、母は話している相手が誰だかわからないくらいの認知症になった。2人は「ごめんなさい」と言い合った。そこで初めて解き放たれた気がした。 〈母さん、呆けてくれて、ありがとう。神様、母さんを呆けさせてくれてありがとう〉 母と娘は、なぜこれほど難しく、哀しいのだろう。 自分の人生への後悔 いま30代前半の娘なら、母親と「友だち親子」にもなれる。服も共有し、絵文字でメール交換。悩みも打ち明け合う。 しかし40歳前後の女性たちの母は、戦前や戦中生まれだ。 自立できなかった。夫を愛せなかった。自分の人生への後悔が澱のように残っている。「だから、あなたが」と、娘の人生に自分を投影させる。逆に恵まれた時代に生きる娘に嫉妬する母もいる。 愛してくれているんだろう。でも、お母さん、お願いだからもう放っておいて。 アラフォーの娘たちが、心の中で悲鳴を上げている。 冒頭のミサトさんは36歳の時、一冊の本を手に取った。カルト集団を分析して、実践的な脱出法を説いた翻訳本だった。そこに書かれているカルト集団は自分が囲われてきた家族であり、母は支配者だった。 母との関係が整理された気がした。霧が晴れたようだった。 39歳で再婚して、今は3児の母だ。社長秘書の仕事と家庭を両立し、ママ友もできた。母親とは、盆暮れに顔を合わせる程度のつきあいになっている。今でも内心では、愚かな女性だと突き放している。 髪や顔に触らせない 東京近郊に住む主婦ナオコさん(41)は、母に捨てられた感覚を引きずってきた。 小学校に入るまで、九州で父方の祖母に育てられた。彼女がお腹に宿った時、父は念願の海外留学に行く直前だった。母は、子どもは諦めろという夫を説得して出産。しかし、 「子どもを置いて、オレの世話をしなければ離婚だ」 と言われ、1歳の娘を姑に託して夫を追った。記憶にあるのは、見知らぬ街の両親の写真に話しかける自分だ。 5年後に両親が帰国して一緒に暮らし始めると、一転して母の支配が始まった。 身体が弱い娘が病気になることが面倒で、母は家から一歩も出さなかった。家では毎日のように、父についての愚痴を聞かされた。 外出は必ず母親と一緒。しかし爪を伸ばして女優のように着飾った母は、セットした髪や顔に娘が触ることを許さない。 母の好みで選んだ外出着に革靴。流行っていたスニーカーは履けなかった。2人は近所で「外国帰り」と陰口をたたかれ、学校でもいじめられた。 中学でも成績は優秀で、機転がきく優等生だったが、操り人形のような扱いは変わらない。 「ママはあたしを本当は愛してないんじゃないか」 共に泣いてほしかった そんな疑問が母に対する暴力に形を変えた。馬乗りになって痣ができるまで殴ったこともある。黙って殴られる母が、自分を無視している気がして、ますます逆上した。父は自室で音楽を聞いていた。 そもそも両親は不仲だった。ナオコさんが大学生になる頃には、寝室どころか食事まで別になっていた。3人で仲よく食卓を囲むことが夢だったが、クリスマスでさえ叶わなかった。 大学で心理学を学んだのも、家族を立て直したい気持ちからだった。が、30歳の時、父が急死。埋めきれない喪失感を覚えた。職場では、家族内でそうであったように、周囲の人間関係に気を使い過ぎて心をすり減らした。30代前半でうつ状態になった。 29歳で結婚した夫が支えてくれた。夫は母性のようなおおらかさを持っていた。自分の家族がほしいと切実に思った。それは「子育ては大変だから」と、出産に反対してきた母を裏切ることでもあった。 今年、初めて妊娠したが、3月に9週で流産した。病院に来た母は「元気出していこうよ」と場違いな明るさで励ました。一緒に泣いてほしかったのに……。積年の思いをぶつけた。 「私を日本に置いて行ったことを、一度でいいから謝って。それで気が済むから」 母は冷たく目をそらした。いい年をしてまだ母にこだわり、許せない自分が悲しかった。 