マーティン・ロイドジョーンズ博士
ロンドンのウェストミンスター・チャペルでの説教を通じて、イギリスの福音派に多大な影響を与え、戦後の改革派神学の復興に寄与したマーティン・ロイドジョーンズ博士の著書『あふれる喜び』を再読した。これは、聖公会の高沢司祭が、個人的に訳しておられたものを、何年か前に頂戴したものである。
幸か不幸か、今日は、おたふく風邪にかかって、出勤停止となったために、思いがけず、書棚から取り出し、目を通すこととなった次第。
ロイドジョーンズ博士と言えば、前世紀における連続講解説教のチャンピオンであり、コチコチのカルヴァン主義の権化のようなひと、というイメージがある。しかし、博士の著書を読むと、それが、まったくの誤解であることが、よくわかる。
『あふれる喜び』において、ロイドジョーンズ博士は、「聖霊のバプテスマ」を受けることの必要性を、繰り返し、繰り返し、力説しておられる。著書の内容は、概略、次のようなものである。
・イギリスの福音派の諸教会、特に、改革派教会は、正しく健全な教理、正しく健全な講解説教、正しく健全な教会組織、正しく健全な伝道方法を持っているにもかかわらず、その信仰生活は、退屈で無味乾燥であり、内なる炎・輝き・神の臨在の感覚・聖霊の力を欠如している。それゆえ、「聖霊のバプテスマ」を、求めなければならない。
・「聖霊のバプテスマ」は、回心・新生とは、まったく別のものである。
・「聖霊のバプテスマ」は、聖化とは、まったく別のものである。
・「聖霊のバプテスマ」は、聖霊の賜物とは、まったく別のものである。
・「聖霊のバプテスマ」は、主観的な体験であり、それを受けたひとは、確かに受けたことが、自分でそれとわかる。
・「聖霊のバプテスマ」は、客観的に観察される現象であり、それを受けたひとの周囲にいる人は、確かにそのひとが受けたことを、人目で見てそれとわかる。
・「聖霊のバプテスマ」に伴う外的証拠は、強い臨在の感覚、光輝、喜悦、容貌・容姿の変化、祈り・説教・会話にみなぎる確信と力、霊的迫力、異言、倒れて意識を失うこと、など、さまざまなかたちで現われるが、けっして一様ではない。
・「聖霊のバプテスマ」は、それを受けたひとに、「神の子とされた」との内的な確信・確証を与える。
・「聖霊のパプテスマ」は、信仰生活に確信と喜悦と活力をもたらす。
・「聖霊のバプテスマ」は、キリストを力強くあかしし、宣教するために与えられる。
・「聖霊のバプテスマ」は、偉大なリバイバルを引き起こす。
・「聖霊のパプテスマ」は、飢え渇き求めるひとに、キリストによって与えられる。
・「聖霊のパプテスマ」は、神が主権的に与えるものであって、人間の人為的・心理的操作によってだれかに与え得るものではない。
ロイドジョーンズ博士は、次のように書いている。
わたしは聖霊のバプテスマを強調します。なぜなら、教会の混乱の主要な原因は、多くの教会で、聖霊の臨在と聖霊の力が忘れられているからです。わたしたちは、極度に儀式張って、単なる形式だけに成り下がり、それと共に、すべては極端なまでに整えられ、組織化され、すべては人間の統制下に置かれ、目に見える証拠としての聖霊の力と栄光、尊厳と神聖とを、忘れてしまったのです。聖霊のお働きを現実化していくことこそ、教会にとって最も必要なことであると、わたしは確信しています。
教会は、すぐに組織化する傾向があります。集会を組織し、伝道キャンペーンを組織します。しかし、それは、聖霊のバプテスマを忘れているからです。聖霊が来られると、目に見えて現される証拠は、間違えようがなく、その結果は仰天するような、ものすごいことなのです。
聖霊のバプテスマは、それを受けたひとが語る言葉に、効果を及ぼします。公の席での説教だけでなく、個人的な会話にも、影響を及ぼします。
この百年間で、説教者を養成するために最も本質的なことは、学問的な教えや研究であるとして、それらに強調点が置かれてきました。このことは、完全に途方もないほど、馬鹿げています。そのような歴史の方向を作った1850年代から現代に至るキリスト者は、神の永遠の裁きの座において、何らかの責任を問われることになるでしょう。
もし、聖霊のバプテスマを無視するなら、残りのすべてのことは、まったく役に立たなくなってしまいます。聖霊のパプテスマを無視して来たことにより、ある意味で、教会は空虚なものとなりました。わたしたちが新約聖書に立ち帰り、初代教会の手本に戻るまで、わたしたちに希望はありません。それが、聖霊のバプテスマなのです。
ロイドジョーンズ博士によれば、「聖霊のバプテスマ」は、第一の転機としての新生とは別物であり、また、第二の転機としての聖化とも別物であり、何らかの外的証拠を伴うが、必ず異言を伴うというわけではなく、個人に内的確信と光輝と喜悦を与え、力強いあかしと宣教を可能にし、リバイバルをもたらすものである、ということである。
おそらく、この定義は、後期ホーリネス派から古典的ペンテコステ派への過渡期における聖霊論に、非常に近似している、ということになろう。つまり、あの偉大な、ウェールズのリバイバルにおいて見られたような聖霊論である。
福音派は、聖霊のバプテスマを、新生と同一視してしまう。
きよめ派は、聖霊のバプテスマを、聖化と同一視してしまう。
聖霊派は、聖霊のバプテスマを、異言と同一視してしまう。
ロイドジョーンズ博士によれば、そのいずれもが、間違いであり、新約聖書的ではないのだ。
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