子どもを産んだら、母と決別できて、母の束縛と自分への嫌悪感から解放されるのではないか。 7月、次の妊娠に備えて子宮筋腫の手術を受けた。 巨大な餃子の弁当 母が無自覚なだけにやっかいなのは、娘との同一化だ。同性だから起きる「生き直し願望」は、まるで二人羽織のようだという。 元市議会議員のアキコさん(41)の70歳を超えた母は、7人きょうだいの末っ子。1歳で里子に出され、子どものいない夫婦に育てられた。子どもを産めない女性に対する世間の目に反発していた養母は、里子の母をことあるごとに、 「あんたはダメだ」 と否定して育てた。 母は母で、結婚してからも、生みの親に対する「自分を捨てた」という怒りを抱えていたのだと思う。 アキコさんが幼稚園の頃、弁当箱を開くと巨大な餃子のような料理が入っていた。きれいに飾られた友だちの弁当を横目に、ふたを閉じた。家では料理は得意なのに……。女の子らしく身なりを整えられた記憶もなかった。 「不完全な自分でも認めてほしいという甘えだったのか。自分ができなかったことに対するねたみだったのか」 母は30代で体調を崩して仕事をやめて、地域の市民運動に打ち込んだ。芸術系の高校を出たアキコさんが、団体職員を経て市議に当選した時は、わがことのように喜んだ。 支援者との集まりにやってきては、娘の話に過剰な相づちをうち続けた。その度にぞっとした。母は娘によって自分の人生を生き直していたのだと思う。 この7月に出かけた海外旅行では、土産物店で、娘の後をついて、まったく同じ物を買った。配るあてもないのに。 延命装置外しを妄想 歩いて5分の距離に住んでいる。1歳の娘がいるので、助かっている。でも同居も介護もできないと思う。母が自分の体に乗り移ってくる不気味さを、40歳を超えても感じる。 「母の死期が近づいて、延命装置を外す時は、私がやりたいとずっと妄想しているんです」 都内に住むデザイナーのマキさん(41)は、頻繁に母が死ぬ夢を見る。泣きながら目を覚ます。 離婚したのは6年前、35歳の時だった。 「やっぱりあんたも男性を見る目がなかったんだね」 当時還暦を過ぎたばかりの母は言った。母もマキさんを産んで1年後に離婚していた。7年後に母が再婚するまで、母の実家で暮らした。 母の家族は、校長だった祖父を筆頭に教員一家だった。母だけが大学受験の時に体調を崩して、教師になれなかった。 母は、小学生の頃から、家に連れてきた友だちを、あれこれ批評した。中学の頃から、男女交際や遊びに口を出す母が疎ましく、自分のことを何も報告しないようになった。 実家近くの進学校から東京のキリスト教系の私大に進んだ。地元の国立大の教育学部を受けるように言われたが、自宅通学を条件に認めさせた。東京で就職し、結婚を決めた時も、直前まで明かさなかった。 3歳年下の会社員の夫は、子どもを欲しがった。しかし自分たちのような心が通わない親子になるのが怖くて、産む気になれなかった。もともと酒乱気味だった夫は酒を飲んではからんだ。2年で別れた。 離婚後、両親は実家の近くから引っ越した。世間体を気にした気配があった。 「親がそうだから娘も離婚したと言われたのだとすれば、すまないと思う。父は他人。もし母が亡くなったら、孤独になるとは思うのですが……」 母の借金を肩代わり 寄りかかる母から逃れようとすると泣かれてしまう。母の涙を見ると、動けない自分が歯がゆく、不憫でもある。 九州の主婦タカヨさん(41)は、今年の3月、階下に住む70歳の母に泣かれた。 自営業の夫と2人の子どもの4人家族。2年前、二世帯住宅を建てた。家賃は気持ちばかりしか受け取っておらず、母の財布には余裕があるはずだった。 しかし、娘が家計をやりくりして家のローンを払っているのに、母は呉服屋におだてられて着物や鼈甲を買い、300万円のローンを組まされていた。 ぶち切れた。今度借金をしたら殺す。そう告げた。家賃分を返済に充てるしかなかった。 一番古い記憶は4歳。父とお金のことで喧嘩して家を飛び出した母に手を引かれて暗い夜道を歩いていた。 「もう死んでしまおうかねえ」 立ち止まってつぶやく母を、 「死ぬくらいなら別々に暮らせばいい。きっと大丈夫だよ」 止まらない愚痴に耳を傾け、なだめ、母を家に連れ帰った。 タカヨさんが7歳の時に父が急死し、生保の営業として働き始めた母は、ある宗教に入信した。近所に住む宗教団体の役員は、子どもにも入信を勧めに何度も訪ねてきた。 ある日、役員の女性は入信を拒むタカヨさんに対して怒り出した。玄関先で泣き出した。しかし、気づいているはずの母は台所から出てこない。母への思いが、すっと醒めた。 名前の「孝」の字が重い 高校卒業後は実家から遠い大都市での就職を望んでいたが、 「ひとりで、どうしよう」 と泣く母を見て諦めた。 23歳の時は、結婚に反対されて泣かれた。相手の職業や家族が不満だという。デートで少し帰りが遅くなると目も合わせてくれない。彼のアパートにいると、無言電話をかけてきた。 5年後、会社社長の親戚である男性と結婚を決めると、手放しで喜んだ。しかし遠くに暮らすようになると、母は「寂しい」と愚痴った。だから無理して、二世帯住宅を建てたのに。 投げ出したいと何度思ったことか。名前には親孝行の「孝」という字が使われている。 でももう十分に親孝行はしたよね。まだ私に寄りかかるの? 思い切って、母から離れてしまいたい。文字通りの距離を取ることが、解放の第一歩だと娘たちは思う。一時期でもいい。最後まで、母娘の間を断ち切ることはできないのだから……。 長く離れて暮らし、結びつきを強めた母と娘がいた。 都内の出版社に勤める編集者の弘由美子さん(59)は、50代になって、母からこんな問いかけをされるようになった。 「私はあんたがいて心強いけれど、あんたが年をとったときはどうするの?」 それがきっかけで、東大大学院教授の上野千鶴子さんに、シングル女性が老後を過ごすためのハウツー本を依頼した。 今年87歳になる母は結婚せずに、美容師として弘さんと姉を育てた。子どもの頃、クラスの子全員を誕生会に呼んでくれたし、お弁当を持たない子の分まで持たせてくれた。保守的な熊本県でも、シングルマザーの子であることに、何の引け目も感じなかった。 「あんたのそばがいい」 18歳で東京に出たいと言った時も、送り出してくれた。4年の約束だったが、短大卒業後に編集者になり、仕事に夢中になった。母は娘が帰ってくる時のために実家も改装し、愚痴一つこぼさずに待ち続けた。 30代、弘さんにも一緒に暮らした人がいた。しかし結婚はピンと来なかった。そもそも養われるという感覚がない。それに結婚すると相手の両親のことも考えなくてはいけない。 3年前、母が暖房のかけすぎで脱水状態になり、病院に運ばれた。意識がなく、親戚から「ダメかもしれない」と電話があった。飛行機に飛び乗った。 ――いつかは母の元に帰ると思っていたのに、もし今お別れになったら、一生後悔する―― 一命はとりとめたが、足が不自由になった。毎週末の遠距離介護が始まった。金曜の夜に熊本に入り、日曜日に帰京する。そんな生活が1年続いた頃、5年越しで頼んでいた上野さんの原稿が届くようになった。定年前の大きな仕事として、本の編集に集中したかった。 「東京に来てくれる?」 「あんたのそばがいい」 母は東京に引っ越し、介護施設に入った。母を側に置いて編集した『おひとりさまの老後』は、大ベストセラーになった。 母の入院以来、母と向き合う時間のかけがえのなさを知った。週末は、公園で弁当を食べたり、車で郊外のレストランに出かけたり。 来年、母は米寿で娘が還暦を迎える。 (文中カタカナ名は仮名) (9月8日号)
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